
いつの間に 我を訪ひ来し 黄水仙 夢詩香
*この家の庭の隅には、毎年一群の黄水仙が咲いてくれていました。植えたわけでもないのに、いつの間にかやってきて、咲いてくれるようになったのです。
かのじょがそれを見つけたときは、とてもつらい時期でした。いろいろなことが重なって、生きるのが苦しくなりすぎたころだった。その頃に、まるで神の贈り物が来たかのように、庭の隅に黄色い水仙が咲いてくれた。
かのじょは心にきれいな水を吸い込むように、喜んだのです。つらい日々を乗り越えていける材料が増えたと、喜んでいたのです。
花というものにも、魂があります。だいたい花は毎年同じところに咲いていて、その周りにいる人間たちに語り掛け、助けています。ただ時には、特別な活動をしている花もいます。
この黄水仙は、かのじょという天使を特別に愛して、かのじょが生まれてくるたびに、近くに来て咲いてくれるのです。かのじょの前世の人生においても、この花はそっと近くに来て咲いてくれていました。そのときの人生では、かのじょは男性で、とても厳しい人生を送っていたので、花にはほとんど気付きませんでしたが、この水仙は心を添わせて、かのじょを助けてくれていたのです。
なぜそんなことをするでしょう。もちろん、愛しているからです。愛しているから、追いかけずにいられないのです。
愛しているものを、追いかけたいと思うとき、それに無理に逆らうのは難しい。かといって、無理に追いかけて、愛するものを苦しめるのもつらい。そんなことに悩むときは、この黄水仙の生き方を参考にしてください。
花のように何気ないものになって、愛する人の世界の隅に、そっと咲くのです。気づいてくれなくてもいい。ただ、愛するためにそばにいたいからいる。それだけでいいと言って、影から愛するもののために、できることをすべてやるのです。
この黄水仙は、相当に昔から、そういう活動をしていたらしい。そして、最後のこの人生になって、かのじょがようやく気付いたのです。いつも自分の人生に、この花と同じ美しい心の気配があったと。それはあなただったのかと。
愛は愛するものを苦しめるものであってはならないから。あまりに美しい愛をささげなければならないときは、隠れていなければなりません。それでないと、愛するものを苦しめてしまう。
あの人がつらく思わないように、恥ずかしがらないように、見えないところから、愛していきなさい。それであの人が幸せになってくれれば、それでいいと思いなさい。馬鹿なことではない。なぜなら、神はそのような愛を必ず見つけてくださるからです。
あの人が、水仙のあの愛に気付いてくれたように。
なお、今年は、あの黄水仙は咲いてくれませんでした。かのじょがいなくなったから、もう去ってしまったらしい。ゆえに写真は、2013年のものです。
さみしいですね。