ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

とこしへのやみ

2019-08-16 04:41:04 | 短歌





いつはりの かほを捨てよと きこゆれば ためらふ人の とこしへのやみ





*最後の7が少し弱いですね。

意味としては、まよひの奈落、とか、回転地獄、とかがいいような気がするが、それだときつい。迷った末に、「とこしへのやみ」にしたのですが。

嘘のつくった顔を捨てなさいという声が聞こえたら、ためらってそれをしない人は、永遠の闇の中にいる。

うーん、意味としてはやはり、回転地獄、がいいですかね。ちょっと書いてみましょう。

いつはりの かほを捨てよと きこゆれば ためらふ人の 回転地獄

どうでしょうか。少しいやらしくなったかな。

まあとにかく、言いたいのは、嘘の顔を捨てて本当の顔に戻りなさいなどと言われたら、嫌がる人は、永遠の回転地獄の中にいるということです。

嘘でもきれいになりたい。だけど嘘は美しくない。美しくない自分はいやだ。嘘でもきれいになりたい。だけど嘘は美しくない…

もう何度も言われていることですね。偽物の美人は永遠にこの苦悩の繰り返しの中にいる。これをここでは、とこしへのやみといったり、回転地獄だといったりするわけだが。

この地獄から救われるには、嘘の顔を捨てて本当の自分の顔にもどり、その顔を正しくまっとうに生きていくよりないのです。

その顔は、実に自分そのものを表している。どんなことをしている人間かがまるわかりという顔なのです。それを見るのは痛いでしょう。神に本当の自分を言いぬかれるようなものだ。しかしそれこそが本当の自分なのです。

偽物の顔をかぶり、永遠の闇の中で呻吟しているよりは、本当の自分の顔に戻って、すべてを失ってでも、本当の自分を生きていくほうが美しいのです。それこそが、神の心の元、まっすぐに生きていくということだからです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たまをぬく糸

2019-08-15 04:38:44 | 短歌





たまをぬく 糸絶えはてて われならぬ ものとなりにし 馬鹿者の悔い





*これは、かのじょのこの歌を念頭に置いて詠まれた歌です。


わがたまを つらぬく糸の 細かりて 絶ゆるなきそを まこととぞいふ


わかりますね。たまをぬく糸というのは、霊魂(たま)を支えている愛のことです。その細くても切れるはずのない糸が、切れてしまって、自分ではないものになってしまった、馬鹿者たちの後悔であることよ。

残念ながらこの、「馬鹿者の悔い」が弱いですね。言いたいことはわかるが、わたしならもっときつい言い方にしたい。しかしこれ以外に思い浮かぶ言葉と言ったら思いつきません。

まだまだスランプから抜けるのには間がかかりそうです。

それはさておき、人間の霊魂というものは、限界を有する機能体であり、無理をさせすぎれば壊れてしまうものです。そういうことは少し前にツイッターで大火が教えていましたね。

自分を嫌がって、自分の本質である愛を剋することばかりしていたら、本当に自分が壊れてしまって、本当に自分ではないものになってしまうのです。

そうなってしまっては大変なことになるのです。永遠に人間ではないものになり、神が創ってくださった人間の永遠の未来をすべて失うことになる。つまりは、人間から天使に進化し、また永遠に進化していって、神にもなることができるという、自己存在の進化の正しい未来をすべて失うのです。

人間が壊れてしまうと、いったい自分は何になるのかを、自分で創造しなくてはならない、そういう者になるのです。

簡単に言うが、簡単なことではないのですよ。ものすごくつらいことがあるのです。それはここでは表現できないが、とにかく、人間を落ちたらもう永遠に、人間であることの悦びを歌えなくなるのです。

そうなる前に、馬鹿なことはもうやめねばなりません。人のものを盗んで自分とは違う自分になりたがるというようなことを、すっぱりとやめねばなりません。

たとえどんなに苦しいことがあろうと、本当の自分を生きていったほうが、永遠に自分を失うよりはずっといいのです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あやしきゆめ

