比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

61年前の水爆実験・・・第五福竜丸をテーマに・・・ミュージカル「鯨波の声」・・・を見た

2015-05-28 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
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5月24日(日曜日)、甲府市に・・・市民100人がつくるミュージカル「鯨波の声(ときのこえ)」・・・を見に行ってきました。

いまから61年前の1954年3月、南太平洋マーシャル群島ビキニ環礁で行われた米軍の水爆実験・・・その近海の公海上で操業中の日本のマグロ漁船団、その中の一隻「第五福竜丸」・・・23人を乗せた小さな木造船に放射能を含んだ珊瑚の小さな粒が降り注ぎました。異常を感じた第五福竜丸は無線を発することなく母港焼津港へ。大量に放射能を浴びた船員たち。そして無線長の久保山愛吉さんは6ヶ月後の9月「原水爆の被害は私を最後にしてほしい」という言葉を残して死去、享年39歳。

ミュージカルのテーマは「第五福竜丸」の被曝。
ミュージカルのプロローグは東京都内の中学生たちと第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんの出逢いからはじまります。

   
写真上段の左右、下段の左は2012年1月放映の日本テレビ・ドキュメント「放射能を浴びたX年後」より、下段右は2011年8月東京都夢の島で撮影したもの。このとき、放射能を浴びたマグロ漁船は992隻、放射能は太平洋の気流に乗って、日本、アメリカ大陸まで飛散していることが観測されています。

←の写真は埼玉県東松山市の「丸木原爆美術館」の大作「焼津」が展示されいる部屋にある第五福竜丸の模型です(2011年8月6日撮影)。
当事の乗組員で大石又七さんという方が1983年、東京都町田市の私立和光中学校の生徒に事件について取材され、30年の沈黙を破ってはじめて事件のことについて口を開きました。これを機に大石さんは第五福竜丸の模型船作りをはじめ、一号船を和光中学に、つづけて夢の島展示館、広島平和記念館、長崎平和記念館などに寄贈。これ以降、積極的に被爆体験を語り、核廃絶を訴える著作、活動をはじめます。
この模型船は、それから20年後の2003年そのことを知った和光中学の生徒たちが模型船作りをはじめ、大石さんの指導の下に3年の歳月をかけて完成、「平和への願い」をこめて2007年、丸木美術館に寄贈したものです。

大石又七さん・・・1934年生まれ、第五福竜丸の漁船員、被曝のときは20歳。久保山さんらと入院生活を送り、その後、被爆者への無理解、偏見に耐えられず1955年漁師をやめて東京でクリーニング屋に。被曝について語るようになったのは30年後。2010年クリーニング店廃業。

ミュージカルは大石さんを軸に展開していきます。

カーテンコールです。

市民100人が出演した舞台と・・・キャパ(収容能力)2689人の客席を埋め尽くした市民とが一体となります。

コラニー文化ホール(山梨県民文化ホール)・・・
コラニーは協賛冠名・・・甲府市にある貴金属加工・販売会社。
コラニーとはコロナとかコラールとか環状のもの・・・指輪?・・・の意味か?

富士山と山梨県立美術館と山梨県民文化ホールは山梨県人の誇りです。

大石又七さんです。

ビキニ環礁の水爆実験から57年後の2011年3月。
福島第一原発メルトダウン・・・水素爆発。

1945年広島・長崎の原爆。
1954年マーシャル群島ビキニ環礁水爆実験。
広島・長崎に原爆が落とされから9年後です。
第五福竜丸事故。第五福竜丸に代表されますが約1000隻の漁船と漁師たち、マグロも被曝しています。
同じ1954年「原子力研究開発予算に関する法案」が中曽根康弘氏らによって国会に提案され、1955年この法案は成立、正力松太郎氏が初代原子力委員長になって日本の原子力平和利用の動きが始まります。

1963年東海村原発で初発電。
1973年スリーマイル島事故。
1986年チェルノブイリ事故。
1999年東海村原発臨界事故。
2011年福島原発事故。

1945年の広島、長崎の原爆、いまも原爆症の認定問題があります。。
1954年ビキニ環礁水爆実験の被爆者・・・992隻の船に乗っていた数万人の漁船員には被曝手帳も交付されていません。
60年経って帰島の叶わないマーシャル群島ビキニ環礁の人たち。

