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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

信州松代の・・・あの戦争の負の歴史遺構「大本営」を訪ねて

2022-05-10 | 語り継ぐ責任 あの戦争
                                       、
松代城の桜紀行・・・
城下町、街道町としての静かな佇まいがなんともいえない町です。
海津城址、旧真田邸、真田家宝物館、佐久間象山記念館、象山神社と見どころいっぱい。

最後に古いブログから・・・
松代の「大本営」のことを取り上げてみました。
このブログは2011年5月16日に松代の大本営を訪ねたときのログ信州松代・・・負の歴史遺産・・・松代大本営地下壕跡(5月27日アップ)から抜粋、リライトしたものです。

大本営とは戦国時代の戦さにおける大本陣と同意語、最高司令官の陣取る場所です。この時代の日本の最高司令官は天皇です。
いまから78年前の1944年11月11日11時、長野県松代町(現長野市」で最初の発破とともに大工事(略号で「マ工事)が着工されました。総工費2億円(今の金で2兆円?。戦艦大和の建造費が1億3000万円ともいわれます)。朝鮮人7000人、日本人3000人、敗戦時までの9ヶ月で延べ300万人の労働力をつぎこみ計画13㎞(2.4㌶)の75%約10kmの地下壕を掘ったそうです。

太平洋戦争が敗色濃厚、皇居の安全も考慮して日本の真ん中に巨大防空壕を築き天皇を守り本土決戦をしようという作戦でした。
1945年8月15日、日本敗戦、天皇の御座所松代の大本営に遷されることなく終わりました。

その後、松代大本営は長いこと放置されていましたが地元高校生の沖縄訪問から沖縄戦研究班が生まれ、やがて戦争史跡としての公開運動が起こり1990年長野市によって公開に至りました。

2011年5月16日、公開されている象山壕に入りました(無料)。壕はそのほかに地震観測所に使われている舞鶴山と皆神山があります。


総延長約6km.エプロン姿のボランティア?のご婦人が団体さんにガイドをしていましたのでご一緒させていただきました。淡々とした説明ですがいいお話しでした。当時は圧縮空気による振動式掘削機、ロッドによりあけられた穴にダイナマイトを詰め発破をかける作業が続いたそうです。不発ダイナマイトがあり、これによる事故が多かったといわれます。金槌と鏨による手堀りも同時進行で行いました。
壕を掘りますから掘った岩を外に出すわけです。フォークリフトもパワーシャベルもダンプカーもない時代です。モッコで担ぎ、トロッコを押して、炭鉱のボタ山のようなものが築き上げられます。ズリ山です。敵機に見つかるといけないので学徒・児童が山から木の葉を取ってきて被せたそうです。このズリは戦後、米軍の厚木基地や三沢基地の建設資材に利用されたそうです。


ようやく表に出ます。ホッとする瞬間です。

工事は西松組、鹿島組が請け負い東部軍工兵隊の指揮の下、熱海鉄道教習所、産業報国隊、勤労奉仕隊、学徒、児童の勤労奉仕、それに朝鮮半島からの労働者(7000人とも)です。強制連行労働者といっていいかどうかは解釈の分かれるところですが一応は労働契約がされていたといいます。実態は過酷な労働と発破や落盤による事故、劣悪な食料事情による栄養失調、現場請負の親方のタコ部屋搾取もあったようです。朝鮮人犠牲者の数は1000人とも200人とも300人ともいわれますが確かな数字は終戦時の混乱の中で闇の中に消えました。一方では地元住民との素朴な交流もあり戦後もその交流が続いたそうです。


もう77年もむかしのことです。負けた戦争の不条理さ,役に立ったかわからない巨費を投じたこの未完の設備、そして全国にあった朝鮮人の労働、日本人にとって語りたくない、目をつむりたい、見ないフリをしたいことです。

案内のご婦人(戦争も戦後も知らない世代の人のようです)が最後にこんな言葉を引用して話を終わられました。

「過去の真実に目を瞑るものはほんとうの盲目になる」・・・
★西ドイツ大統領や統一ドイツ大統領を務めた、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が1985年5月8日、西ドイツの首都ボンの議会演説で。
わたしたちの先輩が経験した失敗の歴史を次の世代に語り継ぐことがわたしたちの責任です。