2019-08-13 04:37:51 | 短歌





かくすれば かくかへりこむ さざなみの あやしきゆめを 見つつたたずむ





*「さざなみの」は「寄る」や「夜」「あや」「あやし」などにかかる枕詞ですね。ふつう枕詞は訳しませんが、ここでは意味が生きています。

こうすれば、こう返ってくるだろう、さざ波のように。そのあやしい繰り返しの夢を、見つつ人は立ち尽くしている。

法則というものは、因果応報の法です。人間、自分のやったことは、みんな自分に返ってくるのです。それを知らない人は、法則の反響の中で、いったいなんで自分がこんな目に会わねばならないのかと、わけもわからず呆然とするばかりなのだ。

人間は法則というものを確かに学んでいないので、バランスも考えずにひどいことをしすぎて、自分で法則の罠にはまり、自分の不幸を招いてしまうということが多いのです。それでどうすることもできず、法則の波に倒されてしまう。

そしてまた、苦しいことをしてしまい、また反動を浴びる。自分のすることが自分に返ってくるということが永遠にわからないのか、永遠に馬鹿を繰り返すのか。しかしもうそろそろ、理解しましょう。

やったことは全部自分に返ってくるとわかったら、後先のバランスを考えて物事をやりましょう。自分がつらいからと言って、人を馬鹿にしてばかりいると、痛いことになって返ってきます。

なぜ人は人を攻撃するのか。その根元にあるものは、たいてい嫉妬です。人が、自分ではないからというだけで、自分よりよく見え、人は嫉妬するのです。そして互いに傷つけあい、法則の文様が跳ね返り合って、永遠に続くかと思われる苦悩の連鎖が始まる。

ここから救われるためには、人は自分というものを立て、自分というものを正しく見て、嫉妬して攻撃することの愚を悟らねばなりません。そして法則の反動を何とかするべく、いいことをしていかねばなりません。

いやなことにはいやなことが返ってくるように、いいことにはいいことが返ってくるからです。それで法則の反動をなんとかすることができる。

この世界は、因果の法則が永遠に反響していく世界。そろそろ人間も、その波を上手に乗っていく勉強をはじめなくてはなりません。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まよひのつち

2019-08-12 04:35:04 | 短歌





われならぬ われをもとめて とこしへの まよひのつちに いりぬべきかな





*「ぬべし」は完了の助動詞「ぬ」と推量の助動詞「べし」の組み合わせで、強い推量・予想を表します。「きっと~してしまうにちがいない」などと訳されます。

自分ではない自分をもとめて、永遠の迷いの土地に、入ってしまうにちがいないなあ。

人間は本当の自分を嫌がり、他の自分ではない自分になりたがって、いろいろなことをしてきました。他人から美貌を盗み、徹底的に自分を作り変えて、それを生きてきた。しかしそんなことを続けていると、ほんとうに、まるでちがうものになってしまうのです。

あまりに本当の自分を馬鹿にしすぎてしまうと、本当の自分の何かが壊れ、本当の自分が何か別のものになってしまうのです。そうなればもう、二度と本当の自分には戻れない。

人間は、ただ本当の自分を素直に生きているだけで、神が約束してくださった美しい未来を生きることができるのです。ですが、本当の自分を嫌がり、別の自分になろうと馬鹿な試みを続けていると、その本当の自分が壊れ、何か違う別のものになってしまい、その神が約束してくれた未来をすべて失ってしまうことになるのです。

それはどういうことか。自分が何になるのかを、自分で創造しなくてはならない、本当に苦しいものになるのです。永遠に、人間ではないものになってしまう。

人間は馬鹿になると、形だけでもとカッコイイ自分になりたがって、自分をかっこよく改造してしまうなどということはよくあることですが、それを続けていると、本当に馬鹿なことになってしまうのですよ。

