比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

8月9日・・・「2021ナガサキ原爆忌」・・・黙祷・・・米軍カメラマンの撮った「焼き場に立つ少年」

2021-08-08 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ

いまから76年前の1945年8月9日11時02分・・・長崎市松山町9番地上空500m。
米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾ファットマン」・・・爆発。
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000・・・

     ・・・黙祷・・・

長崎に原子爆弾が落とされた直後、長崎に進駐した米軍カメラマンが撮影した「広島・長崎の被曝の現況写真」の中の一枚・・・「焼き場に立つ少年」です。


カメラマンの名前はジョー・オダネル(1922~2007年)・・・米海兵隊写真班員として従軍、被爆直後の広島・長崎を爆撃効果確認のための記録写真撮影(撮影用カメラは軍の貸与品、命令以外の私的な撮影は禁止されていた)、日本軍憎しで固まっていたオダネルが佐世保から長崎に入って目にしたものは衝撃的で、心に傷を負い、軍の許可なく私品のカメラで被曝の現状写真約300枚を秘かに撮影、帰国。秘密裡に持ち帰った写真はトランクの中に封印、44年後の1989年、67歳の時、トランクの中の「広島・長崎の被曝の現況写真」の封印を解き、全米各地で写真展を開きます。・・・被曝犠牲者への思いをこめて・・・
原爆正当化論の根強いアメリカで強いバッシングを受け、奥様とは離婚、そんな環境に耐えながら、2007年85歳で亡くなるまで世界各地で写真展を開催し続けました。
 
★↑の写真と↓の文章は6月3日NHK BS1で放映された「焼き場に立つ小年」より。

焼き場に立つ少年」・・・
焼き場に10歳ぐらいの男の子がやってきた。小さな体はやせ細りボロボロの服を着てハダシだった。
少年の背中には、幼いお男の子がくくりつけられていた。係員は背中の幼児を下し、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
わたしは彼から目をそらすことはできなかった。
少年は気をつけの姿勢で、じっと前を見つづけた。
急に彼は回れ右をすると、背筋をピント張り まっすぐに前を見てまま歩み去った。
もううしろを振り向かないまま。


★2017年8月11日のブログ➡クリック➡1945年被爆直後の長崎・・・焼き場に立つ少年・・・米軍カメラマンは見た

※コメント欄オープン。

トルコの詩人の書いた・・・ヒロシマ原爆で「死んだ女の子」は・・・あのとき七つ、いまも七つ・・・

2021-08-07 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
「死んだ女の子」という歌があります・・・

トルコの詩人ナーズム・ヒクメットがという人が1956年に発表したヒロシマ原爆で死んだ7歳の少女のことをテーマにした即興詩だそうです。1960~70年代に世界に広がり各国で訳詩、作曲され歌われるようになりました。
日本では複数の訳詩、作曲があり、歌声喫茶、合掌サークルなどで歌われ1967年高合掌石友也外山雄三作曲のバージョンでカバー。2006年元ちとせ坂本龍一がプロデュースした外山雄三バージョンをデジタル配信、収益金をユニセフに寄付。2006年アルバム「ハナダイロ」でリリース、2007年NHK特別番組「夏うた2007」に出演して・・・広島原爆ドームの前で歌い、この歌を歌うことをライフワークに。

死んだ女の子」(作曲:外山雄三 訳詩:中本信幸)
2節目、3節目の歌詞です。

あたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 夏の朝に
あのときも七つ いまでも七つ
死んだ女の子は大きくならないの

炎がのんだの あたしの髪の毛を
あたしの両手を あたしのひとみを
あたしのからだは ひとつかみの灰
冷たい風にさらわれていった灰


★写真の新聞切り抜きコピーは2020年8月7日、元ちとせさんが長崎市稲佐山公園音楽祭に出演したあと新聞社のインタビューに答えた記事です。
元ちとせさんはこの記事の中で・・・この歌を歌ったことをキッカケに、以来15年間、平和を願って歌い続けてきたこと語っています。読んでみてください。

