冬のてふ かすかにも聞く 神の声 夢詩香
*もうここではめったに俳句をやらなくなってしまいましたね。どうしても、ツイッターの方でおもしろい歌ができるものですから。だがたまには俳句もとりあげないといけません。新作はできていないのですが、わたしの在庫のノートにもまだたくさん句があります。
この項を発表する頃にはもう12月になっていますから、もう蝶など見ないでしょうが、これを書いているのは11月の下旬です。つい最近まで小さなシジミチョウが飛んでいました。陽だまりの花畑などに小さなかけらのような蝶が安らいでいた。もうそろそろ秋が終わるのだということに気付いているのかどうか。少し傷んだ翅を閉じて、花の近くに静かに止まっていた。
こんな小さなものにも生がある。蝶は、寒さがきたせいでしょう、あまりよく動けない自分を感じてすこし憂えているかのようだった。
虫はいつの間に消えていくものでしょう。気づけばいなくなっている。一段と冷たくなった風に震えながら、去年のセーターなど出して重ね着し始めるころには、もうだれもいない。
毎年わかっていることだが、繰り返し経験するたびに、不思議に思います。春がくればまたあの美しい蝶と出会える。とこしえの硬いちぎりのようにそれは繰り返される。何のために神はそのようなことをやってくださるのか。
わたしたちの幸せのためなら、どんなこともやってくださるのだ。
たったひとひらの蝶にさえ、神の声は届いている。切なくもやさしい声で、もうそろそろ終わるぞと。心配はない。何もかもをやってやるから、安心して死ぬがよい。
蝶は冬の風に溶けるようにいなくなったが、その命と魂は消えたわけではない。冬を耐え忍ぶことを繰り返し教えるために、神はずっと見えない愛の中に抱いて下さる。
なぜそのようなことができるのだろう。
季節がめぐるたびに思う。