比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

春の松本平・・・古代人の眠る・・・弘法山古墳・・・でお花見

2019-07-08 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田の・・・六文銭の写真帳

春の松本平、桜で有名な松本市 並柳の弘法山を尋ねました。
JR南松本駅からすぐ、松本平西方の中山山地の先端、弘法山(650m)、小さな丘です。

弘法山古墳です。1974年に古墳と確認され同年、発掘調査で詳細が明らかに。3世紀末期のものと推定される前方後方古墳・・・古墳といえば前方後円が多いのですが、稀にしか見られない珍しい形です。長野県では姫塚古墳、山梨県で小平沢古墳で見られ、東海地方、濃尾平野で見られるそうです。長さ66m、前方幅22m、高さ2m、後方幅33m、高さ6m、丘の上なので周濠はありません。葺石はわずかに残るのみ。



半三角縁四獣文鏡、鉄剣、銅鏃、鉄斧、ガラス小玉、勾玉などが出土(松本市立考古博物館保管)、人骨、埴輪は認められず。3世紀末期のものと推定されました。国史跡指定、出土品は長野県県宝。
以来、調査は中断していて規模、構造の解明は不十分、付近には7世紀のものと思われる小墳丘が点在しているが未解明。
市は2019年度から文化庁の国庫補助事業として10年計画で再調査を行うとしています。

古代人の眠る墳丘の上で人々が春を楽しんでいます。
楽しくていいのですが墳丘が崩れたりするので「史跡公園」として整備するそうです。






※撮影日は4月18日。


※コメント欄オープン。

信濃の歴史旅・・・大室古墳群・・・古代渡来人の集合墓か

2019-06-05 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月3日、信濃国の歴史を尋ねる。
長野市松代町大室にある「大室古墳群」(おおむろ)を尋ねました。 千曲川右岸、松代町大室から南に少し入った大室谷にある約500基の古墳群です。

1997年国指定史跡「大室古墳群」。16㌶の中に500基の集合墓、古墳館、駐車場。
千曲川を隔てて北の方角に長野市街、飯縄山が見えます。

盛土をした盛土墳土石混合墳もありますが、8割近くが小石を積み上げた積石塚(渡来人墓制?)です。
建造は5世紀~8世紀、積石塚400基、前方後円墳1基ほか。土師器、須恵器、土馬など出土。














※撮影日は4月3日。
積石塚・・・高句麗の古墳で見られ百済を経て日本に渡ってきた墓制と考えられています。内部は横穴式、大きな石を合掌型に組み上げたものもあり朝鮮半島の古墳に似ているため渡来人の墓というのが定説。このあたり古代官営牧の「大室の牧」があり馬の放牧に携わるために高句麗系人が渡来したところといわれますから高句麗系の墓とする説がうなづける・・・ただ出土品が人物埴輪、円筒埴輪、馬具など朝鮮半島の古墳には存在せず国内の古墳に共通するものが多いため、渡来人の墓とする説も揺らいでいる。・・・ワカラなくなった。

★長野市松代観光協会の公式サイトより→クリック→「史跡大室古墳群

※コメント欄open。

信濃の歴史旅・・・あんずの里の・・・森将軍塚・・・北信濃を支配した豪族の夢

2019-06-04 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月3日、長野県千曲市森の「科野の森歴史公園」・・・を訪ねて花見です。
1971年に森将軍塚古墳が国指定史跡になっ大々的にて発掘調査、1981年復元工事が開始。1992年完成。そのあとに長野県立歴史館(1994年開館)、千曲市立森将軍塚古墳館(1987年開館)、古代の住居ムラなど含めて整備された「科野の里歴史公園」です。

麓から比高130mばかりの有明山の中腹の大きな古墳が・・・森将軍塚です。森さんという将軍のお墓ではありません。森という集落にあるむかしの豪族のお墓です。豪族の名前もどのくらいの範囲の地域を支配していたかなど、詳細は不明です。副葬品もむかしに盗掘されてほとんど出てこないようです。復元された大きな前方後円の古墳です。長さ約100m、前方部の幅30m、後円部の幅50m、4世紀後半のものと推定。石室は竪穴式、長さ7.6m、幅m、深さ2.6m。

