比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

今日は何の日・・・77年前沖縄で日本が敗れた日・・・さとうきび畑に風が吹く

2022-06-24 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
                                     、
今から77年前の1945年6月23日は・・・沖縄で日本軍の組織的な地上戦が終った日・・・
太平洋戦争の終盤、沖縄では1945年4月1日の米軍上陸進攻にはじまり壮烈な地上戦が繰り広げられ6月23日沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将の自決で日本軍の組織的な戦争は終わります。

※沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19万人(うち沖縄県人12万人・・・沖縄県人の犠牲者はこれを上回ると思われる)、米軍側1万数千人。 

1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。

・・・黙祷・・・そしてあの戦争は終わってない


1967年寺島尚彦が作詞作曲で発表した「さとうきび畑」です。11節からなります。一部をコピーしました。興味のあるかたはネットで見てください。

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしのなかで


ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終りがきた
夏の陽ざしのなかで



★沖縄戦の凄惨さも沖縄という文字も語られていません、「鉄の雨」という文字が出てきます。アメリカ人ベローテ兄弟の著作「Typhoon of Steel」からこう呼び、日本側が「鉄の暴風」と翻訳したことからだそうです。
寺島尚彦・・・作曲家、1964年石井好子の伴奏者として沖縄を訪れ摩文仁の丘で深いショックをおぼえ「さとうきび畑」を作詞,作曲。
1967年田代美代子がコンサートで初演、1969年森山良子レコーディング、1975年NHK「みんなのうた」でちあきなおみが。2005年NHK紅白歌合戦で森山良子、森山直太朗がデュェット、寺島さんは「平和になってこんな歌は忘れてもらいたいいたい」と言っていたそうですが、沖縄はいまも基地の島、この歌は忘れられらることなく歌い継がれています。

さとうきび畑夏川りみの歌うYouTubeです。・・・羽根健太郎、新垣勉、藤原道山、共演。


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今日は何の日・・・5月15日・・・沖縄返還の日から50周年

2022-05-15 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
                               、
今日は何の日・・・5月15日・・・沖縄本土復帰の日・・・50周年になります。
★1945年8月15日、あの大戦で日本がアメリカに負けて、アメリカ軍の占領下になり、なぜか沖縄県、奄美諸島だけがアメリカ軍の行政下部組織になり、その7年後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約により日本はアメリカの占領下から回復されましたが、沖縄は琉球政府と名を変えて実質はアメリカ軍の統治下のまま(奄美諸島は1953年返還、鹿児島県に)。サンフランシスコ講和条約から20年後の1972年5月15日、沖縄はアメリカからようやく日本政府に返還されます。日本政府はこの日を「沖縄の返還」とだけ記しています。国家的記念日ではありません。

この日から沖縄は・・・琉球政府が沖縄県に、琉球政府主席が沖縄県知事に、ドル経済から円経済に(1$=305円)、自動車が右側通行から左側通行に、本土への移動にパスポートが不要に、本土との物流が貿易ではなくなり・・・といろいろなことが変わりました。
そして・・・沖縄はいまどんなに変わったでしょうか・・・

ここに一つの歌があります・・・2002年沖縄の本土復帰30周年を記念して、
沖縄石垣島出身のアコースティックバンドBEGINが2002年5月に発表した曲です。

  島人ぬ宝(しまんちゅうのたから)
           詞・曲 BEGIN
 僕がうまれたこの島の海を
 僕はどれくらい知ってるんだろう
 汚れてくサンゴも 減って行く魚も
 どうしたらいいのかわからない

 でも誰より 誰よりも知っている
 砂にまみれて 波にゆられて
 少しずつ変わってゆくこの海を

 テレビでは映せないラジオでも流せない
 大切な物がきっとここにあるはずさ
 それが島人ぬ宝



変わってゆく沖縄・・・変わらない沖縄・・・
庭先に基地のある沖縄、基地の中に先祖様のお墓、御嶽のある沖縄、
小学校の教室にジェット機が突っ込んだり大学のキャンパスにヘリコプターが墜落する沖縄、
アメリカ軍人、軍属が基地の外で犯罪を犯しても裁けない沖縄、
地位協定の壁・・・
基地で経済が成り立ってきた沖縄・・・少しずつ変わってきていますが・・・
ウチナンチュウ(沖縄の人)とナイチャー(本土の人)との温度差・・・


・・・どうしたらいいのかわからない
   なんくるなるさ~
・・・


BIGIN「島人ぬの宝」のYouTube➡クリック 島人ぬ宝


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今日6月23日は76年前・・・沖縄で日本軍の地上戦が終った日・・・そしてあの戦争は終わってない