松代を訪ねたらもう一ヶ所、訪ねてほしい場所。
明徳寺・・・第二次世界大戦末期の硫黄島の戦い・・・日本軍守備隊総指揮官 栗林大将の墓です。

曹洞宗龍漂山明徳寺・・・明徳元年(1390年)開基。寺領20石。

墓前に供えられたスコッチウヰスキー・・・ジョニーウォーカーの赤ラベルが風雨の晒されています。
水割りの水まで供えられていました。何かジーンときます。

詳細は2011年5月25日のブログ・・・信州松代・・・明徳寺・・・硫黄島に・・・散るぞ悲しき・・・栗林中将の墓に詣でる・・・をご覧ください。

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今日は何の日・・・80年前の12月8日・・・日本がアメリカと戦争を始めた日

2021-12-08 | 語り継ぐ責任 あの戦争
2020年12月8日のブログの再掲載です。

今日は何の日・・・
1941年12月8日・・・いまから80年前の太平洋戦争・・・・日本がアメリカと戦争を始めた日・・・


日本国民が「忘れてはならない日・・・1941年12月8日太平洋戦争開戦の日・・・1945年6月23日沖縄戦終結の日・・・8月6日広島原爆の日、8月9日長崎原爆の日・・・8月15日太平洋戦争敗戦の日・・・5つの日のひとつ・・・です。

1941年12月8日午前1:30真珠湾攻撃の写真です(現地時間では7日午前7:30)。

★開戦前・・・大日本帝国海軍連合艦隊司令長官山本五十六は近衛文麿総理大臣に「開戦か否か」の意見をもとめられ「ぜひやれと言われればはじめの半年か一年の間は暴れてご覧に入れますが、しかしながら二年三年となれば全く確信が持てませぬ」と答えたとそうです。これを後から伝え聞いた第四艦隊司令長官井上成美は「海軍はやれません。戦えば必ず負けます」と答えたほうが戦争を回避できたかも・・・といったといいます。
真珠湾攻撃は成功したが、その半年後のミッドウエイ開戦において帝国海軍は壊滅。山本五十六はその1年後ソロモン群島ブーゲンビリア塔上空において飛行中、戦死。

★海軍大将米内光政は三国同盟が結ばれたとき海軍が反対することは「ナイアガラの滝に逆行して孤独な船を漕ぐようなもの」と嘆息したといいます。「もし反対すれば殺されたでしょう」と述懐したそうです。

総力戦研究所・・・日米戦争開戦1年前の1940年9月、近衛内閣は総理直轄の研究所を開所。メンバーは行政、司法、学者、経済人、報道人の中堅エリート(いまでいう内閣諮問委員みたいなものか)、影の内閣のようなものをメンバーで構成、「日米もし開戦すれば」の研究を始めます。1941年4月首相官邸で総理、主要閣僚の前で「机上演習(シュミレーション)研究、「開戦すれば負けは必至」の結論を発表します。
陸軍大臣東條英機は机上の理論、と一蹴、この案を握りつぶしたといいます。

☆1941年アメリカの鋼鉄の生産高7500万㌧、イギリス1250万㌧、それに対して日本の鋼鉄生産高700万㌧。
☆1941年8月アメリカから対日石油輸出の全面禁止通告。

何回かブログに掲載しました。できるだけ客観的に起きたことだけ文章にしたつもりです。
過去のブログを一編だけでも読んでいただけたらと思います。

★2015年12月8日のブログです・・・クリック→「1941年12月8日・・・74年前・・・資源のない国が…あの戦争をはじめた日
★2014年12月8日のブログです・・・クリック→「今日は何の日・・・今から73年前・・・日本が戦争をはじめた日
★2006年12月8日のブログです・・・クリック→「太平洋戦争開戦・真珠湾攻撃

戦争を知らない人々がほとんどの国になりました。どこかよその国の出来事にも思えます。こんどやったら勝てるなんて思う人もいるかもしれません。戦争は鬼ゴッコや戦争ゴッコではありません。命の消耗戦です。人が死にます。あの戦争で「非命に斃れたるもの」・・・310万人、戦争に巻き込まれたアジアの国々で2000万人といわれます。次の大戦では、核戦争ですから敵味方関係なく正邪関係なく数千万人の命が散ります。
あの戦争の事実を機会があればできるだけ知ってほしい。どう考えるかはその人の受け取りかたですが。人のせいにはしないで自分のこととして考えてください。

歴史」とは「いつ、どこで、だれが、何を、何のために、どうやって・・・やったのか」・・・
5W1H・・・を正しく認識して、それを今日・未来に生かすこと・・・


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2021年8月15日・・・日本が戦争に負けた日・・・敗戦忌

2021-08-15 | 語り継ぐ責任 あの戦争
忘れてはならない4つの日・・・
「8月15日 終戦記念日」「8月6日 広島原爆の日」「8月9日 長崎原爆の日」「6月23日 沖縄戦終結の日
★明仁上皇の皇太子時代、1981年8月7日、記者会見で話された内容です。47歳のときのことです。