本当の自分から逃げ続けて、とうとう馬鹿なものになってしまったもの、というものになってしまうのです。


ふたたびと もどれぬわれの かげをひき とはにさまよふ ことひとのむれ


「ことひと」は「異人」、別の人とか、関係のない人とかいう意味ですが、ここでは人間ではなくなった人という意味にして使っています。

永遠に失ってしまった自分を悔いて、永遠にさまよう、人間ではなくなった人たち。

そういうものになりたくないなら、自分以外のものになろうとすることを、今すぐにでもやめねばなりません。たとえすべてを失っても、本当の自分に戻るほうが、賢いのです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もはやゆるさず

2019-08-11 04:38:09 | 短歌





しらはまに よするさざなみ くりかへし うたふこころは もはやゆるさず





*「しらはまのよするさざなみ」までは「くりかへし」を呼ぶ序詞ですね。

白浜に寄せるさざ波のように、繰り返し歌う心は、もはや悪を許さずという。

要するに、わたしたちが何度も何度も教えていることです。この時代、とうとう人類は愛の世界の心の限界を破った。永遠に続くかと思った悪の栄華の時代が終わった。悪を行じて恥じない馬鹿どもは、神の指に選別され、人類を落ちた者として、この世のほかのところへ赴かねばならない。

何度も繰り返し教えるのは、それがとてつもなく大事なことだからです。この時代で、人間は人間と、人間ではないものに分かれるのです。それは、永遠の別れなのです。

このことの重大さがまだわかっていない人が多すぎるので、わたしたちは何度も繰り返し同じことを言うのです。

わたしたちを、この世を騒がすウソツキのたぐいだと思ってはなりません。これは本当のことなのです。それが証拠に人類はわたしたちの指導があって、感覚が進化した。解脱を経験した者もたくさんいる。

神の創造した霊魂の真実に目覚め、愛の本質を永遠に実行していく存在へと、人類は進んでいくのです。

そういう段階を見ているのに、いまだに悪の栄華の幻を見ている馬鹿は、もう人類ではなくなり、この世界を追い出されるのです。

地球世界は愛の世界になる。神はもうご決意なさっている。愛こそがこの永遠の豊穣の世界を創っているものの正体。それを馬鹿にする者は、もうこの世界にいられないのです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やそ神の夢

2019-08-10 04:33:59 | 短歌





ちよろづの ちよろづのくさ いや栄え とこしへに描く やそ神の夢





*こういう繰り返しは、歌ではあまり歓迎されませんが、とにかくたくさんだということを表現したかったので、採用しました。

「くさ」は「草」も「種」もあります。あらゆる生命の種がこの地球上に生きている、ということを表現したかったのです。「いや栄え」は「ますます栄える」という意味です。

千万の千万倍もいる、あらゆる命の種が、ますます栄えて、永遠に描いていく、神の夢を。

神の夢とは何か。それをすべて理解することは難しい。しかしこの愛の世界を永遠に編んでいきながら、あらゆる存在がすばらしい愛の存在になっていく。それが神の大いなる夢の一つには違いないのです。

人間は長い迷いの時代から、ようやく目覚めつつある。そういう段階に入っている。そこで神は、この愛の世界の正体を人間に教えるのです。

どんな生命にも霊魂があり、愛で活動をしているということを。そしてあらゆる命が自分を実行することによって、この世界の創造に貢献しているのだということを。

自然界の総意は、ただただ愛によって、あらゆる自己存在の永遠の幸福を実現していくのです。

美しいでしょう。

人間は感覚が開き、目に見えぬものが見えるようになった。あらゆる存在の中に熱い霊魂がいることを感じられるようになった。自然界はその感覚に訴えるのです。人間もまた、このすばらしい愛の大事業に参加するようにと。

人類はそれに答えなくてはなりません。新たに自分自身として目覚め、自らの意志を、表現せねばなりません。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆふはな

2019-08-08 04:30:50 | 短歌





ゆふはなの 栄えの日々を 振り捨てて まことのわれの 岸をたづねむ





*「ゆふはなの(木綿花の)」は「栄ゆ」にかかる枕詞ですね。木綿花は「木綿(ゆふ)」で作った造花のことです。それが白くていつまでも枯れずに変わらないことから、「栄ゆ」にかかるというのですが、ここでは人工的なもの、という意味も含んで使っています。ちなみに「木綿(ゆふ)」とは、コウゾの樹皮を蒸し、裂いて糸にしたものです。