2021-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今から76年前、太平洋戦争の終盤、沖縄では4月1日の米軍上陸進攻にはじまり壮烈な地上戦が繰り広げられ6月22日沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将が自決し翌23日日本軍の組織的な戦争は終ったといわれています。全日本軍にどれだけ通達できたかは不明(通信機能は壊滅していた?)で局地的に連合国の降伏勧告に応じず抵抗を続ける日本軍がいました。これが6月23日以降も沖縄住民の死者を拡大します。最終的には久米島の防衛軍20名が9月7日に投降。
沖縄戦の事実上の終戦日は連合軍の勧告を受け入れ宮古島、奄美大島の軍部最高責任者が9月7日嘉手納飛行場で降伏調印式に出頭した日になります。8月15日の天皇の敗戦の詔勅より遅れること20日余です。

沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19万人(うち沖縄県人12万人、米軍側1万数千人)。
沖縄県人の犠牲者はこれを上回るといわれます。ちなみに当時の沖縄県人の人口は43~44万人と推定されています。 
 
1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。

・・・黙祷・・・
沖縄は空も海も山も人も美しい・・・
そしていま・・・世界で最も美しい・・・ヤンバルの海が埋め立てられようとしています。
WHY(なぜ・・・どうして)・・・を自分で考えてほしい。

★ブログ開設以来「語り継ぐ責任 沖縄のこと」を書き留めて58編。古いブログに訪問してくださる方が今も1日10数PV。ブログ作成者冥利に尽きます。下記は毎日のブログ閲覧数上位10番目までに入っているものです。読んでいただければと思います。

2014年6月13日のブログ・・・沖縄県民の未来を願った・・・69年前・・・海軍司令官大田実の打った電文・・・沖縄県民 斯く戦えり
2013年6月23日のブログ・・・「どうか生き永らえてください」」・・6月23日・・・沖縄慰霊の日に・・・沖縄最後の県知事島田叡のこと
2009年9月20日のブログ・・・「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命なんだよ」・・・・・・命どぅ宝・・・白旗の少女

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今日は何の・・・76年前、沖縄に米軍が上陸した日・・・そして沖縄は今も変わらない

2021-04-01 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
2007年4月1日投稿のブログのリライトです。

今日は何の日。太平洋戦争末期・・・1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸した日
米軍の兵力・・・総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
上陸地点は沖縄本島中部の西海岸、嘉手納町読谷村。米軍の陽動作戦により南部海岸に上陸を想定した日本軍は不意をつかれ、なすすべもなく水際作戦を放棄しました。
わずか1時間で16000人が上陸したといいます。
無血上陸です。
4月2日読谷村の自然洞窟チビチリガマに避難した住民140人余。
米軍が投降を呼びかけたがパニックになり84人が自決しました。

4月5日までには中部地区は東海岸に至るまで米軍に制圧されます。これより米軍は南部に向かって進攻を開始します。

日本軍の兵力・・・陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。
それから2ケ月半、6月22日、牛島中将の自決により組織としての戦闘は終結しますが、沖縄県民にとっての地獄が日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後です)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。

沖縄戦における死者(Wikipediaより) 日本軍19万人(うち沖縄県人12万人・・・沖縄県人の犠牲者はこれを上回ると思われる)・・・米軍側1万数千人。
太平洋戦争における死者・・・日本軍230万人(うち餓死者、海没者が7割余)、一般人80万人(沖縄戦争の一般人、原爆、本土大空襲の死者、中国大陸、旧満蒙での死者を含む)。
★太平洋戦争での日本以外のアジア諸国の死者数は2000万人を越えるといわれます。
★太平洋戦争が終わったあと、朝鮮戦争、ベトナム戦争が起き、数100万の命が失われます。近代戦争では非戦闘員のほうが死亡者が多くなります。

死屍累々・・・「海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」のメロディーが浮かんできます。

★76年間、戦争のない時代を過ごした日本、それは何千万の命を犠牲にして続いた。
この平和を未来永劫に続けなければ「非命に斃れたる人たち」に申し訳ない。

これからの日本を支える人たちへ・・・
歴史のなかでWHY(なぜ)を考えない・・・年号の丸暗記なんて意味のないことだけど・・・どうか日本が太平洋戦争に突入した日(1941年12月8日)、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄戦争が終った日(1945年6月23日)、広島・長崎にアメリカ軍によって原爆が落とされた日(1945年8月6日。9日)、日本がアメリカ軍に降伏した日(1945年8月15日)だけは覚えてほしい。
そしてWHY(なぜ・・・どうして)・・・を自分で考えてほしい。

