比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

信州・・・伊那の谷の桜紀行・・・伊那市・・・春日城址・・・春日公園の花見で・・・オワリ

2022-05-16 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳から

信州桜紀行・・・信州・・・伊那高遠城址・・・を見に来たのですが人人人で断念。高遠の町をあとにして伊那市春日(城址)公園へ。

春日公園・・・伊那市西町沢、JR伊那市駅から徒歩15分、天竜川右岸、市街地に続く40mの河岸段丘の上。
戦国時代の春日城址。桜が見事です。










※撮影日は4月11日。
伊那という地名のルーツを探ってみた・・・

伊那とは・・・読みはイナ・・・難読地名ではありませんが意味がワカリマセン。表音表記・・・当て字です。

伊那」は、古代、新羅からの渡来人猪名部(為奈部とも)という木工技能集団が地名の由来といわれています。意味は不明です。猪名部の集団は大阪の尼崎あたりに住みつき,一部が移動をはじめます。移動の年代、理由は不明。三重県の員部(いなべ)、愛知県小坂井の伊奈、そして天竜川を遡り南信州へ、最終の到達点が現在の伊那市伊那部あたり?。伊奈一族は三河、遠州と信濃の国境から天龍川の中流、上流を占める沖積平野に至る広い範囲に定着・・・(現在の上伊那郡、下伊那郡)? 渡来人ですから木工、建築、林業、農業、土木など技術で、また文化の面で、移動した土地を発展させたと思います。
※以上は書記(応神天皇31年の記載、4世紀後半?)、和名抄などの僅かな記載から研究者が推定したもの。それを確かめる記録はありません。

※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。

信州・・・伊那の谷の桜紀行・・・伊那市・・・春日城址・・・春日公園で花見

2022-05-15 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳から

信州桜紀行・・・信州・・・伊那高遠のコヒガンザクラ・・・を見に来たのですが城址公園は人人人で断念。高遠町をあとにして伊那市春日(城址)公園に。

春日公園・・・伊那市西町沢、JR伊那市駅から徒歩15分、天竜川右岸、市街地に続く河岸段丘の上。
戦国時代の春日城址。遺構はありません。桜が見事です。








※撮影日は4月11日。
春日城・・・戦国時代、信濃国滋野三氏禰津流の支族春日氏の築城と伝えられるが詳細、築城年不明。のち伊那地方の豪族伊那部氏が武田氏の下で城主に、川中島の戦いで伊那部氏が上杉に与したため滅ぼされ。甲斐武田氏配下の春日氏の居城に。織田勢の甲州征伐で落城。1582年廃城。
伊那市・・・江戸時代、三州街道、権兵衛街道との交差点、伊那部宿、天竜川水運の川湊など、人流、物流の集散地で栄えた。1889年3村が合併し伊那村、1897年伊那町。1954年1町5村が合併して伊那市。2006年伊那市、高遠町、長谷村が合併して伊那市に。人口65000人。上伊那郡の中核都市。

※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。

信州・・・伊那の谷の花見紀行・・・高遠城址から・・・木曽駒ヶ岳が見える

2022-05-14 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳から

信州桜見紀行・・・信州・・・伊那高遠のコヒガンザクラ・・・です。
1500本のタカトウコヒガンザクラ・・・高遠城址・・・残雪の西の山なみ・・・絶景・・・
木曽駒ヶ岳が見えます・・・伊那の人たちは・・・西駒・・・と呼びます。


中央のピラミッド状の山が中岳、その右が木曽駒ヶ岳、左が伊那前岳宝剣岳はその後ろに隠れて。

空木岳・・・右の鞍部は木曽殿越、右に東川岳。
※撮影日は4月11日。

※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。

信州・・・伊那の谷の花見紀行・・・高遠藩の藩校・・・進徳館跡を訪ねる

2022-05-13 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳から

信州桜見紀行・・・信州・・・伊那高遠のコヒガンザクラ・・・です。
高遠城址1500本のタカトウコヒガンザクラ・・・駐車場も城址も人人人、諦めてあたりを散歩。

北門のすぐ傍の高遠藩の藩校「進徳館」跡に。幕末の1860年開校、明治維新の8年前です。


明治時代に入り1873年廃館。13年間でしたが多くの人材を育てました。

建学の精神が引き継がれ1899年高遠町立高遠実業補習学校が開設され、幾多の変遷を経て1948年県立高遠高等学校が開設されます。

県立高遠高校は藩校進徳館の「拓世、迫真の実学」の精神をモットーに。
※撮影日は4月11日。
藩校・・・江戸時代、各藩が藩士の子弟の教育のために作った学校。領民の子弟にも開放した藩校も。その教育は初等から、中等、漢学、洋学、医学、女子、さまざま。各藩交流の留学、遊学も。最初に開校したのは1662年名古屋藩の明倫塾,1700年代に発展し最盛期255校、それにしても高遠藩の幕末8年前とは遅すぎ。
寺子屋・・・江戸時代の中期から後期、全国で寺子屋が13000~15000、信州では1300余あったといいます。藩士の子弟の教育は私営の寺子屋に任せていたのでしょうか。

※コメント欄閉じています。

信州・・・伊那の谷の花見紀行・・・高遠のコヒガンザクラの花見に行きました

2022-05-12 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳から

信州桜紀行・・・信州・・・伊那高遠のコヒガンザクラ・・・です。

高遠城址に近い高台の上から高遠市街地、伊那の谷、木曽駒ヶ岳連峰を俯瞰してます。

市街地から高台を望む。

高遠町の中心部。

お蕎麦屋「華留連」さんです。
※撮影日は4月11日。
高遠そば・・・不思議なことに高遠そばという名は高遠にはなく、福島県会津地方にあって、江戸時代初期に藩主保科正之公が会津若松に転封のさい蕎麦打ち職人を連れてゆき、救荒作物として蕎麦の栽培を勧め食べ方を教え、それが現在に至るまで高遠そばと呼ばれてきて、最近里帰りしたものだそうです。基本は大根おろし絞り汁に味噌を溶かしたものが蕎麦つゆ?お蕎麦屋さんには普通の蕎麦もあり、胡桃蕎麦もあり、馬刺し、馬煮込みもあります。
高遠・・・伊那の谷から東、中央構造線の谷に沿った町。戦国時代は高遠氏、武田氏、織田氏の支配、信長亡きあとは無主状態に、保科家が興り高遠を支配、江戸時代に入り保科家が初代高遠藩主、鳥居家、内藤家と継がれ明治の廃藩まで。33000石の城下町、杖突街道、権兵衛街道など交通の要衝。物流の集散地。1875年武家町が東高遠町、城下町が西高遠町に、1889年東西が合併して高遠町に。明治の大合併時、上伊那郡下で唯一の町。2006年伊那市へ合併。合併時の人口6758人。
※コメント欄閉じています。

信州・・・駒ケ岳山懐・・・古刹・光前寺の・・・三重塔

2022-04-02 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳
3月12日・・・信州伊那の谷の駒ケ根市の名刹光前寺へ。今年続けている信濃10三重塔最後の三重塔詣でです。
天台宗別格本山宝積山無動院光前寺・・・天台宗座主円仁の弟子本聖が860年開山と伝えられるが戦国時代の武田・織田の戦いで被災し古記録が残っていないため検証不能。武田・豊臣、江戸期に入って徳川幕府から庇護を受け、朱印地60石。

天台宗信濃五山のひとつ・・・戸隠神社(明治時代以前は戸隠山勧修院顕光寺)、長野善光寺、千曲市八幡の更科八幡神宮寺(明治期に廃寺)、立科町山郷の慧日山修学院津金寺、駒ケ根市の宝積山無動院光前寺
※写真はWikipediaより。
仁王門から入山、三門、本坊、鐘楼・・・本堂(1851年再建)。本堂から左に下りると鬱蒼とした杉林の中に・・・
     三重塔・・・1808年再建。

古刹(こさつ)という言葉にふさわしい堂々たる風格です。
」は仏舎利塔の心柱のことをいい、「古刹」は古寺のことをいうのだそうです。


※撮影日は3月12日。
★高校生のころのむかしの話しです。仁王門から参道。三重塔の脇を抜ける道は木曽山系空木岳への登山道でした。
★中学生の三年間で世話になった担任の先生は光前寺の次男坊でした。卒業以来、ご無沙汰したが社会人を卒業したころの同級会でお会いし、そのあとお手紙をいただいた。その文中に「教え子を戦場に送ってはいけない、送らないでよかった・・・」と記されていた。はじめて聞いたホンネかも知れない。むかしの話しである。
★日本の近世以前の三重塔は102基、うち長野県に10基。1月から上田市安楽寺の八角三重塔、前山寺の三重塔、青木村大法寺の三重塔、上田市国分寺の三重塔、御代田町真楽寺の三重塔、佐久市新海三社神社の三重塔、佐久市貞祥寺の三重塔、大町市若一王子神社の三重塔、今月、駒ヶ根市光前寺の三重塔を尋ね、これで9基。10基めの長野県上水内郡小川村の高山寺の三重塔は過去に尋ねています。いつかある日に再訪して見たいと思います。


駒ヶ根市の古刹光前寺シリーズはこれでオワリです。
木曽駒ケ岳ロープウエイのシャトルバスターミナル駒ケ根高原、中央高速道駒ケ根ICのすぐ近く、ぜひ訪ねてみてください。

※コメント欄オープンにしています。
・URL無記入のコメントは削除します。


信州・・・駒ケ岳山懐・・・駒ケ根市の名刹・・・光前寺は・・・国の名勝

2022-04-01 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳

3月12日・・・信州伊那の谷の駒ケ根市の名刹光前寺へ。今年続けている信濃10三重塔最後の三重塔詣でです。
天台宗別格本山宝積山無動院光前寺・・・天台宗座主円仁の弟子本聖が860年開山と伝えられるが戦国時代の武田・織田の戦いなどで被災し古記録は残ってない。武田・豊臣の庇護を受け、江戸時代徳川幕府から朱印地60石を受けていた。

1967年・・・本堂前の中世の禅僧夢窓国師作庭と伝えられる池泉式庭園(夢窓国師作庭と推定できる記録はない)と江戸時代前期の作庭といわれる本坊(庫裏),客殿の前の築山泉水式庭園が「国の名勝庭園」に指定。
駒ケ岳に抱かれた広大な光前寺全域(6.7㌶)が名勝「光前寺庭園」です。


金剛力士が守る仁王門から入山・・・

三門へ・・・参道の石垣にはヒカリゴケ、樹齢数100年の杉の並木が・・・

本堂・・・
※写真はWikipediaより。
山門をくくっだ右手に・・・本坊、客殿・・・

早太郎伝説の寺です・・・
上穂(うわぶ)十一騎の碑・・・1614年大阪冬の陣に木曽、当時の幕府領上穂郷の預り役であった旗本(表交替寄合並)千村氏の臣下の11人の上穂郷士が豊臣家に与した眞田幸村の傘下になって武功を上げ、翌1615年大阪冬の陣で討ち死。徳川家旗本千村家に背いて眞田家になぜ参加したのだろうか、次男、三男であったことをなぜ説明しているのであろうか。上穂とは村の名前、1875年赤須村と合併して赤穂村に。1940年赤穂町になって、1954年駒ヶ根市に。郷士・・・足軽より下の身分、苗字帯刀を許された半農・半兵、薩摩郷士、水戸郷士、土津川郷士など、雇い主によって身分、処遇はさまざま。
※撮影日は3月12日。

光前寺公式サイトから・・・リーフレットの境内案内マップです。仁王門から本堂に向かって東西、左右が南北。

次回、光前寺「三重塔」で光前寺シリーズは終わりです。

※コメント欄オープンにしています。
・URL無記入のコメントは削除します。

信州・・・駒ケ岳山懐・・・駒ケ根市の名刹・・・光前寺の・・・鐘楼

2022-03-31 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳

3月12日・・・信州伊那の谷の駒ケ根市の名刹光前寺へ。今年続けている信濃10三重塔最後の三重塔詣でです。
天台宗別格本山宝積山無動院光前寺・・・天台宗座主円仁の弟子本聖が860年開山と伝えられるが戦国時代の武田・織田の戦いなどで被災し古記録は残ってない。武田・豊臣の庇護を受け、江戸時代徳川幕府から朱印地60石を受けていた。

三門から左へ・・・開基1100年を記念して1960年再建の鐘楼が・・・
※撮影日は3月12日。


※コメント欄閉じています。

信州・・・駒ケ岳山懐・・・駒ケ根市の名刹・・・光前寺・・・三門への道

2022-03-30 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳

3月12日・・・信州伊那の谷の駒ケ根市の名刹光前寺へ。今年続けている信濃10三重塔最後の三重塔詣でです。
天台宗別格本山宝積山無動院光前寺・・・天台宗座主円仁の弟子本聖が860年開山と伝えられるが戦国時代の武田・織田の戦いなどで被災し古記録は残ってない。武田・豊臣の庇護を受け、江戸時代徳川幕府から朱印地60石を受けていた。

仁王門から三門へ・・・樹齢300年を超す鬱蒼とした杉並木・・・堂々たる古刹です。




三門? 山門? ・・・見た通り中央、左右に通りぬける三つの門があります。三門です。山にあるので山門ともいいます。空解脱、夢想解脱、無作解脱の三つの悟りを開く門で三門とも。説はいろいろあります。延暦寺、建長寺、善光寺は山門、知恩院、南禅寺は三門、両方ある寺も、宗派は関係ないようです。
1818年焼失、1848年再建、駒ケ根市指定有形文化財。

※撮影日は3月12日。


※コメント欄オープンにしています。
・URL無記入のコメントは削除します。

信州伊那谷・・・駒ケ岳山懐・・・駒ケ根市の名刹・・・光前寺・・・ヒカリゴケの道

2022-03-29 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳

3月12日・・・信州伊那の谷の駒ケ根市の名刹光前寺へ。今年続けている信濃10三重塔最後の三重塔詣でです。
天台宗別格本山宝積山無動院光前寺・・・天台宗座主円仁の弟子本聖が860年開山と伝えられるが戦国時代の武田・織田の戦いなどで被災し古記録は残ってない。武田・豊臣の庇護を受け、江戸時代徳川幕府から朱印地60石を受けていた。

仁王門を潜り石畳の参道が150mほど続き三門へ。樹齢300年余の杉の林、約70本のしだれ桜が・・・

参道の石垣の石と石の間に4月末から10月までの間、自生のヒカリゴケが覗ける・・・




ヒカリゴケ・・・ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属、1科1属の貴重なコケ、ユーラシア大陸北部、北米大陸北部、日本では中部以北、北海道に。自生地は湿潤で光量の少ない洞窟、石の割れ目、樹洞など、日本では北海道羅臼(洞窟)、群馬県嬬恋(溶岩流隙間)、東京皇居北の丸公園(石垣)、埼玉県吉見百穴(古墳)、長野県岩村田(段丘崖洞窟)、駒ケ根市光前寺(石垣)などに自生地が見られる。発光するのではなく暗い中でわずかな光が苔の中の葉緑素を通過、屈折、反射してエメラルド色に輝くことからヒカリゴケと呼ばれる。

※撮影日は3月12日。


※コメント欄オープンにしています。
・URL無記入のコメントは削除します。