比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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信州・・・櫻紀行・・・小諸城址懐古園・・・水の手不明御門跡・展望台で・・・オワリ

2022-05-25 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月13日・・・小諸城址懐古園を歩く・・・
桜満開の本丸天守台跡あた北西隅の水の手不明御門跡の展望台へ。

千曲川を望む水の手展望台へ向かう酔月橋・・・

島崎藤村の不朽の名作「千曲川旅情の歌」はここから発想を得たのであろうか。

水の手不明御門跡・・・
※撮影日は4月13日。

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信州・・・櫻紀行・・・小諸城址懐古園を行く・・・石垣だけの天守台

2022-05-21 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月13日、桜満開・・・小諸城址懐古園を歩く・・・
小諸城遺構の三之門を潜って入園、真っすぐに進むと天守台跡の石垣

1590年仙石秀久が入城時に大改築、そのとき築いた天守台は1626年落雷により焼失。再建することなく現在に。

高さ6mの石垣を登ると天守台跡・・・

苔むす石垣・・・

アーチ状に反った野面(のづら)積み。
※撮影日は4月13日。
⦅小諸城物語り⦆
1190年源義仲の武将小室氏が館を築く。1487年佐久大井郷の豪族大井氏が鍋蓋城を築く。1543年武田信玄が侵攻し1554年小諸城を築く。武田氏滅亡のあと、織田氏、豊臣氏、徳川氏へと。1590年仙石秀久が初代小諸藩主に、松平、青山、坂井、西尾、牧野氏と藩主が変り明治期を迎え、廃城。1880年旧小諸藩士が払い下げを受け1926年本多静六博士の指導により公園化、現在に。

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信州・・・ふたたび桜の松代・・・海津城・・・の城内に入って・・・これでオワリ

2022-05-20 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月12日、桜満開・・・ふたたびの松代城跡公園・・・




海津城から待城、そして松代城・・・明治時代に廃城・・・いまは市民の憩いの場・・・
※撮影日は4月12日。

松代城物語
石垣のみ残る古城の雰囲気の城址です。築城は武田信玄が北信濃に版図を広げる戦国時代、村上義清が武田との戦いに敗れ葛尾城(坂城町)を捨て、越後に逃れたのは1553年、1559年信玄は松代に対上杉勢の最前線に位置する城を白を築きます。城代は春日虎網(高坂弾正忠昌信)、築城時は茅津城、貝津城、のち海津城に。川中島の戦いでは本陣に。春日虎網は甲州石和郷の百姓出身、武田信玄の最近習、四天王。信濃国更級郷牧之島(現長野市新町)の豪族香坂氏の名跡を継いで高坂弾正忠を名乗るように。江戸時代に定本化した武田軍団の歴史を語る「甲陽軍鑑」は1575年頃よりの春日虎網の口述を筆記したものから編纂が始まったいわれます。1578年海津城で没、墓所は松代町明徳寺、甲州市恵林寺に。武田勝頼が天目山で自決、武田一族が滅亡したのは1582年。
海津城はそのご織田、豊臣、徳川の版図に変遷し、海津城から待城、松代城に、江戸時代に森、松平,酒井、真田と藩主が変わり明治期に入り廃城。

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信州・・・ふたたび桜の松代・・・川中島の合戦の舞台・・・海津城・・・栄華の夢のそこかしこ

2022-05-19 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月12日、桜満開・・・ふたたびの松代城跡公園・・・
大河ドラマでお馴染みの1561年の川中島の合戦・・・甲斐の将軍武田信玄本陣を構えたのがこの城です。かたや越後の将軍上杉謙信はこれより南の妻女山に本陣を構え、10月27日の未明「鞭音粛々」と雨宮の渡しから千曲川を渡って、八幡ヶ原・・・現在の川中島古戦場史跡公園(長野市小島田町)あたりに出陣してゆく・・・
甲斐、越後・・・両陣営の版図拡大の侵略戦争・・・の最前線・・・であった。
この戦いで武田軍4000人、上杉軍3000人が討死、戦いは殺し合い。

石垣のみ残る・・・戍亥隅櫓跡(天台跡)・・・



天守台は江戸時代初期に火災により焼失、再建することはなかったと伝えられています。詳細は不明。
太平の世に天守台は不要?・・・江戸千代田城も明暦の大火で焼失・・・再建することはなかった。
※撮影日は4月12日。

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信濃の春・・・「日本の名城100選」櫻の松代城・・・古城を偲ぶ天守台跡・・・

