余と君の 間に咲ける 白百合の 面にぞ見る 君の痛みを
*これはかのじょの作品です。2013年、自分の奥から彼が出てきたころのものです。残念ながら白百合の写真がないので、同じ白い花ということで、これで許して下ださい。
「面」は「おもて」と読みます。読めると思いますが、一応。
あなたとわたしの間に、白い百合の花が咲いている。その顔に、あなたの痛みが映っている。今のわたしの苦しみを見て、あなたが苦しんでいる。そのことがわかるのがまた、苦しい。
感受性の深い人だ。まるで女性のようです。男なら、ここまで深く思う前に、足を蹴って向こうに行く。そして何かを始める。男は自分の悲哀など自分で何とかするものだと、思うからです。
だがこの人は、愛する者の苦しみの前に、しばし立ち尽くしてしまうのだ。その苦しみを解くために、何かをしてやりたいと思うのに、何もできないことに、しばし呆然としてしまうのだ。
弱い。
素直だが、あまりにも愛らしい。これで男であるのが、きつい。女性ならばまだ救いがある。女性は弱さの裏に消滅を防御する厚い壁があるからです。
だが男にはその壁がない。ゆえに、自分を消えて行かさないために、この人は自分が鋼鉄のように硬くなければいけないのだ。そのことに、男の強さをほとんどすべてつぎ込んでいると言っていい。
神のなさる創造とは、時に切ないまでに痛い。
こんな自分を生きるのは、馬鹿でなければできないと、かのじょは時々言います。なぜ自分が生まれたのか。なぜ自分はこのようであるのか。永劫の未来に、自分にどんな運命が待っているのか。そんなことを考えていては、生きてはいけない。
賢くなることは大事だが、痛いところは馬鹿になっていた方がいい。自分のことがすべてわかるときなど、永遠に来はしないのだから。
それがわたしたち。自己存在というもの。