世界で最も美しい海・・・ヤンバルの海が埋め立てられようとしています。

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7月の庭・・・小さな庭に・・・白い百合の花が咲く頃

2020-07-10 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
小さな庭にヤマユリが咲きました。


ヤマユリを見ているとこの歌が浮かんで
島唄」を作った宮沢和史さんが作詞・作曲して沖縄出身の盲目のテノール歌手新垣勉さんにおくったという「白百合の花が咲く頃」です。

君と歩いた道 風が唄う野道
 白い百合の花咲くころ 君と歩いた道  (中略)

幼い頃も今も 振り向けば君がいた
 いつの日か結ばれる日を夢見ていたけれど
君の涙見た日 赤く燃えゆく街
 逃げまどう人をかきわけ 君と走った道  
君をさがした道 焼けたままの野道
 夏も秋も冬も春も 君を待った野道
この島で僕は生まれ 君と出会い そして別れ
 いつの日か君と同じ星に生まれ変わろう
一人見上げる空 ニヌファ星のそばで
 懐かしい人に囲まれ 輝いている君    (後略)
                    
白い百合」はヤマユリでもカノコユリでもササユリでもテッポウユリでもイイ。
赤く燃えゆく街・・・焼けたままの野道」・・・先のあの大戦の中の・・・沖縄のウージの畑の中、東京大空襲の夜の街、原爆が投下された日の広島・長崎、イメージしてください。「ニヌファブシ」・・・子()の方角の星…北極星。
この歌の意味をどう考えるか・・・それぞれの心の問題です。

ネットの中で探したYouTube 白百合の花が咲く頃  (When the flower of a white lily blooms)」です。


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6月23日・・・75年前沖縄で鉄の嵐が吹いた・・・今日は「沖縄慰霊の日」・・・沖縄泡盛「島唄」を飲みながら

2020-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日・・・

4月1日・・・沖縄本島読谷村の海岸に上陸太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸・・・
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。
米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。

6月22日夜半、沖縄守備軍最高指揮官牛島中将自決。6月23日朝から組織としての戦闘は終結します。
沖縄県民にとっての地獄の日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。

★沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19余万人(うち沖縄県人12万人・・・実際のの犠牲者はこれを上回るといわれます)。  米軍側1万数千人。
★太平洋戦争における日本軍の死者230万人、一般人80万(沖縄戦争の一般人、原爆、本土大空襲の死者、中国大陸、旧満蒙での死者を含む)。
★太平洋戦争における日本以外のアジア諸国の死者・・・2000万人を越えるといわれます。


死屍累々・・・「海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」のメロディーが目に浮かんできます。

6月23日・・・1961年米軍統治下の琉球政府はこの日を「慰霊の日」として公休日と定め、1962年から沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれるようになりました。「慰霊の日」は1972年本土復帰にともない「国民の祝祭日」から外されましたが、1991年沖縄県条例で「慰霊の日」が復活しました。

・・・黙祷・・・

沖縄泡盛「島唄」を飲みながら、ロックバンドTHE BOOMの「島唄」のことを思っています。

          島唄
                    歌:THE BOOM 作詞:作曲:宮沢和史 1993年リリース

   でいごが咲き乱れ風を呼び嵐が来た
   くり返す悲しみは島渡る波のよう
   ウージの森であなたと出合い
   ウージの下で千代にさよなら

   島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ
   島唄よ風に乗り 届けておくれ私の涙

         ・・・・・・・

デイゴ(梯梧、沖縄の県花、落葉高木、初夏に真っ赤な花を咲かせる)の花が咲くころ、戦さがはじまり鉄の嵐が吹いた
 人々は戦さの犠牲になり島は哀しみで覆われた
 ウージ(砂糖黍)の畑で出逢った愛する人、
 ウージの畑の下のガマの中で永遠の別れが・・・
 島唄よ・・・どうか風に乗ってあの人の魂を海の彼方のニライカナイ(楽園)に連れて行っておくれ
 島唄よ・・・どうか風に乗って私の思いを海の彼方のあの人に伝えておくれ