きょう2021年8月15日は今から76年前、日本が世界の連合国との戦さに敗れ、ポツダム宣言受諾を連合国側に通知し無条件降伏した日です。
敗戦の日」ですが「終戦の日」と呼ばれています。
聖戦であったか、義挙であったか、不条理の戦いであったかは・・・おいておいて・・・展望無き戦いであったことは否定できない。

今日は敗戦忌・・・太平洋戦争で犠牲になった方々の御魂に祈りを・・・黙祷・・・

★わたくし「比企の丘」が詠んだ拙句ですが・・・
蝉の声ぴたりと止みて敗戦忌   
敗戦忌 非命ニ斃レタルモノ想ヒ「海ゆかば」
アンジェラスの鐘鳴りひびき長崎忌
魂揺れる灯籠流しヒロシマ忌 
命(ぬち)の声響く摩文仁のウチナワ忌
 

★ブログ友「縄文人」さんのブログから・・・
母涙「日本が負けた」敗戦忌
敗戦忌非業の死者の骨還る
終戦忌 75年の 平和かな    ・
終戦後耐え生き抜いた芋ご飯
芋蔓を油で炒め敗戦忌
勝つことは負けることなり敗戦忌
竹槍と藁人形や敗戦忌

※写真は暮しの手帖社「戦争中の暮らしの記録」保存版・・・巻頭のグラビア写真より。
東京大空襲。焼夷弾、焼け野原、そして生きている・・・そして戦争の終った日。

★1845年8月15日天皇の玉音放送「終戦の詔勅」・・・より・・・
「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク」
非命とは天寿を全うしない人の命。あの戦争で320万人余が太平洋でアジアの国々で大陸で北の大地で・空襲で・・・亡くなったかたに思いを馳せれば(天皇は)胸が張り裂けそうである。

★出版社「理論社」の元社長故小宮山量平は長編小説「千曲川四部作」の中で戦後間もなく書いた自分の作品がGHQにより削除命令を受けその理由を次ように指摘されたことを記している。
「左翼でも右翼でもなく共産思想でもなく軍国思想でもなく、今度の戦争を肯定するものでもなく否定するものでなく、ただ人間による人間に対する加虐の状況が追求されている」・・・

海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍」・・・鎮魂のメロディーが浮かんできます。

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今日は何の日・・・79年前の12月8日・・・日本がアメリカと戦争を始めた日

2020-12-08 | 語り継ぐ責任 あの戦争
2019年12月8日のブログの再掲載です。

今日は何の日・・・
1941年12月8日・・・いまから79年前の太平洋戦争・・・・日本がアメリカと戦争を始めた日・・・


日本国民が「忘れてはならない日・・・1941年12月8日太平洋戦争開戦の日・・・1945年6月23日沖縄戦終結の日・・・8月6日広島原爆の日、8月9日長崎原爆の日・・・8月15日太平洋戦争敗戦の日・・・5つの日のひとつ・・・です。


★開戦前・・・大日本帝国海軍連合艦隊司令長官山本五十六は近衛文麿総理大臣に「開戦か否か」の意見をもとめられ「ぜひやれと言われればはじめの半年か一年の間は暴れてご覧に入れますが、しかしながら二年三年となれば全く確信が持てませぬ」と答えたとそうです。これを後から伝え聞いた第四艦隊司令長官井上成美は「海軍はやれません。戦えば必ず負けます」と答えたほうが戦争を回避できたかも・・・といったといいます。
真珠湾攻撃は成功したが、その半年後のミッドウエイ開戦において帝国海軍は壊滅。山本五十六はその1年後ソロモン群島ブーゲンビリア塔上空において飛行中、戦死。
★海軍大将米内光政は三国同盟が結ばれたとき海軍が反対することは「ナイアガラの滝に逆行して孤独な船を漕ぐようなもの」と嘆息したといいます。「もし反対すれば殺されたでしょう」と述懐したそうです。
総力戦研究所・・・日米戦争開戦1年前の1940年9月、近衛内閣は総理直轄の研究所を開所。メンバーは行政、司法、学者、経済人、報道人の中堅エリート(いまでいう内郭諮問委員みたいなものか)、影の内閣のようなものをメンバーで構成、「日米もし開戦すれば」の研究を始めます。1941年4月首相官邸で総理、主要閣僚の前で「机上演習(シュミレーション)研究、「開戦すれば負けは必至」の結論を発表します。
陸軍大臣東條英機は机上の理論、と一蹴、この案を握りつぶしたといいます。
☆1941年アメリカの鋼鉄の生産高7500万㌧、イギリス1250万㌧、それに対して日本の鋼鉄生産高700万㌧。
☆1941年8月アメリカから対日石油輸出の全面禁止通告。