北の方角・・・善光寺平、飯縄山が。晴れていれば戸隠連峰が見えます。

1981年から11年の年月をかけて1992年に復元完成したものです。自然石で覆われた葺石式です。復元された埴輪や形象埴輪が並びます。

すべて推測の上に復元(復原?)・・・この山で採れた石英斑岩を組み合わせた野面積みです。記録を文字に残す時代ではないので、詳細は何一つありません。

これだけの自然石をどうやって運んだのでしょうか・・・修羅・・・木橇をコロで動かす・・・という技法が推定されています。

大きな古墳は近畿地方で天皇家のものが有名ですが、古墳時代の初期は地方の豪族も力を持っていてこのような大きな古墳があります。
天皇家の地方支配が進むとこのような大きな古墳は見られなくなるようです。
古墳時代後期になると古墳自体は小さくなり数mのものも。方噴だけ、円墳だけ、高句麗様式のものと多様になり集団墓地のように規模の大きいものもあります。



※撮影日は4月3日。
この古墳は1965年採石場として開発がはじまったころ、この周辺の小古墳が崩される状態となり、1970年保存対策協議会が発足、住民の署名、地権者の協力などもあり1971年国指定史跡に。発掘調査後に1981年復元工事が開始。1992年完成後は長野県立歴史館(1994年開館)、千曲市立森将軍塚古墳館(1987年開館)、弥生時代復元住居跡など含めて「科野の里歴史公園」として整備。副葬品は全国どこの古墳と同じように盗掘、乱掘によりほとんどなかったようですが埴輪、鏡片、鉄剣などが出土したようです。以後、この周辺の有明山将軍塚、倉科将軍塚、土口将軍塚が国指定史跡に加えられ埴科古墳群と呼ばれるように。小さな円形古墳、方形古墳は数えきれないほどあるようです。

★千曲市公式サイトより→クリック→「科野の森歴史公園

※コメント欄OPEN。



信濃の歴史を尋ねる・・・千曲市・・・アンズの森の・・・科野の森歴史公園

2019-06-03 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月3日、信州の古墳を訪ねて花見です。
1971年に森将軍塚古墳が国指定史跡になり大々的にて発掘調査開始、1981年復元工事が開始。1992年完成。そのあとに長野県立歴史館(1994年開館)、千曲市立森将軍塚古墳館(1987年開館)、古代の住居ムラなど含めて整備された「科野の里歴史公園」です。

千曲市屋代清水遺跡から発掘された住居群の再現。
縄文時代後期・弥生時代、古墳時代の住居を推定、疑似・復元したムラです。

竪穴式住居・・・縄文時代といわれます。



高床式倉庫・・・弥生時代から古墳時代?


※撮影日は4月3日。
※公園の名前が「科野の里」になっています。「科野」とは大和政権が全国を統一しつつあるときの国名(現長野県)です。7世紀の終わりごろまでこの表記だったようです。古事記(712年)では科野、日本書紀(720年)では信濃だそうです。7世紀末~8世紀初頭の木簡には科野国と記されているそうです。8世紀初めごろから表記が科野から信濃になぜ変わったか・・・ワカリマセン。科野の地名由来は諸説あるようですが・・・階(しな)・・・階段状の山・・・河岸段丘の地形などからと思います。

※コメント欄閉じています。

秋の信州・・・塩田平・・・青木村ぶらぶら・・・文明16年(1484年)の五輪塔

2017-12-15 | 古墳・遺跡・石塔婆
秋・・・11月20日、東信州・・・塩田平・・・青木村・・・ぶらり歩き・・・
小県郡青木村夫神・・・村指定有形文化財7文明の五輪塔・・・
五輪塔とはインドで発祥した仏舎利塔(ストーバ)、中国・朝鮮半島経由で日本に、デフォルメされて平安時代末期ごろから供養塔、供養墓として造られるように。中世から江戸時代まで貴人、高僧、高い身分の武士の墓として。