造花のような偽物の栄光の日々を捨てて、本当の自分の岸を訪ねよう。

つまりは、人間が自分を無理にでも幸福にしようと、人工的につくった自分を脱ぎ捨て、本当の自分にもどろうという歌です。

実際、そのほうが人間は幸せなのだが、たいていの人は、いつまでも見栄えのいい偽物の幸福にこだわって、本当の自分をないがしろにしている。

人間としての本当の幸福は、本当の自分を生きなくては得られないものです。この自分が自分であることの悦び、それこそが永遠の幸福なのです。それを振り捨てでも、偽物の自分をとり、永遠の幸福を棒に振ってしまう。それほど愚かなことはありません。

確かにつらいでしょう。偽物の自分を捨てることは、生皮をはがれるような思いすらするでしょう。嘘の自分で得ていた何もかもを失う。しかしそのほうがいいのです。嘘で得ていたものに囲まれて、いい思いをすればするほど、本当の自分が壊れていくからです。

本当の自分に戻り、不幸のどん底に落ちたほうが、本当は幸せなのですよ。本当の自分を失わずに済む。


われになき ものにならむと とこしへの 夢の地獄と なりにけるかも


自分ではないものになろうとして、人生は永遠の夢の地獄となってしまったことだなあ。

嘘でも美しい自分になりたい。そのために実に汚いことをしている。そんな自分が嫌だから嘘の自分になる。しかしそのために汚いことをしている。そんな自分がいやだ。…とね。人間は嘘の自分を生きる限り、この永遠の回転地獄にいなければならないのです。

そこから救われるためには、偽物の自分を捨てるしかないのです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身捨つる

2019-08-07 04:37:22 | 短歌





少なくも まことのわれを 生きむとて 身捨つる人は われをすくはむ





*この天使まねの流行も、少しは小さくなってきたかと言われていますが、しかしまだまだ沈下のきざしはない。ちまたの馬鹿女は、微妙に手法を変えつつ、しっかり天使のまねをしています。どうしても、天使がいいのです。自分を捨ててでも、あんなものになりたいのです。

なぜなら本当の自分は、何もしていないから。美しくなるための努力など、ほとんどしたことがないだけでなく、ずるばかりしてきて、いやなものになっているからなのです。

そんな自分など捨てて、あの、まるっきり完璧に見える、美しい天使になりたい。それが天使まねの馬鹿女の本音でしょう。

しかしそんなことをしていれば、人間を落ちて永遠にこの世界を追い出される。そこまで来ているのに、馬鹿はまだやめられない。何か不思議な魔法でも起こって、自分がほんとの天使になれはしないかなどと、甘いことを考えているかのようだ。

かのようではなく、本当にそう考えているのでしょう。

ですが、本当の自分から逃げている限り、天使になることはできません。本当の天使は、本当の自分の進化形だからです。逃げることはできないこの真実から、逃げている限り、天使まねの馬鹿女は、汚い偽物であり続ける。

天使になりたい。天使の真似をすれば、自分が汚い偽物になる。そんな自分など捨てて天使になりたい。しかしそれで天使の真似をすれば…、馬鹿女は永遠にこの矛盾から出られないかのようだ。

この地獄から自分を救うには、たとえ今の自分がどんなに小さいものであろうと、本当の自分を生きるために、身を捨てるようにして、偽物の自分を捨てなければなりません。それができる人は、自分を救うことができるのです。が。

それができる人はまれでしょう。偽物の馬鹿女はどうしてもきれいな自分がいい。

たとえ嘘でも、美人の自分がいいと、思っているからです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分以外の

2019-08-04 04:37:55 | 短歌





ずるばかり してる自分が 嫌だから 自分以外の だれかになりたい





*また大火節です。いや、わたしも詠んでるんですがね、それなりの歌を。ですがこの大火節の前には、わたしのほうがだいぶかすんでしまう。古語を使って、少しは格調高くやりたいところなのですが、あまりにきついので、どうしてもこっちを取り上げてしまいます。

