比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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大河荒川から切り離された元の荒川本流・・・元荒川・・・鴻巣市吹上の櫻並木

2022-04-08 | 道をゆく 埼玉イイなっ
                         、
埼玉県鴻巣市鎌塚・・・吹上駅北口から750m、全長2.5㎞の元荒川の両岸の遊歩道に500本のソメイヨシノ・・・

元荒川・・・かつては荒川の本流・・・1629年德川幕府関東郡代伊奈忠治により熊谷市久下で締め切られ荒川は西に向きを変えて和田吉野川、市野川、越辺川、入間川と合流し現在の荒川、隅田川の姿に(荒川西遷)。久下で締め切られた旧荒川は湧水で元荒川に、現在は人工的に地下水をポンプで吸い上げ元荒川源流となっている。埼玉県中央を流れ越谷市で中川に。全長㎞、利根川水系1級河川。

大河荒川から切り離された元の荒川本流・・・鴻巣市吹上市街地では小さな川の流れになって・・・










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櫻の季節・・・鎌倉殿ゆかりの武将・・・源範頼の・・・蒲桜・・・を北本市石戸宿に尋ねて

2022-03-27 | 道をゆく 埼玉イイなっ
                           、
櫻の季節・・・埼玉県北本市・・・鎌倉殿ゆかりの武将源範頼にちなむ石戸宿の蒲桜です・・・※撮影日は2009年4月4日・・・
日本五大桜の一つ・・・三春の滝桜、武川の神代桜、根尾谷の薄墨桜、富士宮の下馬桜、それにここ石戸宿の蒲桜。国の天然記念物。
樹高14m、根周り7.4m、樹齢推定800年余。エドヒガンザクラとヤマザクラとの自然交配といわれます。



源範頼・・・源頼朝の異母弟、義経の兄、埼玉県吉見町に居(吉見御所)を構えていたと伝えられます。兄頼朝の猜疑心か北条家の陰謀か源家の血縁のものは次々に謀殺されていきますが範頼もまた1194年伊豆修善寺に幽閉ののち殺されたと伝えられています。むかしも今も人治政治では政敵は周りの有力No.2、No.3にあり。まずそいつらを粛清してゆく・・・常道のようです。

蒲桜・・・鎌倉幕府を作った源頼朝の異母弟、遠江国蒲御厨(現静岡県浜松あたり)で生まれ育っため蒲冠者、蒲殿と呼ばれた源範頼がこの地に植えた?と伝えられます。
櫻は北本市石戸宿3丁目東光寺という地蔵堂のような小さな本堂の、小さな境内の・・・その中に。

石戸宿・・・中山道の69宿ではありません。道も中山道の脇街道でしょうか。17号線沿いからは外れて県道57号線沿いにあります。

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「青天を衝け」澁澤榮一の養子・・・飯能戦争で散った澁澤平九郎の墓・・・越生町黒山を訪れた

2021-10-27 | 道をゆく 埼玉イイなっ
NHK大河ドラマ「晴天を衝け」・・・最初は録画でちょこっと見てましたが・・・いまはオンタイムで視ています。

昨日、衆議院議員総選挙の期日前投票に出かけ、足を延ばして越生町黒山にある澁澤榮一の見立養子澁澤平九郎の墓まで行ってきました(以下、澁澤は渋沢、榮一は栄一で表記)。鳩山町役場から車で10数分、埼玉県道61号線、越生町黒山集落に入ったあたり、道路際に渋沢平九郎墓所駐車場の看板が立っています。
越辺川の上流の小さな橋を渡ると・・・

岩松山全洞院.・・・越生町龍ヶ谷の古刹,曹洞宗智山派龍穏寺の末寺(いまは無住)・・・本堂の右側を上がると・・・

苔むして水食、風食して戒名も読めませんが・・・渋沢平九郎の墓・・・新しいお花が供えられお酒も・・・享年22歳。


渋沢平九郎・・・渋沢栄一が1867年主君徳川慶喜の命で渡仏のおり栄一の見立養子に。家の当主が長旅などで家を長く空けるとき、嗣子がいない場合はもしもの時に備えて養子を立てるのが当時の慣わしであった。栄一の妻千代の弟、栄一の幼少期の寺子屋の師であり従兄の尾高新五郎(淳忠)の弟。