信州上田の・・・六文銭の写真帳

夫神山の麓・・・子檀嶺山が背景に。

説明板には文明の五輪塔二基と記されていますが四基あります・・・よくワカリマセン?
文明16年の刻が・・・1484年・・・室町時代の末・・・だそうです。

文明の五輪塔は右の2基のようです。どちらが人定塔、逆修塔かワカリません。
※撮影は11月20日。


※コメント欄開いています。

秋の八ヶ岳西麓・・・白樺湖の・・・安山岩の岩塊の下に眠る・・・御座岩遺跡

2017-11-18 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田の・・・六文銭の写真帳

八ヶ岳連峰のド真ん中を横断する・・・国道299号線・・・通称「メルヘン街道」の「麦草峠」から八ヶ岳西麓に下ってきました。
1947年農業用、温水のために造成された人造湖「白樺湖」です。標高1400m、いまではリゾート地としても有名になりました。

白樺湖の畔、安山岩の岩塊の下に・・・縄文、弥生時代の遺物が眠る池之平御座岩遺跡


遺跡の詳細については説明板を
1953年人造湖の水位が下がったとき岩塊の傍らから見つかり・・・諏訪の先人たちが発掘したもの、感謝。祭祀遺跡か?



池の平・・・あの戦争の終った1945~46年、外地から引き揚げた人たちが入植した開拓地、白樺湖は池の平湿地を堰止めた農業のための温水用人造湖。八ヶ岳西麓は尖石遺跡をはじめとする大古代遺跡が多数あるところ、池の平は現在の茅野市から大門峠を越えて佐久に抜ける古代東山道の要衝、御座岩遺跡は住居遺跡というより旅の安全を祈る祭祀の場であったと・・・推測?
湿地の中に眠るお宝・・・湿地は風化、酸化、腐食を防ぐ天然の真空パック・・・


道端に咲くリンドウ・・・
エゾリンドウ・・・かなあ?・・・リンドウ、オヤマリンドウ、エゾリンドウ、オヤマノエゾリンドウ・・・違いがワカリません・・・どうでもいいことですが。
※撮影は10月10日


※コメント欄オープン。

信州埴科郷・・・科野の里歴史公園・・・弥生時代の住居の復元ムラ

2017-04-25 | 古墳・遺跡・石塔婆
2017年3月22日、千曲市森の科野の里歴史公園を尋ねました。
1971年に森将軍塚古墳が国指定史跡になっ大々的にて発掘調査、1981年復元工事が開始。1992年完成。そのあとに長野県立歴史館(1994年開館)、千曲市立森将軍塚古墳館(1987年開館)、弥生時代復元住居ムラなど含めて整備された「科野の里歴史公園」です。

※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
弥生人の住んだ住居を復元したムラです。

高床式の貯蔵庫・・・でしょうか?




※撮影は3月22日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。

※公園の名前が「科野の里」になっています。「科野」とは大和政権が全国を統一しつつあるときの国名(現長野県)です。7世紀の終わりごろまでこの表記だったようです。古事記(712年)では科野、日本書紀(720年)では信濃だそうです。7世紀末~8世紀初頭の木簡には科野国と記されているそうです。8世紀初めごろから表記が科野から信濃になぜ変わったか・・・ワカリマセン。科野の地名由来は諸説あるようですが・・・階(しな)・・・階段状の山・・・河岸段丘の地形などからと思います。

※コメント欄クローズしています。

信州埴科郷・・・森将軍塚から・・・有明山将軍塚古墳へ・・・歴史マニア逍遥の道

2017-04-24 | 古墳・遺跡・石塔婆
2017年3月22日、千曲市森の森将軍塚古墳を尋ねました。
標高490mの丘の上の森将軍塚から、さらに比高約50m、10分ばかり上ると有明山将軍塚古墳があります。
有明山という将軍がいたわけではありません。
有明山に葬られたむかしの偉い人のお墓です。
4世紀の終りころとも5世紀の初めころともいわれますが確かなことはワカリマセン。

※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・

有明山(652m)に至る尾根の途中、標高544m、麓からの比高180m、赤松と落葉樹の混交林の中にひっそりと。

前方後円墳、全長36.5m、後円頂部直径10m、高さ7m、前方幅10m、長さ16.5m、高さ1m(1999年調べ)。
1999年発掘調査後、埋め戻されています。立木は少しづつ整理されてるようです。