何回かブログに掲載しました。できるだけ客観的に起きたことだけ文章にしたつもりです。
過去のブログを一編だけでも読んでいただけたらと思います。

★2015年12月8日のブログです・・・クリック→「1941年12月8日・・・74年前・・・資源のない国が・・・あの戦争をはじめた日
★2014年12月8日のブログです・・・クリック→「今日は何の日・・・今から73年前・・・日本が戦争をはじめた日
★2006年12月8日のブログです・・・クリック→「太平洋戦争開戦・真珠湾攻撃

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朝のテレビ小説「エール」を視ていて…永井隆「長崎の鐘」から「長崎の鐘は鳴る」

2020-10-23 | 語り継ぐ責任 あの戦争
今朝のNHK朝のテレビ小説「エール」を視ていて・・・
2008年8月9日のブログを自分で再読しました。
ここに再掲載しました。

8月9日・・・ナガサキ忌・・・永井隆「長崎の鐘」・・・名曲「長崎の鐘」・・・
                                                          2008年8月9日
今日は何の日・・・63年前の8月9日11時02分・・・長崎市にアメリカ軍により原爆が投下された日です。

9日未明テニアン島から出撃した米軍戦略爆撃機は9時40分第一攻撃目標地の小倉市(現北九州市)上空に到着、爆撃準備にかかりますが、さまざまな理由で断念、第二攻撃目標地の長崎市に向かいます。10時50分長崎市上空に、11時2分プルトニューム原子爆弾「ファットマン」が投下されます。
死者74000人、1発で22000㌧火薬弾相当、広島の1.5倍相当。広島より死者が少なかったのは地形上の問題。(長崎市への原子爆弾投下・・Wikipedia参照)

ここに1冊の本があります。ボロボロです。なぜか私の手元にあります。
永井隆著「長崎の鐘
永井隆(1908~1951年)長崎大学医学部教授、医学博士、クリスチャン、歌人・・・長崎原爆で奥様は爆死・・・自らも被爆、病をおして被爆者の治療にあたり病床に臥したあとに「長崎の鐘」「この子を残して」ほか数々の著書を残しました。
発行は昭和24年1月、同24年2月再版、発行所は日比谷出版社、発行人は式場俊三、製作者は畑太郎とあります。※わたくしごとですが、製作者の畑太郎さん・・・わたしがたいへんお世話になった方です。人生の恩人とも言える方です。話がそれました。
長崎の鐘・・・・被爆直後、爆心地から500mの浦上天主堂ではミサが行われていて司祭はじめ多数の信徒は一瞬のうちに全員死亡。崩れ落ちた天主堂の瓦礫の中からアンジェラスの鐘が発見されます。この鐘が再び鳴らされたのは原爆被災の1945年、12月のクリスマスの夜でした。

五月のはじめ、NHKテレビである曲が流れてきました。
サトーハチロー作詞・古関裕而作曲・藤山一郎
名曲「長崎の鐘」です。

永井博士が浦上天主堂を見下ろす丘の上のオンボロ屋「如己堂」で書きのこした「長崎の鐘」、この本をもとに親交のあった式場隆三郎(医学博士、文芸畑でも活躍、画家山下清を世に出したことで有名)がレコードをプロジュース、生まれたのが不朽の名曲「長崎の鐘」です。
本の発行者式場俊三、このかたと式場博士とどう関係があるか調べましたが不明でした。

永井博士のこととこの歌が生まれるいきさつについては二木紘三のうた物語を参考にしました。素晴らしい文章です。ぜひ一読してください。歌詞もメロディーもあります。

画像はテレビ画面の映った永井博士の歌です。アコーディオンを携えて博士の病床を訪ねた藤山一郎におくったといわれます。
藤山一郎は生涯「この歌の心」を胸に抱いて「長崎の鐘」を歌ったんだなあと思いました。


今年は永井博士生誕100年です。
この日、歌ったのは盲目のテノール歌手新垣勉さん。聖職者でもあります。
祈り」をこめた素晴らしい歌でした。




今日は「ナガサキ忌」・・・・・・・合掌

原爆という無差別大量殺戮兵器の行使・・・パンドラの箱を2度も開けてしまったアメリカ。
60有余年たった今も戦争の早期終結のためにという「免罪符」のような言葉を守るしか方法がありません。戦争というものはそういうものかも知れません。でも次にパンドラの箱が開けられたとき、何百万人どころか何千万人が野垂れ死にすることは間違いありません。東京に数発落ちたことを考えてみてください。
いま、世界のどこかで行われている戦争は国益とか権益とか、そういうもので誰かが得をしています。それがエスカレートしていくと狂気になります。
そんなことにならないために世界にどうメッセージを送るか。被爆国日本の責務です。