栄一は1889年、1902年の2度、この地を訪れた。


1868年(慶応4年、明治元年)5月、江戸幕府壊滅、江戸城無血開城・・・江戸幕府の中になお徹底抗戦を叫ぶ士がいて彰義隊と名乗り上野の山に閉じこもりますが1日も持たずに鎮圧されます。この彰義隊に加わったのが渋沢栄一の盟友渋沢喜作、師の尾高新五郎、見立養子の渋沢平九郎、彰義隊の戦略と少し食い違いがあったようで分派して喜作を隊長として振武軍と名乗り武州西部に移動、武蔵国飯能町(現飯能市)あたりで一線を交えます(飯能戦争)。官軍の兵力3000人、飯能の能仁寺に本陣を構えた振武軍は数100人、あっという間に蹴散らかされ、四散。渋沢喜作、尾高新五郎らは正丸峠を越えて秩父から上州に逃れますが、渋沢平九郎は吾野から顔振峠を越えて黒山村(現越生町)へ。官軍の偵察隊と遭遇、手傷を追い割腹。首は刎ねられ今市(現越生町駅前あたり)の法恩寺前の高札場に晒され、のちに法恩寺に埋葬、亡骸は黒山の全洞院に手厚く葬られ村人たちは「御脱走様」と崇めたという。首、亡骸の素性が判明したのはのちのことです。
戦は、春秋に富む青年の前途を絶ちます。

蛇足
平九郎自刃の岩・・・全洞院より西に県道61号線を数100m、T字路を左に進んで200m弱、道路わきに「平九郎自刃の岩」の碑が。
平九郎茶屋・・・北武蔵、外秩父の山なみの顔振峠(こうぶりとうげ)には平九郎の名を冠したお休み処平九郎茶屋があります。
渋沢喜作・・・栄一の従兄、武蔵国血洗島村の生まれ、青年時代から栄一と行動を共にして倒幕運動、徳川慶喜家臣、彰義隊頭取,、振武軍隊長、函館戦争(五稜郭の戦い)に参加、投降、入獄、栄一の奔走により釈放、大蔵省入省、退職。米、生糸などの問屋、東京商品取引所理事長など財界で活躍した。
尾高新五郎(淳忠)・・・栄一の従兄、栄一の幼少からの寺子屋の師、飯能戦争に士分ではないが参加、敗走のあとは武蔵国下手計村に戻り隠遁。栄一の懇請により官営富岡製糸場初代場長に。国立第一銀行盛岡支店、仙台支店の支配人に。養蚕、製藍の改良・普及に尽力し「蚕桑長策」「藍作指要」を著している。

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武州忍・・・水の上に浮かぶ・・・忍城・・・のぼうの城・・・の物語り

2021-03-31 | 道をゆく 埼玉イイなっ
・・・彩風人の写真帳・・・
コロナ禍で蟄居城消ための外に出てウォーキング…近くの近郊鉄道の駅と駅の間、片道は電車に乗って。
今日は秩父鉄道行田市駅から出発して、東行田駅、武州荒木駅、新郷駅、西羽生駅と秩父鉄道沿線を経由して羽生駅までウォーキング。
その前に映画「のぼうの城」でお馴染みの「忍城」へ。



現在の行田市あたりはむかし武蔵国さきたま郷・・・5世紀から7世紀に作られたと推定される9基の大型古墳群、平安時代から豪族成田氏を中心として栄え戦国時代の1478年忍城が築城されたといわれます。1590年豊臣秀吉の小田原城攻めのとき,小田原北条氏の支城である忍城は秀吉家臣の石田三成を大将とする豊臣軍に攻められたがよく持ちこたえ小田原城が陥落後に開城。江戸時代に入り、徳川家親藩の忍藩領となり東条松平氏、阿部氏、奥平松平氏と藩主が変わって幕末を迎えます。城としての縄張り、天守三層櫓は阿部氏の代の1702年のころ形成されといいます。1871年廃城に。ほとんどすべてが撤去。現在の天守三層櫓は1988年建造の鉄筋コンクリート製の模擬城です。



忍城攻防を描いた物語り・・・「のぼうの城」の舞台です。
和田竜が2003年オリジナル脚本「忍ぶの城」として発表、2007年ノベライズ化して小説「のぼうの城」を発刊、2008年コミカライズ「のぼうの城」がビックコミックで連載。2012年映画「のぼうの城」が公開されました。




水城公園・・・
忍城攻めの豊臣方の本陣は現在のさきたま古墳丸墓山古墳の上、忍城との距離は約1㎞、湿地で囲まれた忍城浮き城と呼ばれました。
※撮影日は3月26日。
《「のぼうの城」の大まかなストーリー》
ときは1590年6月、豊臣秀吉の天下統一の最終章「関東の北条氏征伐」。本城の「小田原城」を攻め、同時進行で関東一円の支城を攻め落としていく。支城の一つ「忍城」(現在の行田市)攻防の歴史的事実にそって物語は進行する。

のぼうの城」の「のぼう」とは「でくのぼう」の略、役に立たない、頼りにならないもののことをいい…城主成田氏の従弟、城代の子、成田長親のこと。城主は小田原城に出仕、後を任された城代が急死、「のぼう」が城の総責任者になります。