人間が最後までコントロールできない核とは共存できない


※このミュージカルにお誘いしていただいた「こきおばさん」、一緒に観劇してくださった「山梨平和ミュージアム」のホットケーキ様、インドのコルカタの「マザー・テレサの家」で貧しい重度の障害児らと暮す渋谷りつ子さん・・・いろいろ教えていただきました。あらためてお礼申し上げます。

メッセージ&フォトブックス 「ノー・ニュークス」  ヒロシマ ナガサキ フクシマ・・・を読んだ

2015-05-19 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
4月のはじめに新聞の新刊紹介欄でこんな本があることを知りました。
図書館にまだ入庫してない新刊本、リクエストして購入してもらい讀みました。

メッセージ&フォトブックス 「No Nukes」 ヒロシマ ナガサキ フクシマ 
(講談社 2015年4月20日第1刷発行)


ノーニュークス』・・・初めて聞くカタカナ語です。「ノーモアヒロシマ」と同じように誰でも知っている言葉にしたい。
Nukes・・・核兵器、原子力発電所、原子力 (用例) No Nukes・・・核反対 【研究社】新英和中辞典。

No Nukes」は28のメッセージと17の写真、2つの絵から成り立っています。
メッセージを寄せているのは広島、長崎、福島の学生、音楽家、作家、詩人、俳優、学者、一般人、被曝者・・・


(左)現代美術家 奈良美智(よしとも)の作品「NO NUKES」。 (右)20世紀のアメリカを代表する画家ベン・シャーンの「ラッキ―ドラゴン」。
ラッキードラゴン」とは1954年3月マーシャル群島ビキニ環礁のアメリカ軍水爆実験により被曝した第五福竜丸のこと。
I AM A FISHERMAN AIKICHI KUBOYAMA BY NAME・・・わたしは漁師、名前は久保山愛吉・・・
・・・と胸から吊り下げられた札に書かれている。

ベン・シャーンの「ラッキードラゴン」の絵をもとにして「これが家だ」という絵本の文・構成をしたアーサー・ビナードさんのメッセージ。
※↓の写真を2度クリックすると文章が読めるくらいに拡大されます。ぜひ読んでみてください。


◎「第五福竜丸」について記したブログです。ぜひ見てもらいたいです⇒クリック 

※2015年5月24日、甲府市コラニー文化ホールでミュージカル「鯨波の声~ラッキードラゴンと呼ばれた船~第五福竜丸が公演されます。


最後に原爆詩の朗読をライフワークにしている女優の吉永小百合さんのメッセージを紹介します。


100年を経てなお不毛の渡良瀬谷中村・・・
1945年の広島、長崎の原爆、
いまも苦しんでいる人たちのいる熊本水俣病、新潟阿賀野川水俣病、富山神通川のイタイイタイ病、
60年経って帰島の叶わないマーシャル群島ビキニ環礁の人たち、
1986年のチェルノブイリ原発事故、、
2011年東日本大震災、福島第一原発のメルトダウン。
ふるさとに帰れない人たち。

人間が最後までコントロールできない核とは共存できない。


5月の渡良瀬遊水地・・・不毛の大地に・・・オオヨシキリが叫んでいる

2015-05-18 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
5月10日、久しぶりの渡良瀬遊水地です。

栃木県下都賀郡の旧谷中村役場あと・・・旧谷中村・・・いまから103年前の1912年強制収用されて完全に消滅した村。
渡良瀬遊水地3300㌶、周囲30㎞、東京のJR山手線の中とほぼ同じ。
3月の野焼きから2ヶ月・・・葦が青々と茂っています。かつては反当たり8俵のお米が収穫できる豊饒の地でした。
渡良瀬川最奥の足尾銅山の鉱毒を封じ込めるための遊水地の工事がはじまったのは1912年。
谷中村のいまは不毛の草原です。


オオヨシキリが縄張り宣言をしてます。
行行子」(ギョーギョ―シー)と鳴くのだそうです。「行行子」はオオヨシキリの別名で夏の季語。


谷中村消滅の顛末を書いた本です。
荒畑寒村著「谷中村滅亡史」(岩波文庫1999年刊)