元ちとせさんは1979年生まれ、歌手、奄美大島の島唄の唄者、三味線奏者。「ワダツミの木」「ハイヌミカゼ」などでメジャーデビュー。出産で歌手活動を休止。郷里奄美大島に定住しながら歌手活動を再開。


※コメント欄オープン。

8月6日・・・「2021ひろしま原爆忌」・・・黙祷・・・山崎豊子の小説『二つの祖国』から

2021-08-06 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
今日は8月6日・・・1945年8月6日、あの日の広島は3000℃。
いまから76年前の1945年8月6日未明、たった50kgの原子爆弾「リトルボーイ」を抱いてテニアン島を飛び立ったアメリカ軍の戦略爆撃機B29「エノラ・ゲイ」(命名は機長の母親の名前から)は8時15分17秒、広島市相生橋上空で「リトルボーイ」を投下しました。
たった1機・・たったウラン50kg弾1発(火薬弾15000㌧相当)・・被害者26万人。


青空の下に・・・原爆の子の像(1955年原爆被災から10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんがモデル、1958年同級生らの募金活動で建立)。


・・・黙祷・・・
広島平和記念公園・・・原爆死没者慰霊碑・・・
★写真はNHK総合テレビ中継映像から。


山崎豊子の小説『二つの祖国』(新潮社 1983年刊)・・・の1節より・・・フィクションですから山崎豊子の平和への願いを込めたメッセージです。読んでみてください。


ものがたりは・・・鹿児島県出身でアメリカのロサンゼルスでクリーニング店を営む米国移民天羽一家、日米開戦ですべてを没収され日本人移民収容所に。日系二世でアメリカ国籍を持つ子どもたち、次男賢治はアメリカ軍語学兵として太平洋戦線へ、三男忠は日本に留学中に徴用されて日本兵としてフィリピン戦場へ、四男勇は 収容所から志願してアメリカ兵としてヨーロッパ戦線へ、戦死。賢治は戦後の連合軍極東裁判で日本語モニターに従事。日系二世で幼馴染の恋人梛子は開戦後、日米戦時交換船で両親と郷里の広島へ、広島駅頭で被爆、白血病で死亡。賢治は梛子のあとを追うように拳銃自殺・・・
上中下に分かれる長編大河小説です。

山崎豊子(1924~2013年)・・・大阪市南区船場の生まれ、旧制京都女子専門学校(現:京都女子大学)在学中、学徒動員で軍需工場に動員され、男子学生は特攻機に乗って雲の向こうに死んで行き、友人も飛行機工場で爆撃機の攻撃に曝されて死んで行く・・・という戦争を身を以て体験。毎日新聞大阪支社に入社、小説家に。「不毛地帯」「二つの祖国」「大地の子」は戦争三部作といわれる。


※コメント欄オープン。

8月3日NHK BSPMプレミアム 18:10~19:00・・・NHK特集「夏服の少女たち~ヒロシマ昭和20年8月6日」

2021-08-03 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ

8月になると思い浮かべるのは・・・8月6日「ヒロシマ原爆の日」、8月6日「長崎原爆の日」・・・そして8月15日ポツダム宣言受諾「天皇の終戦詔勅の日」・・・
日本国民として忘れてはならない月・・・この敗戦をどう思うのか、人それぞれですが日本の重要な歴史の1ページです。

きょう8月3日18:10~719:00・・・NHK BSプレミアムで放映NHK特集「夏服の少女たち〰ヒロシマ昭和20年8月6日~の紹介です。

1945年8月6日、広島県立第一高等女学校(現広島県立皆実高等学校)の1年生220人が 学徒動員で市内の建物取壊し撤去作業中に原爆投下で被爆、全員死亡。
ものがたりは・・・3人の少女が残した日記をもとに、つかのまの青春を謳いあげたアニメ.・・・
残された親たちの悲しみのドキュメント・・・遺品は焼け焦げた夏服の切れ端だけだったいう・・・

 