2022-05-07 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月9日、桜満開の松代城跡公園・・・
信濃国松代藩真田家10万石の松代城跡、古くは海津城。築城は戦国時代の1559年?1872年廃城、家臣に払い下げられ宅地、農地に転用、1904年真田家が再び買い上げ整備を重ね公園として開放、1951年真田家の寄進により公用地に。1981年「国の史跡」、2004年お濠、石垣、土塁、太鼓門を復元、2006年「日本の名城100選」に。そのご整備を重ね現在に。


城内にはオオヤマザクラが・・・

桜咲く里で、晴れの門出・・・

戍亥隅櫓跡・・・石垣だけが残る天守台跡・・・江戸時代初期に火災により焼失。以後再建することはなかった。

天守台のない古城跡・・・好きだ・・・
※撮影日は4月9日。


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鎌倉殿ゆかりの武将・・・畠山重忠公の・・・墓所(武州畠山郷)を・・・尋ねた

2022-03-08 | 古城・城址・陣屋・館跡
                                 ・
N冉HKテレビ大河ドラマ「鎌倉殿と13人」がはじまっています(あまり見てませんがおもしろいそうです)。
★どうでもいい話ですが・・・鎌倉殿の歴史は・・・親子、兄弟、縁戚、姻戚、同族、忠臣の殺し合いです。源頼朝の父義朝は弟の義賢を子悪源太義平を差し向けて殺し、その義朝、義平は平清盛に滅ぼされ、その平清盛は源義賢の子義仲に都を追われ、義仲は義朝の子の範頼、義経に滅ぼされ、その範頼、義経は兄の頼朝に滅ぼされ、頼朝は謎の死を遂げ、頼朝の子の頼家、実朝は頼朝の正室の政子の実父であり後ろ盾であった北条一族に謀殺され、鎌倉幕府を作り上げるのに功のあった梶原、比企、畠山、和田、三浦らの関東武者たちも北条一族に謀殺されていきます。その北条一族も源氏の新田、足利に滅ぼされ、新田は足利に滅ぼされ・・・。

ドラマ「鎌倉殿と13人」に武蔵国比企郷菅谷に館を構えた武将畠山重忠が登場します。史実になっている「二俣川の戦い」(畠山重忠の乱)はドラマ化されてるのでしょうか。
畠山重忠につて書いた過去ログです・・・参考になれば読んでみてください。
 
武州畠山郷・・・畠山重忠公の墓所を尋ねた   2009年11月16日 
 
11月9日武州川本の白鳥飛来地に行った帰り、畠山重忠公墓所に寄りました。

畠山重忠(1164~1205年)・・・武州男衾郡畠山郷(現深谷市)を領する中世の武将。桓武天皇平氏の一族、源氏の家人であったが父の時代の平家全盛期は平氏についていた。この時代の領主は一所を守るために懸命に風見鶏を決め込んだのであろう。源頼朝が勢いを得ると頼朝の下に。有力な御家人(近世の旗本、譜代大名みたいなもの)になります。

畠山史跡公園・・・神社のように見えますが、重忠公の館跡といわれ墓所があります。

源頼朝の時代、数々の武功をあげますが、重忠の子重保が北条執権の時政の後妻の牧の方の子平賀朝雅と酒席で争い、これがもとで重保は誅殺、重忠は「鎌倉に異変あり、至急来られたし」という呼び出しを受け、いまのようにスマホもメールもない時代なので確認することもなく武州嵐山菅谷館から130騎で出発、神奈川の二俣川’(現横浜市旭区鶴ヶ峰)あたりで待ち構えた北条10万の大軍に討ち取られます。武装蜂起騒乱罪の嫌疑というわけです。騒ぎのもとになった牧の方はそのご追放、平賀朝雅も殺されます。ということは畠山重忠の乱は何だったのか。
源頼朝没後、頼朝以来の有力御家人は次々に謀殺されていきます。いまの時代でも権力交替劇のあとは先代の腹心部下は閑職に、有力競争者は消せというのが政界でも企業でも常道です。

墓所は覆殿になっています。中を覗くと五輪塔の墓が7基。説明はないが中央が重忠公、ほかはともに戦死した一族郎党か。五輪揃っていないものも。長い年月で損傷、紛失したのか。

一の谷の戦い・・・鵯越の逆落とし・・・重忠は愛馬を気遣って背負って降りたという。怪力だ
1184年源平の戦いのターニングポイント。神戸市須磨区の一の谷・・・平氏追討の搦手軍(別働隊みたいなもの)の総大将源義経に従った畠山重忠は須磨の浦公園裏手の鉄拐山から逆落としという奇襲に加わった・・・といわれています。


畠山重忠・・・わたしが武州比企の人になるまで知らなかった人です。嵐山町の山百合の自生地で有名な菅谷館跡は畠山重忠の居館だったところといわれます。畠山重忠の墓所がほかにある。地名も畠山だ。ということで訪れました。地元の人は重忠公と呼んで慕っているそうです。