荒畑寒村(1887~1981年)が1907年20歳の時に書いたもの。造船工であった寒村が行商をしながら旅をして田中正造の案内で鉱毒にあえぐ農民の苦しみをつぶさに見て歩き稿をおこしたといわれる。谷中村村民が土地収用に抵抗する1907年平民書房から発刊、たちまち発禁処分に。
20歳の若者の書いた書ですが「公害と開発」「国家と企業」の関係を告発した不滅の書です。


帰りたくても帰れない不毛の草原。
いま‥・この時代に・・・重なり合う・・・もう一つの不毛の大地が見えてきます。

足尾銅山と渡良瀬遊水地、そして「田中正造」の年譜を追ってみました。
1602年 足尾で銅の採掘開始。
1877年 元小野組古河市兵衛が経営を引き継ぐ。
1885年 鉱毒被害が新聞報道。
1897年 田中正造、国会で鉱毒の害を質問演説。
1900年 田中正造、演説「亡国に至るを知るらざれば、これすなわち亡国の儀につき」
1901年 国会議員を辞す。天皇に直訴を計画するも阻止され狂人として扱われる。
1902年 渡良瀬川の流域に鉱毒沈殿、遊水地計画が。谷中村が候補地に。
1904年 田中正造が谷中村に移住。
     栃木県が堤防工事名目で堤防破壊。谷中村買収開始。地価は1/5。
     免租により選挙権(公民権)を失効。つまり村長もいなくなるわけです。
1906年 強制廃村。
1907年 土地収用法、強制執行、居住を続ければ犯罪者扱い。
1911年 北海道佐呂間町栃木地籍に移住(16戸137人)。
1912年 土地買収額を5割増しに判決。地価1/5の5割り増し?
     遊水地の工事始まる
1913年 田中正造死去。
1973年 足尾銅山閉山。
1976年 谷中湖着工、1989年完成。
1998年 渡良瀬遊水地がほぼ現在の姿に。

100年を経てなお不毛の谷中村・・・70年経って帰島の叶わないマーシャル群島ビキニ環礁の人たち1986年のチェルノブイリ原発事故、ふるさとに帰れない人たち。
わからないことが多すぎます。

いま・・・ラッキードラゴン・・・第五福竜丸から・・・何を考えたらいいのだろう

2015-04-26 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
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ここに2冊の本があります。

ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸
  (ベン・シャーン 構成・文 アーサー・ビナード 集英社2006年刊)

ベン・シャーン・・・ユダヤ系リトアニア人(1898~1969年)、7歳のとき移民としてアメリカに。石版画職人から画家に。底辺の労働者と身近に接し社会派の画家として貧困、差別の問題を扱い続けた。
1957~58年月刊誌「ハーパーズ」に掲載された物理学者ラルフ・ラップの「第五福竜丸に関するルポ」の挿絵を担当、その後その挿絵を発展させて「ラッキードラゴン」シリーズとして発表した。
絵本「ここが家だ」は日本在住の詩人(中原中也賞受賞)アメリカ人アーサー・ビナード(1967年~)がベン・シャーンのラッキードラゴンの絵に文をつけ絵本にしたもの(日本絵本大賞受賞)。ベン・シャーンのラッキードラゴンが発表されてから50年の月日がたっている。

ベン・シャーンを追いかけて」(永田浩三著 大月書店2014年刊)

1954年3月1日南太平洋マーシャル群島ビキニ環礁のあたりでアメリカ軍が水爆実験をした。ヒロシマ原爆の1000倍の威力という。このときこの海域で操業していたマグロ漁業の日本漁船は約1000隻(922隻の漁船のマグロは放射能汚染で地中深く埋められます・・・築地まぐろ塚))。、その中にいた第五福竜丸、乗員23名、SOS無線を発することもせずに母港焼津に。

ラッキードラゴン」・・・福と龍・・・福竜丸




第五福竜丸だけがクローズアップされますが現場海域には1000隻弱のマグロ漁船団が操業していました。日本政府、アメリカ政府でその調査事例を非公開にした部分があるようです。元高知県高校教師の山下正寿先生は現役時代から生徒や有識者たちと、聞き取り調査、隠れた資料の掘りおこし、アメリカ政府公文書館の公文書の分析、厚労省の情報公開請求などを行い、いまもその活動を続けているようです(山下正寿「核の海の証言 ビキニ事件は終らない」新日本出版社2012年刊)。

第五福竜丸のことを書いた過去のブログ(2011年8月出稿)です↓クリック
新木場・・・夢の島で・・・負の世界遺産・・・第五福龍丸を見た
ビキニ環礁の水爆実験のことを書いた過去のブログです↓クリック
58年前のビキニ環礁水爆実験・・・ロンゲラップ島の人々は」


少女のころ故郷ロンゲラップ島を離れマジェロ島に暮らすオバアチャン。「島に帰るか」の質問に「私はもう被曝しているから帰ってもいいが、子供や孫は帰らせたくないと思います」といいます(2012年8月日本テレビ放映番組「除染の島へ 故郷を追われた27年」より)。

ベン・シャーンについて詳しく記した本が永田浩三著「ベン・シャーンを追いかけて」。
この中の一部を紹介します。左の絵はベン・シャーンが描いたもの。右の写真は永田さんのお母さんが生まれた広島市胡町の尼子商店の隣りの小田政商店の原爆被災後の鉄骨だけの家屋。爆心地から数100mだそうです。

ベン・シャーンはこの絵で何を語ろうとしたのでしょうか・・・そして↓の写真はメルトダウン後の福島第一原発の建屋(NHKテレビ「メルトダウン」より)。


◎「第五福竜丸」について記したブログです。ぜひ見てもらいたいです→クリック 

※この記事はいつもわたしにブログにコメントをくださる山梨の「こきおばさん」の2015年3月7日のブログ「ここが家だ、ベン・シャーンの第五福竜丸を見ていつか記事にしなくてはと思っていたものです。

※2015年5月24日、甲府市コラニー文化ホールでミュージカル「鯨波の声~ラッキードラゴンと呼ばれた船~第五福竜丸が公演されます。

初夏の渡良瀬遊水地・・・自然が再生されたようすが見たい

2014-05-24 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
5月14日、久しぶりに渡良瀬遊水地を巡りました。


5月23日の朝刊に天皇・皇后が4月21・22日、1泊2日の「渡良瀬川を巡る私的旅行」をされたという記事が載っていました。
三面記事といわれる第一社会面から2頁前の第3社会面、しかも上段から3段目の小さな扱いです。





NHKドラマ・・・「足尾から来た女」・・・帰りたくても帰れない故郷の山河

2014-01-27 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
NHK総合テレビ土曜ドラマ枠・・・「足尾から来た女」・・・1月18日、25日の21:00~22:13、前後篇に分けて放映されました。

いまから100数十年前、渡良瀬川の最奥、足尾鉱山の鉱毒被害が公になってからのことです。煙害は裏日光一円の山々の緑を枯らし渡良瀬川に流れた鉱毒は流域の農地や人口密集地を侵し、さらに利根川流域、江戸川流域にも広がっていきます。1902年、政府は鉱毒の沈澱地として中流域の谷中村を選び、強制立退きを迫り強行します。

物語はこの時代に谷中村に生きた新田サチという女を中心にして進みます。
2006年、谷中村は強制廃村になり村びとたちは先祖から引き継いだ村を離れていきます。その数。3000人。

田中正造・・・これが今の日本だ。家というものは人間が作り出した文明そのものだ。村もそうだ。
それを自分たちで毀している。川を汚し村を潰し、そこに住む人々を殺している。口惜しいなあ。


お前たち若いものは、生き続けて、わしらが死んだあとも、この村のことを伝えていってほしい。
新田サチは生き続けるために旅立ちます。

旧谷中村は渡良瀬遊水地に。
3300㌶、周囲30㎞、JR山手線が34㎞といいますから山手線圏内より少し小さいくらいの広大な何もない草原です。

2009年3月に訪れたときの旧谷中村の風景です。
草原の中に立札だけの神社跡、お寺跡、役場跡、人家跡があります。

2011年1月、旧谷中村を訪れたとき。
延命院の鐘から振りかえると旧谷中村の村びとたちの共同墓地跡です。廃村になったのは1906年、もう108年たっています。
・・・新しい卒塔婆とその下にお花が。


鉱毒を閉じこめた・・・広大な何もない草原です・・・谷中湖に閉じ込められた鉱毒は永遠にそのままです。
不毛の大地・・・という言葉は稔ることなき土地をいいます。
帰りたくても帰れない土地です。
いま‥・この時代に・・・重なり合う・・・もう一つの不毛の大地が見えてきます。


足尾銅山と渡良瀬遊水地、そして「田中正造」の年譜を追ってみました。
1602年 足尾で銅の採掘開始。
1877年 元小野組古河市兵衛が経営を引き継ぐ。
1885年 鉱毒被害が新聞報道。
1897年 田中正造、国会で鉱毒の害を質問演説。
1900年 田中正造、演説「亡国に至るを知るらざれば、これすなわち亡国の儀につき」
1901年 国会議員を辞す。天皇に直訴を計画するも阻止され狂人として扱われる。
1902年 渡良瀬川の流域に鉱毒沈殿、遊水地計画が。谷中村が候補地に。
1904年 田中正造が谷中村に移住。
     栃木県が堤防工事名目で堤防破壊。谷中村買収開始。地価は1/5。
     免租により選挙権(公民権)を失効。つまり村長もいなくなるわけです。
1906年 強制廃村。
1907年 土地収用法、強制執行、居住を続ければ犯罪者扱い。
1911年 北海道佐呂間町栃木地籍に移住(16戸137人)。
1912年 土地買収額を5割増しに判決。地価1/5の5割り増し?
     遊水地の工事始まる
1913年 田中正造死去。
1973年 足尾銅山閉山。
1976年 谷中湖着工、1989年完成。
1998年 渡良瀬遊水地がほぼ現在の姿に。

渡良瀬遊水地・・・2008年3月、渡良瀬遊水地を訪れてから谷中村のことに触れ、何回も訪れています。→バックナンバーのブログです。

58年前のビキニ環礁水爆実験・・・ロンゲラップ島の人々は

2012-12-14 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
今年の8月13日、AM0:50放送の録画を見ています。
日本テレビ放送のNNNドキュメント12というシリーズ「除染の島へ 故郷を追われた27年」という番組です。


いまから50数年前、アメリカはミクロネシア連邦の東、マーシャル群島で原子力爆弾の実験を67回行いました。その中で最大の実験は1954年の水爆実験ブラボー」…(広島の原爆の1000倍といわれています)。
この実験で数100㎞の圏内の島々や、第五福竜丸をはじめとする日本のマグロ漁船団が被曝しました。

ビキニ環礁から240㎞のロンゲラップ島の島民は50時間後に島を退去、アメリカは3年後に安全宣言をして250人が島に戻ったそうです。
島民の間に被曝症状が出ます。甲状腺腫瘍、白血病、流産、死産、胃癌などです。島民は31年後の1985年に自主避難します。

そのご島民は各地に散っているようです。マジェロ島に住むこのおばあちゃんはロンゲラップ島で被曝し、そのご8人の子供を産むが、甲状腺腫瘍の手術の跡が生々しい。
島に帰るか」の質問に「私はもう被曝しているから帰ってもいいが、子供や孫は帰らせたくないと思います」といいます。


遥か遠い故郷の海に向かって「私の生れ育った島を紹介するね」と歌う姿が悲しい。

58年たった今、アメリカが除染を進めているがロンゲラップの本島の1/3程度…周囲の島々(ロンゲラップ諸島は61の島からなる)は手つかず。
帰島している島民はいない。

福島第1原発の水素爆発。


帰りたい、帰れるだろうか。
   

福島原発の放射能とビキニ環礁の放射能の違いは科学者ではないわたしには何一つわかりません。

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今夜テレビ放映・・・ビキ二環礁・・・水爆実験・・・放射能を浴びたX年後

2012-01-29 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
1月23日の某新聞朝刊のこんな記事を読んでスクラップにしておきました。

1月29日・・・日テレ・深夜0時50分~1時45分・・・「放射能を浴びたX年後、ビキニ水爆実験、そして・・・」(愛媛県南海放送製作)というドキュメンタリーが放映されます。
1954年(今から58年前)米軍が行ったマーシャル群島ビキニ環礁での水爆実験、日本では第五福竜丸事件として知られていますが、そのときその海域で操業していた漁船は数100隻(1000隻を超えるとも)、2万人が働いていたといわれます。
そのかたたちのそのごはどうなっていたのか。被曝したのは第五福竜丸の23人というはずはありません。でもそのご報道が途絶えました。事件の顛末は闇に閉ざされ消えてしまったのです。
この問題を1980年代から追い続けた高知県の元教師がいて、このかたの調査に目をつけた南海放送のディレクターが2003年から調査取材を開始、成果を映像化してほぼ毎年、(残念ながら)深夜番組で流してきました。(残念ながら)反応はまったくなかったそうです。
このドキュメンタリーが関東首都圏エリアのテレビ局で今晩放映されます
(残念ながら)深夜枠です。スポンサーがつかないからでしょうね。視聴率も出ないでしょう。夜に弱い私も付き合えない時間帯です。録画しておいてあとから見ます。

内容はどのようなものか何も知りません。


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上州・・・安中駅・・・駅のそばの巨大工場を見た

2012-01-10 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
1月7日、SL新春碓氷号を追いかけて安中までやってきました。これから松井田、横川までSLを追いかけていくわけですが、それ前に安中市街地をチョッと見ていきます。

安中市・・・人口60000人、安中といわれる中心部は碓氷川と九十九川に囲まれた河岸段丘上の静かな町です。
江戸時代は徳川譜代大名が管理する安中藩三万石の城下町。中仙道の安中宿で栄えたところですが宿場町を彷彿させるものは見られません。安中藩奉行役宅、武家長屋などあるそうですがが、ここではパス。
さて前置きが長くなりました。前に進みます。

安中駅です。車で旅してもまず駅に行くというのがわたしの旅のやり方です。JR信越本線・・・高崎から電車で10分チョッとの距離にある駅です。信越本線といっても信州にも越後にも行けません。運行は高崎~横川間です。その先はプッツンと途切れて、篠ノ井駅から直江津駅までがふたたび信越本線になります。中抜き路線です。

ホームに新島襄の旧宅の案内が。同志社大学を創設した新島襄は安中藩板倉家の家臣の子。江戸屋敷に生まれこの町に住んだことはなかったようですが、この町にキリスト教の根を下ろし薫陶を受けた人々が新島学園を開校させました。



ホームの先に見える工場は東邦亜鉛安中精錬所です。
1937年日本亜鉛として操業開始、東邦亜鉛安中精錬所。翌年の1938年から公害?が見られた?。最初は蚕の生育不良という形で出たそうです。まだカドミュームが原因だなんて解明されていない時代です。巡査を仲介とする請願、大学による水質検査、土壌調査あり、労組スト、組合切り崩し、第二組合組織、第一組合消滅とかありました。1955年富山県の開業医が神通川のイタイイタイ病の存在を発表、1968年政府はイタイイタイ病を神通川上流の神岡鉱山の亜鉛処理からの排出が原因と認定、同年神通川イタイイタイ病訴訟開始、1971年原告側が勝訴。
安中公害訴訟が前橋地裁に受理されたのは1972年、1985年東京高裁によって和解勧告、和解が成立したのは1986年。実に48年の歳月が流れました。
安中市民にとって辛い話です。亜鉛生産は近代日本の重要な工業です。地元もそれによって発展しました。それと平行して亜鉛生産の処理過程によってカドミュームが排出され、自然環境にある水や土を汚染し、そこに生きる動植物のイノチを侵しました。

信越線が全通のころこの駅を通過するたびに山全体が工場という威容を見てきました。どうか過去にこういう話があったのだということを認識してもらいたいものです。

※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。

新木場・・・夢の島で・・・負の世界遺産・・・第五福竜丸を見た

2011-09-12 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
8月27日、東京都江戸川区葛西臨海公園で遊んだあと隣の駅の東京都江東区新木場駅に降りました。ここでどうしても見て行きたいところがあったのです。