広島原爆は人類の原子兵器による殺戮の歴史の1頁です。
(1988年8月7日放映の再放映)

★広島県立第一高等女学校は爆心地から650m、被爆により校舎倒壊、校長・教職員19人、生徒281人(学徒動員生徒220人含む)が死亡。

NHK公式サイトより
・・・➡クリック・・・広島の少女たちが残した日記を元に描く青春物語


ミッドウエイ海戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎原爆、ソ連参戦による満蒙開拓民の悲劇、ポツダム宣言受諾、無条件降伏・・・この悲劇を風化させないために孫子の代に語り継いでほしい。

※コメント欄オープン。



2015年からはじまった・・・広島「黒い雨」訴訟・・・の行方

2020-08-14 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
7月29日広島地裁で・・・「黒い雨」原爆後遺症の訴訟に対する判決が出ました。
2015年・・・1945年8月6日の米軍による原爆投下・・・その後遺症に関しての訴訟です。
放射能を含んだ「黒い雨」・・・その被爆影響を受けたのは爆心地から北西19㎞、幅11kmの楕円形の下で受けたとする当時の政府決定。それ以外の地区で被爆したため被爆者健康手帳を交付されず今日まで苦しんでこられたかた84人が交付を求めて訴訟をおこしました。


今年の7月29日、訴訟が認められました。すでに5年経っています。84人の原告のうち16人が亡くなれています。


被告の国、県、市は8月12日控訴しました。
広島県、広島市は「被爆地帯の拡大」を国に求めて控訴に消極的、国は控訴する方針を最初から決めていたようです。
被爆地帯の認定・・被爆からまだ間もない頃の調査・・・遠いむかしのことです・・・実証するにはあまりにも資料不足です。

2020年8月6日・・・、被爆75周年の広島市原爆死没者慰霊式における安倍晋三首相のあいさつです。

本日ここに、被爆75周年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が挙行されるに当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。
そして、今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。

     (中略)
被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め、原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、今後とも、総合的な援護施策を推進してまいります。
結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ広島市において、核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、広島市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。

令和2年8月6日    
内閣総理大臣・安倍晋三


あの戦争の後遺症で今も苦しんでいる方々のために・・・国家の責任として・・・寄り添ってやることができないのでしょうか・・・それが政治です。


コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。
・当ブログ無関係のコメントは削除。



8月9日・・・「ナガサキ原爆忌」・・・黙祷

2020-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
いまから75年前の1945年8月9日11時02分・・・長崎市松山町9番地上空500m。
米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾ファットマン」・・・爆発。
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000・・・

今日は8月9日・・・ナガサキ忌・・・原爆忌・・・
・・・黙祷・・・

長崎市松山町9番地・・・ここは原爆落下中心地・祈りのゾーン・・・グラウンドゼロ・・・
通常爆心地公園と呼ばれますが、正しくは平和祈念像のある広場も含めて長崎市平和公園

※撮影日は2006年4月3日。

被爆直後の浦上天主堂・・・
1945年8月9日、天主堂ではミサが行われていたが原爆投下により司祭はじめ多数の信徒は一瞬のうちに全員死亡。


2006年4月、「長崎の鐘」の著者、永井隆博士が過ごしたあばら屋「如己堂」から坂を下りて浦上天主堂まで歩きました。
爆心地から500mの浦上天主堂、瓦礫の中からアンジェラスの鐘が発見されます。
この鐘が再び鳴らされたのは原爆被災の年のクリスマスの夜でした。


平和祈念像は広島の原爆ドームのような原爆被災そのものではありません。
ひとりの彫刻家北村西望の観念であり外に向かってのメッセージです。
原爆投下の10年後に長崎市民の悲願で国内外からの3000万円余の浄財を集めて建立されました。
貧しい時代でしたが・・・まさに人々の平和への祈念です。
※イラストは2006年ナガサキを訪れたときのもの。


8月6日は「ひろしま原爆忌」、8月9日は「ナガサキ原爆忌」、8月15日は「日本が戦争に負けた日」・・・
非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ」・・・祈ってほしい・・・