2006.8.9のブログ「長崎原爆落下の日 永井博士終焉の家「如己堂」
2006.9.14のブログ「長崎の鐘・・浦上天主堂・・平和祈念像
2007.8.9のブログ「今日は何の日・・・「長崎原爆の日」・・・ここに1冊の本があります・・・「長崎の鐘」

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日本が・・・アメリカに・・・戦争で負けた日・・・戦艦ミズーリ号で降伏調印した日

2020-09-02 | 語り継ぐ責任 あの戦争
2010年9月2日のブログ記事の再掲載です。

9月2日 今日は何の日・・・日本が・・・アメリカに(正しくは連合国に)・・・戦艦ミズーリ号で降伏調印した日。

1945年8月14日 太平洋戦争の末期、日本が連合国に対してポツダム宣言無条件(降伏勧告受諾)をスイス政府を通じてアメリカに伝えた日。
8月15日 昭和天皇がラジオ放送を通じて国民にポツダム宣言の受諾、つまり無条件降伏を告知した日。

9月2日 昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を発し、日本国政府を代表して重光葵外務大臣、梅津美治郎陸軍参謀総長が東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板の上で降伏の調印を行った。

1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約・・・連合国側と日本との戦争状態の終結条約・・・国際法上はこれが終戦

1972年5月15日 ちなみに沖縄はなお占領状態で日本国に帰属せず、日本国になったのは21年後のこと。沖縄の人はこの日を「屈辱の日」とよんだ。

9月2日 「勝った勝った!」という側には戦勝記念日はあるが、「降参・負けた」といった側には敗戦記念日がない・・・?

9月2日 降伏調印式から戻った重光葵外務大臣はこう言っている。
不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」・・・

あの戦争の終結・・・日本国が壊滅的な敗戦国になったのは1945年8月・・・これだけは覚えてもらいたい・・・そしてそれが何故・どうしてという・・・原因・理由を理解してもらいたい。悲惨で愚かで屈辱の歴史(無条件降伏)であり忘れたい歴史であるが二度と繰り返しててはならぬ歴史であり「歴史に学び・・・将来に生かすために」。目を背けてはならない。

追補
太平洋戦争収束内閣鈴木貫太郎総理大臣のあとを受けて8月17日敗戦処理の内閣総理大臣になった東久邇宮稔彦(当時皇族)は9月2日の降伏調印のあと国民に向けて戦争終結のメッセージを送っていますがその演説草稿の中で「敗戦」という文字を使い、軍関係者から「終戦」にしてほしいとクレームをつけられ
何を言うか、敗戦じゃないか。敗戦ということを理解するところからすべてが始まるんだ
と一渇したそうです。

前事不亡  後事之師

追補
2020年8月15日の「戦没者追悼式」において安倍首相は戦没者、戦争の犠牲者に丁寧な哀悼の意を表しましたが、「なぜ・・・」という戦争をおこした国のに歴史ついて言及しませんでした。過去の歴史に触れてこそ、未来の平和について語れるのですが。

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今日は8月15日・・・75年前・・・日本が戦争で負けた日

2020-08-15 | 語り継ぐ責任 あの戦争
1945年8月15日正午・・・日本放送協会(現NHK)から天皇陛下の「終戦の詔勅」が放送されました。
日本国が連合国側に無条件降伏したことを天皇が国民に伝えた放送です。天皇の肉声を録音して放送したもの・・・「玉音放送」といいました。
不明瞭な音声しか受信できないラジオ・・・幼少の私は母と一緒だったと思いますが内容がよくわからなかったようです。
近くの疎開していた方に聞いて、ようやくラジオ放送の意味が分かったようです。

後から学んだ「終戦の詔勅」・・・強く覚えている言葉があります。
★「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク」・・・
非命とは天寿を全うしない人の命。あの戦争で320万人余が太平洋でアジアの国々で大陸で北の大地で・空襲で・・・亡くなったかたに思いを馳せれば(天皇は)胸が張り裂けそうである。

海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍」・・・鎮魂のメロディーが浮かんできます。


2007年4月6日東京の千鳥ヶ淵・・・「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を訪ねたときの写真です。
あの戦争で、1937年より国外でなくなった軍人、軍属、民間人240万人。そのうち遺体識別不明の方を祀ってます。遺骨収集団の方々が集められた遺骨はわずか35万柱、未だに未回収116万柱。信教に関係ないすべての記念碑です。1959年設立。厚労省、環境省の管理。今日、小泉環境大臣は靖国神社に参拝したというニュースが出ていましたが、ここを参拝したのでしょうか。