1973年市指定史跡、2007年国指定史跡に。

有明山将軍塚への道から、森将軍塚を見る。
※撮影は3月22日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。
※森将軍塚古墳館から森将軍塚まではバスがあります。


信州埴科郷・・・古代の繁栄を語る・・・森将軍塚を尋ねた

2017-04-23 | 古墳・遺跡・石塔婆
2017年3月22日、千曲市森の森将軍塚古墳を尋ねました。
森将軍塚?・・・森さんという将軍様のお墓のことではありません。
あんずの里」で有名な千曲市森という地籍(むかし埴科郡森村→屋代町→更埴市)にある4世紀中ごろに造られたといわれる古墳です。
森地籍にあるたぶん将軍のような偉い人の古いお墓・・・ということで森将軍塚と呼ばれるようになったようです。

※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・


長野県立歴史館(標高360m)あたりから見た森将軍塚古墳(標高544m)です。
長野方面からの北陸新幹線、上信越自動車道が有明山トンネルに入るあたりで車窓から見える風景です。

比高130mを20分くらいかけて登ってくるとこんな景色が広がってきます。

全長100mの前方後円墳です。1981年から11年の年月をかけて1992年に復元完成したものです。

全長100m、後円の直径50m、高さ11m、前方の幅30m、長さ41m、高さ4m。
積石塚(葺石)の再現です・・・すべて推測の上に復元(復原?)・・・この山で採れた石英斑岩を組み合わせた野面積。

森将軍塚から見た善光寺平、雪をいただいた山は飯縄山
古代・・・この地の支配者は・・・千曲川流域を望むこの山の上で・・・
何を思い・・・何を語った・・・であろうか・・・
※撮影は3月22日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。
この古墳は1965年採石場として開発がはじまったころ、この周辺の小古墳が崩される状態となり、1970年保存対策協議会が発足、住民の署名、地権者の協力などもあり1971年国指定史跡に。発掘調査後に1981年復元工事が開始。1992年完成後は長野県立歴史館(1994年開館)、千曲市立森将軍塚古墳館(1987年開館)、弥生時代復元住居跡など含めて「科野の里歴史公園」として整備。副葬品は全国どこの古墳と同じように盗掘、乱掘によりほとんどなかったようですが埴輪、鏡片、鉄剣などが出土したようです。以後、この周辺の有明山将軍塚、倉科将軍塚、土口将軍塚が国指定史跡に加えられ埴科古墳群と呼ばれるように。小さな円形古墳、方形古墳は数えきれないほどあるようです。


冬の信州上田・・・稲倉の棚田・・・この土地を切り開いた先人たちの・・・古墳の見える風景

2017-03-15 | 古墳・遺跡・石塔婆
2017年2月、上田市殿城(旧石清水村)稲倉の棚田。雪景色。
今回は「上田六文銭」さんの画像提供です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。
昨年の秋、ここ稲倉の棚田を尋ねたとき・・雑草に埋もれている古墳を見ました。
ふたたび冬、稲倉の棚田・・・古墳を尋ねて見ました。あのときは草に囲まれていましたがいまは草も枯れて見やすい。
この写真では2基、近くにもう2基,ぜんぶで4基あります。むかしは20基を越えていたそうです。

古墳A

古墳B

古墳C

古墳D

小さな円墳・・・大きな将軍塚から埋葬者の地位が少し下のランクにひろがったころの古墳でしょうか。棚田の開発とともに徐々に崩されていったものと思われ、歴史的な検証はされていないようです。副葬品も盗掘というより廃棄されていったのでしょうか。
残された4基の小円墳から、この土地を切り開いた先人たちの生きた証が見えてきます。
※撮影日は2月15日、Panasonic LUMIX DMC-FZ100。

上田市内の埋蔵文化財包蔵地域をネットで検索しましたら459の登録がありました。この殿城地区だけでも15の古墳・遺跡が登録されていますが、ここ石清水の古墳は登録されていないようです。調査の対象から外されているのでしょうか。よくワカリマセン。
※コメント欄クローズしています。