※コメント欄オープン。


8月6日・・・「ひろしま原爆忌」・・・黙祷

2020-08-06 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
今日は8月6日・・・
いまから75年前の1945年8月6日未明、たった50kgの原子爆弾リトルボーイ」を抱いてテニアン島を飛び立ったアメリカ軍の戦略爆撃機B29「エノラ・ゲイ」(命名は機長の母親の名前から)は8時15分17秒、広島市相生橋上空で「リトルボーイ」を投下しました。
たった1機・・たったウラン50kg弾1発(火薬弾15000㌧相当)・・被害者26万人。
3月10日東京大空襲では延べ344機、焼夷弾2000㌧、被害者10万人。

あの日の広島は3000℃。

※写真は8月7日朝日新聞朝刊1面から。

・・・黙祷・・・
広島平和記念公園(原爆死没者慰霊碑、アーチの向こうに平和の灯、原爆ドームが。)
※撮影日は2009年7月広島を訪れて。
2008年8月6日のブログより・・・写真は新聞の切抜きから。ある新聞カメラマンが1945~1946のあいだに撮った被爆後の広島市街。当時はアメリカ進駐軍(GHQ)から原爆被害の報道を規制されていたため発表できなかったものが最近になって発見されたようです。中央に残っているビルは中国新聞社新館。あとは瓦礫の山。

2013年8月6日のブログより・・・負の世界遺産・・・原爆ドーム・・・元広島市物産陳列館は爆心地(Ground Zero) 島病院から西に200m。
※1996年世界文化遺産登録・・・この登録会議では米国は反対、中国は棄権・・・
※撮影日は2013年3月広島を訪れて。

1974年、「第1回広島平和音楽祭」で昭和の歌姫美空ひばりは「一本の鉛筆」という歌を歌います(画像2015年8月4日放映のNHK総合テレビ「いのちのうた」より)。美空ひばりのために音楽祭の総合演出を担当した松山善三が作詞、佐藤勝が作曲した歌です。

      一本の鉛筆

    あなたに聞いてもらいたい
    あなたに読んでもらいたい
    あなたに歌ってもらいたい
    あなたに信じてもらいたい
                  (中略)
    一本の鉛筆があれば
    八月六日の朝と書く
    一本の鉛筆があれば
    人間のいのちとわたしは書く


2015年8月6日のブログより・・・埼玉県東松山市・・・比企の丘・・・都幾川の畔・・・丸木美術館で・・・2015「ひろしま忌」から・・・

「原爆の図」・・・第7部《竹やぶ》。第5部《少年少女

「原爆の図」 第13部 《米兵捕虜の死


2014年8月6日のブログより・・・丸木美術館、都幾川の流れ・・・「燈篭流し」・・・あの日、広島の太田川は屍で溢れていたという。


魂揺れる 燈篭流し ひろしま忌   比企野
 
8月6日…埼玉県東松山市下唐子 「原爆の図 丸木美術館」 では「被爆75年ひろしま忌 灯篭流し」が行われます。
コロナ禍のためイベント、飲食の出店などは行われないようです。静かに祈りを捧げたい。

8月6日は「ひろしま原爆忌」、8月9日は「ナガサキ原爆忌」、8月15日は「日本が戦争に負けた日」・・・
非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ」・・・祈ってほしい・・・



※コメント欄オープン。


ローマカトリック教会(バチカン市国)フランシスコ法王が…きょう…長崎へ

2019-11-24 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
ローマカトリック教会(バチカン市国)のフランシスコ法王(教皇とも)が今日、長崎を訪れています。
↓は・・・2018年1月18日のブログです・・・そのままコピーしました。 