戦いは約40日間、石田三成を総大将とする豊臣軍20000、忍城の武士500、百姓が加わり約3000に。あっという間に踏みつぶされそうなものですが、この「でくのぼう」…奇策をもって耐えます。忍城の周りはいまは市街地と田畑しか見えませんが当時は荒川(現在は元荒川)と利根川に囲まれた扇状地の伏流水の湧く湿泥地だったといわれます。城に至る道は一本道、沼沢地の中に浮く浮城といわれました。
石田三成は水攻めの策をとります(秀吉の策とも言われますが定かではありません)。城の周りに堤を作り(作ったのは石田軍の軍費により土方仕事をした地元の百姓です)。、荒川、利根川の水を導水して溜めます。映画ではこの策はあることで失敗します。台風による大洪水で逆に石田軍に死傷者が出たともいう説もあります。この堤は総延長28㎞といわれ現在も一部が石田堤の名前で残り史跡公園になっています。

この「でくのぼう」成田長親は百姓に人気があります。最後は百姓に助けられます。なぜでしょう。

開城後、藩主成田氏長は蒲生氏預かりになり会津に、のちに野州烏山城主に、長親は氏長に従ったがのちに出家。烏山を去って長子長季が仕官した東条松平家の領地尾張清州にて死去と伝えられます。

★詳しくは小説、コミックで・・・

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春三月・・・カタクリの里・・・小川町の西光寺へ・・・水芭蕉に逢った

2021-03-29 | 道をゆく 埼玉イイなっ
3月27日、晴天。久しぶりの外出、熊谷市大麻生の桜堤で・・・サクラ菜花と秩父鉄道SLパレオエクスプレス号のコラボレーションを堪能。
そのあと、小川町のカタクリの里に向かう。
埼玉県比企郡小川町、武蔵の小京都、和紙の里、カタクリの里、オオムラサキ蝶の里、キャッチフレーズの多い町です。

カタクリの寺・・・曹洞宗瑞龍山西光寺・・・山門?がユニーク・・・
鐘楼を兼ねています。階段がありません。登るときは梯子で上がるようです。2層なのに庇が3層です。
開山は室町時代後期❓現在の建物がいつごろか・・・詳しいことは縁起書も公式サイトもないので不明です。


西光寺の境内・・・ミズバショウが・・・



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彩の国小川町・・・カタクリの里・・・西光寺・・・を歩く

2021-03-29 | 道をゆく 埼玉イイなっ
3月27日、晴天。久しぶりの外出、熊谷市大麻生の桜堤で・・・サクラ菜花と秩父鉄道SLパレオエクスプレス号のコラボレーションを堪能。
そのあと、小川町のカタクリの里に向かう。
埼玉県比企郡小川町、武蔵の小京都、和紙の里、カタクリの里、オオムラサキ蝶の里、キャッチフレーズの多い町です。

カタクリの寺・・・曹洞宗瑞龍山西光寺・・・山門?がユニーク・・・
鐘楼を兼ねています。階段がありません。登るときは梯子で上がるようです。2層なのに庇が3層です。
開山は室町時代後期❓現在の建物がいつごろか・・・詳しいことは縁起書も公式サイトもないので不明です。




カタクリは仙元山の麓、当寺の境内の北斜面、落葉樹林の林床にびっしりと・・・境内の池を背景にしたカタクリを・・・


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久しぶりの・・・大麻生野鳥の森・・・カワセミに逢った

2021-02-15 | 道をゆく 埼玉イイなっ
今日は秩父鉄道SLエクスプレス号・・・2021年ファーストランの日・・・熊谷界隈まで久しぶりのプチドライブ・・・です。
熊谷駅で・・・秩父鉄道SLを撮り鉄したあとは・・・熊谷駅コンコースの銀座コージーコーナージャンボシュークリームを買ったゲット。家に帰るにはまだ時間が早いので熊谷市大麻生の野鳥の森に行ってみよう・・・

ガマ池の周りにはカワセミが・・・きょうはコンデジだけなので・・・






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2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・・・渋沢栄一の生家・・・はこんなところ

2020-12-30 | 道をゆく 埼玉イイなっ
2021年2月14日から始まるNHK大河ドラマ「青天を衝け」・・・の主人公は埼玉が生んだ近代資本主義の父「渋沢栄一」です、
深谷市血洗島の「渋沢栄一」の生家・・・・・・を紹介します(写真は2015年2月撮影のもの)・・・機会がありましたらぜひ訪ねてみてください。

渋沢栄一の生家「中ノ家(なかんち)」です。
渋沢一族は戦国時代(16世紀後半)にこの地に土着したといわれ江戸初期には本家「東ノ家(ひがしんち)」中心に17軒。明暦年間(17世紀中期)の記録によれば「中ノ家」は村内30戸の内21番目の小農、それが江戸末期には本家「東ノ家」に次ぐ2番目の豪農に。

堂々たる四本柱、切妻屋根の正門です。建築様式では医薬門といいます。
1895年建造の主屋。典型的な養蚕農家の家です。奥行き5間、間口10.5間。切妻二階建て。二階は養蚕室、屋根には養蚕用の煙出(温度調節)があります。屋号は「中ノ家」。名字帯刀を許された本百姓、村三役クラスの家です。幕末から明治の時代には養蚕、藍玉生産販売、雑貨商、質屋業を営んでました。
長男である栄一が1865年、家を離れたため妹貞が婿市郎を迎え1980年代に養蚕を拡大するために建て直され1895年火災で焼失、同年再建。妹夫婦は渋沢家を大いに栄えさせました。1983年埼玉県指定旧跡に、市郎の孫嫁多歌子が1983年「学校法人青淵塾国際学園」を設立、外国人の日本語・日本文化研修施設として43ヶ国679人の留学生が学びました。学園は2012年解散、2012年深谷市の帰属となり深谷市指定史跡に。

渋沢栄一の従弟であり義兄でもある尾高惇忠の生家です。ドラマに登場する栄一の精神支柱を育てた重要人物です。

さて渋沢栄一(1840~1931年)です。
2024年度から一新される新一万円札の顔になる人・・・なにをした人か・・・忘れられた日本人・・・の中に埋没しています。ここでこの人の足跡をたどって・・・近代日本の誕生の中で何をした人か追いかけてみました。

武蔵国血洗島の豪農渋沢家「中ノ家」の生まれ。血洗島は名の通り洪水で水田に不向きな地。畑作、養蚕、藍玉の生産を主としていました。14歳のころから藍葉の買い付けに単身歩いていたという。17歳のとき「中ノ家」が岡部藩阿部家の代官に呼び出されたとき父親の名代で出かけ御用金の命令(500両・・・本家東ノ家は1000両)を即答せず激しく代官とやり合ったという。百姓の子倅がイイ度胸していたのだ。江戸末期の領主は豪農に御用金と称してタカリをしていたらしい・・・。そのころから10歳年上の尾高惇忠に師事し、その勤皇思想に心酔し幕藩体制の崩壊を目指し高崎藩高崎城の乗っ取り計画を計画、実行前に荒唐無稽の計画は頓挫、知遇のあった一橋徳川家の家臣の世話で一橋徳川家に仕官。一橋徳川慶喜が第15代将軍になると幕臣に。慶喜の弟昭武の随員としてパリ万博に。明治維新後に帰国、静岡藩主になっていた慶喜の下に。1869年明治新政府大蔵省に、租税制度改革、駅逓法、貨幣制度、鉄道制度、公債制度、廃藩置県・・・数々の改革に絡んだという。洋行帰り、財務に明るい才能を買われたのであろう。官営富岡製糸場の開設にかかわり、1873年大蔵省退官、第一国立銀行創設。そのごは日本郵船、東京瓦斯、東京海上火災、王子製紙、秩父セメント、秩父鉄道、日本煉瓦、帝国ホテル、京阪電鉄、キリンビール、アサヒビール、東洋紡、石川島造船・・・東京証券取引所・・・聖路加病院・・・一橋大学、東京経済大学、二松学舎、同志社、日本女子大、東京女学館・・・など数々の会社、公的機関、学校の創設にかかわりました。株式会社の設立500、公共事業の設立600にかかわったといわれます。
百姓の倅から勤皇の志士に、幕臣に、幕末に洋行し西欧資本主義、植民地政策をつぶさに見て帰国、幕臣から明治政府の官僚に、さらに実業界に、転身を繰り返し近代日本の基礎を作り上げます。。
資本家としてではなく広く株式を公募する近代資本主義のプロモーター(発起人、推進者)としての渋沢栄一が見えてきます。
大河ドラマの放映開始が楽しみです。

渋沢邸の一番蔵、二番蔵の間、東門を出るとこんな農家レストランが。渋沢家の大番頭さんのお屋敷だったそうです。
栄一が好きだったこの地方の郷土食「煮ぼうとうがあります。


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彩の国・・・関東平野のど真ん中・・・鴻巣のオオカンザクラを見に行ってきました

2020-03-07 | 道をゆく 埼玉イイなっ
晴れた日、彩の国の自然との出逢い・・・熊谷市大麻生野鳥の森・・・の散歩・・・それから鴻巣の大寒桜を見に行ってきました。

埼玉県鴻巣市屈巣の川里中央公園のそば、埼玉種苗センターの敷地内にあるオオカンザクラです。

オオカンザクラはまだ蕾が見えます・・・五分咲きぐらいかな?
オオカンザクラ・・・埼玉県川口市安行でオオシマザクラとカンヒザクラの交配されたもの、安行寒桜とも呼ばれます。

桜の花をヒヨドリやスズメが啄ばんでいます。


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