夢の島公園の一角にある第五福竜丸展示館
時間は4時過ぎ、閉館後でしたがまだドアを閉める前で何とか中に入れてもらい船の周りをひとまわりましました。

第五福竜丸ってご存知でしょうか・・・
今から50年以上むかしの1954年3月1日、南太平洋マーシャル群島ビキニ環礁でアメリカ軍の行った水爆実験の放射性降下物に被曝した漁船です。




船尾から見ると完全な木造船です。舵も木製です。
総トン数140.86t、全長28.5m、幅5.9m、250馬力。

米軍の通告していた海域外で操業していた日本漁船は数100隻、その想定外の海域で最も多くの放射能降下物を浴びたのが第五福竜丸の乗組員23名、延縄を撤収することに手間取り被曝量が多くなったともいわれます。

SOSを発することなく母港焼津に帰港したといわれます。
SOSを発信しなかったのは・・・??? 
このとき日本の漁船が捕獲した放射能汚染のマグロは築地市場で地中深く埋められ「マグロ塚」が築地市場の一角に(いまはこの展示館の敷地に)。

第五福竜丸の無線長久保山さんは6ヵ月後、「放射能症」(日本医師団発表)で死亡、米側では今もそれを否定。

第五福竜丸は放射能除去後、東京水産大学練習船に、1967年廃船、夢の島近くの15号埋立地にスクラップ業者により廃棄されていたものをある青年が見て1968年3月朝日新聞投書欄「声」に投書したのがきっかけで最初は江東区民から保存運動が起り地元有志が船体を30万円で買取り、全国各地に募金運動が広がっていったといいます。1973年財団法人第5福竜丸平和協会が設立、船体は東京都に寄贈、1976年夢の島に展示館が開館しました。


閉館時間後訪れたこともあり、照明もなく写真はぶれています。展示館の中にガイガーカウンターなど、外には久保山愛吉さんの記念碑、マグロ塚、福竜丸のエンジンなどありッもっとゆっくり見たかったのですが、次の予定のため時間がなくて打ち切り。

最近、読んだ本です。

佐野真一著津波と原発」(講談社・2011年6月18日刊) 
東日本大震災から3ヶ月後発刊のルポタージュですが際物という感じがしません。筆者は「巨怪伝─正力松太郎と影武者たちの一世紀」という書もあり原子力についての政財官の動きは前から綿密な取材があったようです。

津波については三陸の宮古まで足を運んで現地ルポをしています。現代の万里の長城といわれる田老町の高さ10.8m、長さ2.4kmの防潮堤が高さ38mの津波にいとも簡単に破壊されたことをルポしています。
原発・・・福島原発についてはかなり近くまで入っています。福島原発の立地した海のチベット(いってはいけないワードですが)といわれる浜通りの人文地理的な分析に始まり、原発のある長者ヶ原は元陸軍飛行場、西武の堤康次郎が戦後3万円で買取り塩田に。原発の計画が始まり3億円で売却までも追っています。

第五福竜丸の久保山愛吉さんが生死をさまよっているときアイゼンハワー米大統領は「アトム・フォー・ピース」と演説し、ダレス国防長官はビキニ患者は「血清肝炎だ、スパイの可能性もある」と語ったとも書き。1955年正力松太郎が初代原子力委員長になリその後の原子力利用の動きを書いています。消費電力の多い送電コストの安い人口稠密地になぜ原発を造らないのか。原発を原発三法という麻薬のような交付金漬けで受け入れさせる現実をついているような気がします。 

内容の評価はともかく、一つの見方として読んでみてもいい本かもしれません。それをどう判断するかはそれぞれの問題です。
 

ひろしま・ナガサキの被爆、そしてマグロ漁船団の被曝・・・日本は3度の核放射能汚染に曝されました。
そしていま、福島原発の核放射能汚染です。4度目のフクシマの被曝
鳥も空を飛ばなくなり、魚も水中から姿を消し、豊かな土が産み出す野菜・穀物からも不気味な発信音が発せられるような時代が来るかもしれません。
・・・「沈黙の春」です。

そしていまみんな沈黙を守っています。