2018年1月3日の朝刊より・・・2017年・年末・・・ローマ法王がナガサキの写真配付・・・「焼き場に立つ少年」・・・2018年1月7日

2018年1月3日、朝日新聞朝刊の7頁国際面に・・・ローマ法王が昨年末、教会関係者に「核廃絶を訴えて」1945年8月9日ナガサキに原爆が落とされた直後の様子を米軍従軍カメラマンが写した写真の中で最も有名な「焼き場に立つ少年」の写真にメッセージとサインを添え配付していたことが報道されていました。詳細はキリヌキのコピーをごらんください。

焼き場に立つ少年」について・・・2017年8月11日のブログよりそのまま重複掲載
8月10日の朝日新聞の朝刊社会面に紹介された本です。

坂井貴美子
神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産
いのちのことば社 2017年7月5日初版

写真は長崎に原子爆弾が落とされた直後、長崎に進駐した米軍カメラマンが撮影した「焼き場に立つ少年」。
軍の許可なく私品のカメラで約300枚を撮影、秘密裡に持ち帰りトランクの中に封印、44年後の1989年封印されたトランクを開いて公開した、核兵器を使った戦争の惨禍を訴えた写真のうちの・・・あまりにも有名な1枚。

米軍カメラマンの名は・ジョー・オダネル(1922~2007年)米海兵隊写真班員として従軍、被爆直後の広島・長崎を爆撃効果確認のための記録写真撮影(撮影用カメラは軍の貸与品、命令以外の私的な撮影は禁止されていた)、日本軍憎しで固まっていたオダネルが佐世保から長崎に入って目にしたものは衝撃的で、身心に傷を負い、秘かに撮影した被曝の現状写真を隠し持って帰国。
67歳の時、トランクの中の「広島・長崎の被曝の現況写真」の封印を解き、全米各地で写真展を開きます。・・・被曝犠牲者への思いをこめて・・・
原爆正当化論の根強いアメリカで強いバッシングを受け、奥様とは離婚、そんな環境に耐えながら、2007年85歳で亡くなるまで世界各地で写真展を開催し続けました。

坂井貴美子(1960年~)・・・福島県生まれ、クリスチャン、1991年会津若松市栄町教会の写真展でジョー・オダネルと出会い1995年オダネルと結婚、2007年死別。米国在住。

※「焼き場に立つ少年」・・・長崎の浦上川の畔で。
死体焼き場に赤ちゃんをオンブして立つ少年、眠っているかどうかわからない。やがて大人たちがオンブ紐を解いて子どもを抱き下ろしそっと炎の中に。少年は炎の中の弟を不動の姿勢で口を堅く結んで見守っていたがやがて去って行ったという。


2007年、日本の皇后陛下(現美智子皇太后)は、オダネルが従軍中の長崎で撮った「焼き場に立つ少年」の新聞への掲載が、その年に印象に残ったことの一つとして言及されている(Wikipediaより)

《参考にした記事》

★Wikipedia ジョー・オダネル
★Amazon 神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産 (いのちのことば社) (Forest・Books)

★米国在住、ピアノ弾き&教師のまうみさんのブログ・・・コメントが286もある反響を呼んだものです ↓クリック
あなたこの『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争をしようと思いますか?

動画・・・49分の長尺です。ぜひ見てほしい。
NHKスペシャル「解かれた封印 ~米軍カメラマンが見た長崎(NAGASAKI)~」

出版社「理論社」の元社長故小宮山量平は長編小説「千曲川四部作」の中で戦後間もなく書いた自分の作品がGHQにより削除命令を受けその理由を次ように指摘されたことを記している。
「左翼でも右翼でもなく共産思想でもなく軍国思想でもなく、今度の戦争を肯定するものでもなく否定するものでなく、ただ人間による人間に対する加虐の状況が追求されている・・・

★2017年8月11日のブログです・・・
1945年被爆直後の長崎・・・焼き場に立つ少年・・・米軍カメラマンは見た

★2016年2月25日のブログです・・・
いまから35年前・・・2月25日広島・・・ローマ教皇パウロ二世の平和アピール


コメントをいただいたのりさんの・・・2019年11月24日のブログ・・・「ようこそ法王さま」。


※コメント欄開いています。

2019年8月6日・・・ナガサキ忌・・・浦上天主堂と・・・「長崎の鐘」・・・8月は祈りの月

2019-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1945年8月9日11時02分、長崎市松山町171番地上空500m。米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾ファットマン」・・・爆発。
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000・・・を悼んで「ナガサキ忌」。