終戦記念日・・・日本が戦争に負けた日・・・敗戦忌に寄せて昨年,縄文人さんから寄せられた句です。

母涙 「日本が負けた」 敗戦忌     縄文人
敗戦忌 非業の死者の 骨還る     縄文人
終戦忌 75年の 平和かな        縄文人


蝉鳴く音 ぴたりと止みて 敗戦忌    比企野 
非命ニ斃レタルモノ想ヒ 「海ゆかば」  比企野

★「終戦の日」ではなく「日本が戦争に負けた日」です。そして「1941年12月8日・・・日本が戦争を始めた日」があるということを忘れてはなりません。
★銭もなければ鉄もない、油もない・・・ナイナイ尽くしの国が戦争を始めちゃったのです。
if…ですが「開戦の日」がなかったら、レイテ沖海戦、硫黄島、沖縄戦。本土爆撃、ひろしま・ナガサキの原爆はなかったし・・・「敗戦の日」もなかった。
★「あやまちはくりかえしせん」の「あやまち」とは・・・「日本が戦争を始めた」ことです。

★「日本が戦争に負けて」・・・大日本帝国から日本国になって、財閥解体、農地解放されて小作農が自作農になって、自由にものが言える言論の時代になりました。

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8月9日・・・75年前の・・・あの戦争で・・・ソ連対日参戦・・・満州進攻

2020-08-10 | 語り継ぐ責任 あの戦争
★このブログは2010年8月9日のブログを少しリライトしての再掲載です。 

8月9日・・・今から75年前の1945年8月9日未明、満州国(現在の中国東北部)にソ連軍が進攻(侵攻ともいう)した日です。
一般的には「ソ連対日参戦」といいます(防衛省では「対ソ防衛戦」という)。

ヤルタ会談・・・第二次世界大戦末期、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄してすでにTKO状態の日本に対して対日参戦します。そのわけは・・・日ソ中立条約破棄の謎・・・1945年2月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国の米・英・ソの三国首脳がドイツの降伏後の戦後処理を決め、併せて米・ソ首脳間(ルーズベルト・スターリン)でドイツ降伏90日後にソ連が対日参戦する秘密協定を結びます・・・千島・樺太の処遇つきのオイシイ話つき・・・ということになっています。世に言うヤルタ会談です。米ソ首脳の駆引きのように思えます。戦争というものは条約なんて糞喰らえなんです。
5月7日ドイツ降伏文書調印、5月8日降伏文書批准調印(ソ連時間9日)。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。3ヶ月後が待ち遠しかったでしょうね。

8月9日、ソ連軍は150万人の兵力で満州全体に襲いかかかります。これに対して関東軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦であったといわれます。
進攻を察知して南に逃げたという人もいます・・・このためほとんどの開拓民は軍の庇護を受けられませんでした。


8月14日・・・ポツダム宣言(連合軍からの降伏勧告)を受諾・・・8月15日天皇の「終戦の詔勅」で全国民に告知・・・関東軍本部無条件降伏が伝えられたのは8月16日、関東軍はほとんど無傷で武装解除します。ソ連軍が拘束した日本人は80万人といいます。シベリア抑留の始まりです。広い満州です。通信網もありません。そのため敗戦を知らずなおソ連軍に抵抗を続ける武装部隊もいました。

哀れをとどめたのは奥地に取り残された開拓民、老人・女・子ども(成人はほとんど現地応召)。徒歩で南に逃避行が始まります。ソ連軍ばかりか現地満州人も襲ってきます。荒地を開拓するという満蒙開拓は実は現地満州人の農地を略奪(強制買上げ)して開拓民に与えることだったようです。恨みに思わないほうが不思議です。戦争中の関東軍の現地住民に対する行為(一部の行為と思いますが)も恨みに思われた原因になったでしょう。加害が被害になって返ってきたのです。守ってくれる軍隊はいません。徹底抗戦して全滅した開拓団もあります。乳飲み子を抱えた母親は共倒れになります。中国残留孤児が生まれます。襲撃してきたのは一部の人たちでしょう。ぜんぶが襲撃してきたら逃避行の全員が死んでいます。食べ物をくれた現地の人もいたといいます。

歴史の流れや数字はWikipediaなどを参考にしました。Wikipediaは複数の執筆者が書き込んでいますから項目ごとに考え方が違うことがあります(たとえば進攻か侵攻か)。どう捉えるかはわたしの勝手にしました。Wikipediaでは8月11日新京から38000人が日本に向けて脱出したとあります。敗戦前です。その内訳は軍・官・満鉄関係の家族だったといわれます。わたしにはどう解釈していいかわかりません。