人まねばかりしている女性の本音がそのまま歌になっているという例ですね。ずるというのは、他人から美貌を盗んで自分にかぶせ、自分を美人にしているということなのですが。

そういうずるをしていると、自分が汚くなって、とても嫌な感じがするのです。で、自分が嫌になって、他のもっといい人間になりたくて、また人のものを盗む。それで自分はいい人間になれたかというとそうではなくて、人のものを盗んだ自分がまた汚くて、嫌になる。

まあ、自分から逃げている人は、必ずこういう負のスパイラルの中にいるのです。

この苦悩から救われるには、もう一切の嘘を捨て、真裸の自分になり、本当の自分を正直に生きていくのが一番なのだが。

そうすると、自分がブスになってしまうので、それは嫌だと、馬鹿な女は言うのです。

嘘でも美人の顔の方がいい。で、嘘で自分を美人にしている自分が醜くて、苦しい。偽物の顔をかぶっている限り、その苦悩は永遠に続く。


いついはりを 捨ててまことを 生きむとぞ すればおのれの 道はひらかむ


本当の顔に戻れば、すべてを失う。だから人は偽物の顔をかぶって、それでなんとかうまいことをして、やっていこうとするのだが、本当は、本当の顔に戻ってすべてを失うほうがずっといいのですよ。

それは苦しいが、偽物ではない美しい真実がある。

人間を落ちて、美しいこの世を永遠に去りたくないなら、偽物の顔を捨て、本当の自分に戻り、どん底に落ちて苦しんだ方がいいのです。

ですが、それができる人は、ほとんどいない。馬鹿はいつまでも、盗んだ顔をかぶって、自分ではないものになろうとして、苦しみ続けるのです。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

われはよきとぞ

2019-08-02 04:43:25 | 短歌





とひかけて われのまことを をしふれば われはよきとぞ おらびたりける





*「ぞ」~連体形の係り結びが生きてますね。

その人に問いかけて 自分自身の真実を教えたら、自分とはまことによいものだと、大声で叫んだことだ。

わたしたちは、ここにいる馬鹿どもの霊たちにも、毎日解脱の指導をしています。いろいろと邪魔されてやりにくいのですがね、少しずつでも、善い霊を増やそうと、やっているのです。この作品はその一場面を詠んだものです。

自分が嫌で、人の邪魔ばかりしている馬鹿の霊も、わたしたちが根気よく、自分の真実に導いていけば、突然悟って、本当の自分というものが、どんなにすばらしいものかということがわかり、それからは美しい自分となって、あらゆるよいことをしていくようになるのです。

これは本当ですよ。こっちの世界の人も、解脱を経験した人は、これがわかるはずです。

解脱をすると、人間は突然美しくなります。形は変わらないのですがね、目がしゃんと入って、表情が美しくなり、雰囲気が全然違ってくるのです。

美しさというものの意味を考えさせられる現象です。偽物の自分をかぶっている人は、それをこれでもかと美麗に演出して、かえってお化けのように気持ち悪いものになっているものだが。解脱して真実の自分に目覚めた人は、まだ形は美形とは言えないのだが、心がしゃんとして、目が強く美しくなり、それだけで何かとてもいい感じに見えるのです。

こちらの世界でも、人類はだんだんこんな感じになってくるのではないかと思っています。今は、人の美貌を盗んで自分を美形にしている馬鹿が相当目立ちますが、いつかは、本当の自分の美しさというものがわかり、形は不細工の部類でも、目が美しいだけで、相当に良い感じに見えるという感じになっていくのです。

もちろん、形はいつまでもそのままではありません。人類が人類として、自分たちの使命に目覚め、この地球世界の創造に大いに貢献していけば、人類はそれは美しいものになっていくのです。

それが真実の美、真実の進化というものです。

まだそこまでいくには、いろんな段階を踏まねばなりませんがね。しかし、必ず、人類は、偽物の顔を捨て、本当の自分の美しさに帰ってくると、信じます。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする