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N冉HKテレビ大河ドラマ「
鎌倉殿と13人」がはじまっています(
あまり見てませんがおもしろいそうです)。
★どうでもいい話ですが・・・鎌倉殿の歴史は・・・親子、兄弟、縁戚、姻戚、同族、忠臣の殺し合いです。源頼朝の父義朝は弟の義賢を子悪源太義平を差し向けて殺し、その義朝、義平は平清盛に滅ぼされ、その平清盛は源義賢の子義仲に都を追われ、義仲は義朝の子の範頼、義経に滅ぼされ、その範頼、義経は兄の頼朝に滅ぼされ、頼朝は謎の死を遂げ、頼朝の子の頼家、実朝は頼朝の正室の政子の実父であり後ろ盾であった北条一族に謀殺され、鎌倉幕府を作り上げるのに功のあった梶原、比企、畠山、和田、三浦らの関東武者たちも北条一族に謀殺されていきます。その北条一族も源氏の新田、足利に滅ぼされ、新田は足利に滅ぼされ・・・。
ドラマ「
鎌倉殿と13人」に武蔵国比企郷菅谷に館を構えた武将
畠山重忠が登場します。史実になっている「
二俣川の戦い」(
畠山重忠の乱)はドラマ化されてるのでしょうか。
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畠山重忠につて書いた過去ログです・・・参考になれば読んでみてください。
武州畠山郷・・・畠山重忠公の墓所を尋ねた 2009年11月16日
11月9日武州川本の白鳥飛来地に行った帰り、
畠山重忠公墓所に寄りました。
畠山重忠(
1164~1205年)・・・
武州男衾郡畠山郷(
現深谷市)を領する中世の武将。桓武天皇平氏の一族、源氏の家人であったが父の時代の平家全盛期は平氏についていた。この時代の領主は一所を守るために懸命に風見鶏を決め込んだのであろう。源頼朝が勢いを得ると頼朝の下に。有力な御家人(
近世の旗本、譜代大名みたいなもの)になります。
畠山史跡公園・・・神社のように見えますが、重忠公の館跡といわれ墓所があります。
源頼朝の時代、数々の武功をあげますが、重忠の子重保が北条執権の時政の後妻の牧の方の子平賀朝雅と酒席で争い、これがもとで重保は誅殺、重忠は「
鎌倉に異変あり、至急来られたし」という呼び出しを受け、いまのようにスマホもメールもない時代なので確認することもなく
武州嵐山の
菅谷館から130騎で出発、神奈川の
二俣川’(
現横浜市旭区鶴ヶ峰)あたりで待ち構えた北条10万の大軍に討ち取られます。武装蜂起騒乱罪の嫌疑というわけです。騒ぎのもとになった牧の方はそのご追放、平賀朝雅も殺されます。ということは
畠山重忠の乱は何だったのか。
源頼朝没後、頼朝以来の有力御家人は次々に謀殺されていきます。いまの時代でも権力交替劇のあとは先代の腹心部下は閑職に、有力競争者は消せというのが政界でも企業でも常道です。
墓所は覆殿になっています。中を覗くと
五輪塔の墓が7基。説明はないが中央が重忠公、ほかはともに戦死した一族郎党か。五輪揃っていないものも。長い年月で損傷、紛失したのか。
一の谷の戦い・・・鵯越の逆落とし・・・
重忠は愛馬を気遣って背負って降りたという。怪力だ
1184年
源平の戦いのターニングポイント。神戸市須磨区の一の谷・・・平氏追討の搦手軍(
別働隊みたいなもの)の総大将
源義経に従った
畠山重忠は須磨の浦公園裏手の鉄拐山から逆落としという奇襲に加わった・・・といわれています。
畠山重忠・・・わたしが武州比企の人になるまで知らなかった人です。嵐山町の山百合の自生地で有名な
菅谷館跡は畠山重忠の居館だったところといわれます。畠山重忠の墓所がほかにある。地名も畠山だ。ということで訪れました。地元の人は
重忠公と呼んで慕っているそうです。
⦅アクセス⦆深谷市畠山510-2。国道140号線(旧秩父往還)重忠橋(北)交差点を南へ。県道81号線(熊谷寄居線)の重忠公園入口交差点を北へ、
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