・・・黙祷・・・
ただ・・・静かに祈ることしかできない・・・

2006年4月、「長崎の鐘」の著者、永井隆博士が過ごしたあばら屋「如己堂」から坂を下りて浦上天主堂まで歩きました。
爆心地から500mの浦上天主堂、瓦礫の中からアンジェラスの鐘が発見されます。
この鐘が再び鳴らされたのは原爆被災の年のクリスマスの夜でした。
※イラストは2006年4月。
永井隆(1908~1951年)・・・医学博士、長崎医科大助教授、原子爆弾に自ら被災しながら被災者の救護、治療に従事、原爆症のため5年後に亡くなった。カトリック教徒。被災の状況、救護活動の記録をつづった随筆「長﨑の鐘」で原子爆弾のことを広く世間に知らしめた。当時の人気歌手藤山一郎の歌った永井博士のことをテーマにした「長崎の鐘」は国民的歌謡となった。


こよなく晴れた青空を 悲しと思う切なさよ
うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ
 ・・・後略・・・
長崎の鐘」サトウハチロー作詞・古関裕而作曲の一節です。



↑の写真は2008年5月にNHKで放送されたものからです、歌っているのは盲目のテノール歌手、バプテスト教会牧師の新垣勉さん。
祈り」をこめた素晴らしい歌でした。


8月は祈りの月・・・
ただ静かに祈りたい・・・

広島・長崎原爆で亡くなった人のためにも、あの戦争で亡くなった日本人310万のためにも、あの戦争で亡くなった関係各国の人々2000万人のためにも・・・

原爆という無差別大量殺戮兵器の行使・・・パンドラの箱を2度も開けてしまったアメリカ。
70有余年たった今も戦争の早期終結のためにという「免罪符」のような言葉を守るしか方法がありません。戦争というものはそういうものかも知れません。でも次にパンドラの箱が開けられたとき、何百万人どころか何千万人が野垂れ死にすることは間違いありません。東京に数発落ちたことを考えてみてください。
いま、世界のどこかで行われている戦争は国益とか権益とか、そういうもので誰かが得をしています。それがエスカレートしていくと狂気になります。
そんなことにならないために世界にどうメッセージを送るか。被爆国日本の責務です。その責任を放棄してはなりません。


※コメント欄オープン。

2019年8月9日・・・ナガサキ忌・・・長崎平和公園・・・「平和祈念像」・・・8月は祈りの月

2019-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1945年8月9日11時02分、長崎市松山町171番地上空500m。米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾ファットマン」・・・爆発。
1945年8月9日原爆落下 死没者74000人 負傷者75000人
2008年8月9日原爆死没者 名簿登録者数 145984人
2018年8月9日原爆死没者 名簿登録者数 179226人

今日は「ナガサキ忌」。

・・・黙祷・・・
ただ・・・静かに祈ることしかできない・・・
※イラストは2006年4月。

☆平和祈念像は広島の原爆ドームのような原爆被災そのものではありません。ひとりの彫刻家北村西望の観念であり外に向かってのメッセージです。モニュメントです。偶像です。 原爆投下の10年後に長崎市民の悲願で国内外からの3000万円余の浄財を集めて建立されました。
貧しい時代でしたが・・・まさに人々の平和への祈念です。

8月は祈りの月・・・
ただ静かに祈りたい・・・

広島・長崎原爆で亡くなった人のためにも、あの戦争で亡くなった日本人310万のためにも、あの戦争で亡くなった関係各国の人々2000万人のためにも・・・
「あの戦争」を知っている人も知らない人も、広島や長崎に落とされた原子爆弾のことを知っている人も知らない人も・・・
ぜひ心の中で思いを寄せてほしい。


※コメント欄オープン。