アクセス⦆深谷市畠山510-2。国道140号線(旧秩父往還)重忠橋(北)交差点を南へ。県道81号線(熊谷寄居線)の重忠公園入口交差点を北へ、

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厳寒の佐久平・・・佐久市田口・・・龍岡城五稜郭あと

2022-02-20 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳
今日のプチドライブ・・・上田市丸子から依田川の谷へ、佐久平の立科町へ、国道142号線を佐久市に向かい臼田あたり。龍岡城五稜郭址、新海三社神社の三重塔、貞祥寺の三重塔を訪ねる予定。

佐久市臼田・・・今は佐久市ですが2005年まで南佐久郡臼田町。佐久総合病院の町、JAXAの臼田宇宙空間観測所の町、日本に2つしかない五陵郭の龍岡城跡の町です。
まず最初に龍岡城五稜郭址・・・佐久市田口。
田野口藩16000石。藩主は大給松平家。三州岡崎あたりに奥殿藩として4000石(飛び地で田野口村に12000石)。何を思ったのか松平乗謨の代の1863年に藩府を信濃国佐久郡田野口村に移し田野口藩と改称、1864年龍岡城五稜郭を築城開始、1867年竣工。1871年廃藩、1872年解体、競売、1875年小学校が、2022年小学校は廃校、跡地は旧陣屋(御台所)など復元予定。

星形の石垣、土塁、堀の洋風城郭は日本では函館五稜郭とここだけ。面積は2万坪強(約7㌶)。函館五稜郭(25㏊)の30%弱くらいか。








城郭内は小学校の校舎、校庭・・・見るべきものはありません。
近くに上から俯瞰するような高所もなく全体像は写真ではとらえられませんでした。

幕末、徳川幕府崩壊が目の前に見えていたときに防衛能力の無い城郭を何のために作ったかワカリマセン。
※撮影日は1月28日。

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2022年・・・新年の塩田平巡り・・・塩田流北条氏の城址

2022-02-01 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳

寒さが続いています。正月も終わった15日、塩田平のお寺巡りです。

上田市前山の前山寺・・・から西へ100m・・・塩田流北条氏の居城あと「塩田城址」です。


※撮影日は1月15日。
・★塩田流北条氏・・ここ塩田平は中世鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の庄地。北条氏三代泰時の弟の子義政(北条時宗のときの連署)が突然の出家してこの地に定住。出家のわけは不明。義政、その子国時、その子藤時、俊時と三代50年この地を治め、塩田平に鎌倉文化を広めた。1333年鎌倉幕府滅亡時に宗家に殉じ、国時とその子息藤時・俊時が一門と共に自害。
北条氏に縁の深い塩田平・・・北条氏をテーマにした大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で注目を浴びるでしょうか。

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春の佐久平・・・中世の豪族の館跡・・・佐久市野沢の・・・伴野城跡(城山公園)を尋ねる

2021-04-21 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳

3月17日、春の佐久市野沢方面へ・・・物見遊山で・・・
佐久市野沢・・・佐久平の中心部、千曲川を挟んで右岸に中込町、左岸に野沢町。1889年野沢村のほか7ヶ村が合併して野沢町に。1961年浅間町、東村、野沢町、中込町が合併して佐久市に。古くは甲州往還(国道141号線)、富岡街道(国道254号線)の宿場。交通、物流の要衝として栄えました。

成田山薬師寺のすぐ隣に・・・中世の豪族の館跡・・・東西74~85m、南北110m、約1㌶。水堀、土塁に囲まれた伴野城跡・・・です。
鎌倉時代に清和源氏の流れをくむ小笠原氏の庶流が伴野の荘の地頭職を継ぎ土着、、室町時代、戦国時代を生き延び、武田氏の配下に、武田氏滅亡のあとは徳川家に旗本として仕えた。伴野城跡は地頭のころの居館、やがて堀、土塁など城としての構えを構築したものと思われる。野沢城とも呼ばれた。戦国時代の終わりに廃城。江戸時代は陣屋、代官所など。明治の時代に官有地に、神社、城山公園に。2002~2004年に環境整備、長野県史跡に。
 

城跡内にある大伴神社。1910年八幡社、十二諏訪大明神を合祀したもの。

公園内にある道祖神・・・(どう)は道のことらしい、次の字が読めない。陸の字のヘンを誤って彫ってしまった?・・・衟陸神・・・道祖神のことであろうか?
道路改修の折などに、ここに集められたものであろうが、その経緯、建立された年の記録などは不明。
※撮影日・・・3月17日。

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