歴史に・・・If・・が許されるなら・・・ポツダム宣言(連合軍からの降伏勧告)が日本に示されたのが7月26日・・・
これを即、受け入れていたら・・・原爆もソ連参戦もなかったのでしょうか。


★もう四分の一世紀・・・75年も前のことです。遠いむかしもことです。でも戦争とは何か・・・考えてもらうためにこれを記しました。


※コメント欄オープン。





1945年3月・・・あの戦争・・・ロスオリンピック金メダリスト西竹一・・・硫黄島に死す

2020-03-17 | 語り継ぐ責任 あの戦争
東京都小笠原村硫黄島です・・・東京を離れること1200㎞、伊豆諸島から南・・小笠原諸島のさらに南の硫黄島海嶺。
東西8㎞、南北4㎞、最高地は擂鉢山(標高170m)。
あの戦争の前は硫黄島産業㈱により硫黄採鉱、サトウキビ、医療用コカが生産され島民が在住。いまは海上自衛隊の駐屯基地のみで島民はいません。

いまから75年前のあの太平洋戦争、2月19日から3月26日、米軍と日本軍の間で熾烈な戦闘が行われた島です。
戦いは3月17日、硫黄島守備隊最高指揮者栗林忠道中将の本土大本営への訣別の電報、3月21日日本陸軍大本営は玉砕の発表、3月26日米軍の完全制圧で終結します。
日本軍の戦力約22780戦死約21900、捕虜1023人・・・戦死率94%・・・玉砕です。
米軍の戦力約110000人、戦死6821人、戦傷者19217人・・・戦死率6%は日本軍に比べわずかです戦死戦傷者数は日本軍を上回り米軍戦闘史上最も苛酷な戦闘だったといいます。
★数字、写真はWikipediaより。

硫黄島玉砕から38年経った1983年9月硫黄島に東京都の手によって鎮魂と慰霊の碑が建てられます。
その傍らに詩人草野心平の書による歌人釈迢空の歌碑が。

        たたかいに果てにし人をかえせとぞ
         われはよばむとす 大海にむきて


小説・・・城山三郎著硫黄島に死す』(新潮文庫 1984年刊)を読んでいます。上記の歌はその巻末の解説から・・・です。
釈迢空・・・民俗学者、国文学者、国語学者、折口信夫(しのぶ、1887~1953年)の歌人としての号。柳田国男を師と仰ぎ、民俗学の基礎を築き、その業績は「折口学」と呼ばれる。折口の愛弟子であり養子であった折口春洋(陸軍少尉)は硫黄島で戦死。

2020年東京オリンピック・・・どうなるでしょう。
1932年ロサンゼルスオリンピック・・・馬術大障害飛越競技金メダリスト西 竹一・・・1945年3月硫黄島にて死す・・・
城山三郎の小説『硫黄島に死す』は西 竹一陸軍中佐の物語です。

物語は昭和19年(1944年)7月横浜港、西 竹一陸軍中佐が600の兵を率いて出港する場面からはじまります。
ここから見習士官大久保との会話を交えながら・・・過去と現在進行形とが行き交います。
1932年の横浜港・・・ロスオリンピックへの出発の港、金メダリストとしての栄光に包まれた帰国の港。あれから12年、横浜港は見る影もなく変わり果てていました。
西 竹一・・・1902年生まれ、父徳二郎は旧薩摩藩士、戊辰戦争に参戦、ロシアに留学、外交官の道に、ロシア公使、外務大臣、男爵。駐清特命公使のとき義和団の乱に遭遇、西太后の信頼を得て中国茶の専売権を与えられ巨万の利を得たといわれる。竹一は徳二郎の三男(庶子)で嫡子の長男、次男が夭逝したため幼くして西家に入り、父徳二郎の死により11歳で男爵家の嗣子となった。「バロン西」の誕生です。
府中一中から陸軍幼年学校、士官学校、騎兵隊へ。毎年騎兵士官に育つのは20人そこそこ、陸軍将校の花形、伊達もの。
一服、二顔、三馬術」といわれ、西は巨万の富を相続した男爵、5尺8寸の偉丈夫・・・女にモテた。
愛馬「ウラヌス」はヨーロッパに出向いて自費で購入した・・・2万円(現在の価値で数千万円)。ロスオリンピックの遠征費、公費のほかに西は選手団のために6万円の私費を使った。
ウラヌス2号」というヨット、ロールスロイス、12気筒のパッカード・・・ヤリたい放題。
キザで、わがままで、派手で」と騎兵仲間は顔をしかめた。
ロスオリンピックで優勝したとき「We won(我々は勝った)」と叫んだという。この「我々」は「日本は、チームは、俺とウラヌスは」・・・何を指したか・・・

硫黄島での最後、戦死の日も遺体も定かではない。
ニシサン、デテコイ」という米軍の呼びかけがあったというが、定かではなく伝説の中で語られている。

死を覚悟した突撃の前に、内懐にウラヌスのたてがみ、片手に拳銃。片手にロサンゼルスで使った鞭・・・
西の愛馬ウラヌスは東京都世田谷区馬事公苑で余生を送っていたが、硫黄島の陥落のあと、西のあとを追うように亡くなったという。
硫黄島の戦死者21900柱のうち11500柱は、いまもなお未帰還です。


★硫黄島玉砕のあと、航空基地が確保され本土爆撃は激化、3カ月後に沖縄戦争終結、5カ月後に日本は降伏。
★硫黄島守備隊総指揮官栗林忠道中将・・・2011年㋄5日のblog・・・☞クリック・・・「信州松代・・・明徳寺・・・硫黄島に・・・散るぞ悲しき
★1983年文芸春秋11月号に発表された短篇小説、城山三郎の珠玉の代表作です。城山三郎は1945年3月の名古屋大空襲により生家を焼かれ、』4月愛知県立工業専門学校に入学、徴兵猶予になりますが5月に進路を変えて海軍特別幹部候補練習生に志願入再学、広島で人間魚雷の乗組員として訓練中、原爆のキノコ雲を見て終戦を迎えた、17歳であった。


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今日は何の日・・・78年前の12月8日・・・日本がアメリカと戦争を始めた日

2019-12-08 | 語り継ぐ責任 あの戦争
今日は何の日・・・
1941年12月8日・・・いまから78年前の太平洋戦争・・・・日本がアメリカと戦争を始めた日・・・


日本国民が「忘れてはならない日・・・1941年12月8日太平洋戦争開戦の日・・・1945年6月23日沖縄戦終結の日・・・8月6日広島原爆の日、8月9日長崎原爆の日・・・8月15日太平洋戦争敗戦の日・・・5つの日のひとつ・・・です。


★開戦前・・・大日本帝国海軍連合艦隊司令長官山本五十六は近衛文麿総理大臣に「開戦か否か」の意見をもとめられ「ぜひやれと言われればはじめの半年か一年の間は暴れてご覧に入れますが、しかしながら二年三年となれば全く確信が持てませぬ」と答えたとそうです。これを後から伝え聞いた第四艦隊司令長官井上成美は「海軍はやれません。戦えば必ず負けます」と答えたほうが戦争を回避できたかも・・・といったといいます。
真珠湾攻撃は成功したが、その半年後のミッドウエイ開戦において帝国海軍は壊滅。山本五十六はその1年後ソロモン群島ブーゲンビリア塔上空において飛行中、戦死。
★海軍大将米内光政は三国同盟が結ばれたとき海軍が反対することは「ナイアガラの滝に逆行して孤独な船を漕ぐようなもの」と嘆息したといいます。「もし反対すれば殺されたでしょう」と述懐したそうです。
総力戦研究所・・・日米戦争開戦1年前の1940年9月、近衛内閣は総理直轄の研究所を開所。メンバーは行政、司法、学者、経済人、報道人の中堅エリート(いまでいう諮問委員みたいなものか)、影の内閣のようなものをメンバーで構成、「日米もし開戦すれば」の研究を始めます。1941年4月首相官邸で総理、主要閣僚の前で「机上演習(シュミレーション)研究、「開戦すれば負けは必至」の結論を発表します。
陸軍大臣東條英機は机上の理論、と一蹴、この案を握りつぶしたといいます。
☆1941年アメリカの鋼鉄の生産高7500万㌧、イギリス1250万㌧、それに対して日本の鋼鉄生産高700万㌧。
☆1941年8月アメリカから対日石油輸出の全面禁止通告。


何回かブログに掲載しました。できるだけ客観的に起きたことだけ文章にしたつもりです。
過去のブログを一編だけでも読んでいただけたらと思います。

★2015年12月8日のブログです・・・クリック→「1941年12月8日・・・74年前・・・資源のない国が・・・あの戦争をはじめた日
★2014年12月8日のブログです・・・クリック→「今日は何の日・・・今から73年前・・・日本が戦争をはじめた日
★2006年12月8日のブログです・・・クリック→「太平洋戦争開戦・真珠湾攻撃

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