☆この曲の作者、宮沢和史( 1966年山梨県生まれ)は1991年(25歳のとき)演奏活動のため沖縄を訪問、1945年の沖縄戦争の戦場となった南部の「ひめゆりの塔 平和祈念資料館」でひめゆり部隊の生き残りのおばあさんから沖縄戦争の話を聞いて衝撃を受けます。そして沖縄旋律(レとラの抜ける5音階)を取り入れながら作ったのが「島唄」。1992年ウチナワグチ(沖縄方言)ヴァージョンで発売、1万枚を売り上げ、泡盛のCMソングに。沖縄音楽の真似事、ウチナンチュウでない本土の人の歌と批判する人もあったが喜納昌吉、BEGINの比嘉栄昌らのエールを受け1993年ヤマトグチ(標準語)ヴァージョンを発売して150万枚のヒット。やがてアルゼンチンでアルフレッド・カセロが日本語そのままでカバーした「SHIMAUTA」が大ヒット。加藤登紀子、夏川りみ、はじめカバーしたアーチスト10数人。
宮沢和史は・・・遠いむかし沖縄で戦争があったことは知っていたが、ひめゆりの塔で語り部の老婆の話を聞いて・・・その凄惨さに衝撃を受け、無知だった自分に怒りを覚えた・・・ガマに眠ってる魂を空に飛ばせてやりたいと思った・・・と語っています。


★今日は、この歌を思いながら、沖縄に思いを馳せています。2004年、沖縄を訪れたときの思い出写真です(クリックでズームアップ)。
   

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今日は「沖縄慰霊の日」・・・小説「宝島」を読んで

2019-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日。太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸、6月23日沖縄における戦争が終結した日。

4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸。上陸地点は沖縄本島中部の西海岸、嘉手納町、読谷村。米軍の陽動作戦により南部海岸に上陸を想定した日本軍は不意をつかれ、なすすべもなく水際作戦を放棄しました。わずか1時間で16000人が上陸したといいます。
無血上陸です

4月2日読谷村の自然洞窟チビチリガマに避難した住民140人余、米軍が投降を呼びかけたがパニックになり84人が自決しました。
4月5日までには中部地区は東海岸に至るまで米軍に制圧されます。これより米軍は南部に向かって進攻を開始します。

米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。
それから2ケ月半、6月22日、牛島中将の自決により組織としての戦闘は終結しますが、沖縄県民にとっての地獄の日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。

沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19余万人(うち沖縄県人12万人・・・沖縄県人の犠牲者はこれを上回ると思われる)。  米軍側1万数千人。
太平洋戦争における日本軍の死者230万人(うち餓死者、海没者が7割)、一般人80万人((沖縄戦争の一般人、原爆、本土大空襲の死者、中国大陸、旧満蒙での死者を含む)。
太平洋戦争における日本以外のアジア諸国の死者・・・2000万人を越えるといわれます。

死屍累々・・・「海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」のメロディーが浮かんできます。

太平洋戦争が終わったあと、朝鮮戦争、ベトナム戦争が起き、数100万の命が失われます。
近代戦争では非戦闘員のほうが死亡者が多くなります。



直木賞、山田風太郎賞受賞 真藤順丈著の小説「宝島」です。
幼馴染みの三人のウチナンチュを中心に沖縄戦争の終ったあとの米軍統治下の沖縄から復帰までの沖縄を描いています。
小説の中の一節です・・・
復帰協は”日本国民としての魂を取り戻そう”なんて謳ってるけれど、これまでにおれたちがヤマトンチュであったことがあるか・・・(中略)・・・おれたちが目の仇にしなきゃならんのはアメリカ~よりヤマトンチュじゃないかって・・・(中略)・・・この島の人権や民主主義はまがい物さ。本物のそれらはもうずうっと本土のやつらが独り占めにしてこっちまで回ってきとらん」。
(中略)
1972年のその日を迎えて、琉球警察は沖縄警察に看板をとっかえて、通貨はドルから円になり、本土に渡るにも旅券はいらなくなった。だけどそれがなんだっていうのだろう。アメリカ世からヤマト世になったところで巨大な基地のある生活はなにも変わらない。
(後略)

≪註≫ウチナンチュ・・・沖縄の人、ヤマトンチュ・・・日本の人、アメリカ~・・・アメリカ人、アメリカ世(ゆ)・・・米軍統治時代、ヤマトぬ世(ゆ)・・・琉球処分後の日本の時代、復帰後の日本の時代。


物語の主人公たち・・・ある青年(グスク)は刑務所暮らしから警察官になり米軍民政府の特命捜査も隠密裏に手伝います。ある女性(ヤマコ)はAサインバー(米軍許可の酒場)で働きながら教員免許を取って先生になります。ある若者(レイ)はアウトローの世界につかりながら強かに生きています。それぞれの歳月が過ぎていきます。
沖縄ことば(ウチナーグチ)のルビがふられた会話が飛び交います。
名ばかりの琉球政府、琉球行政主席、議会のアメリカの意にそわない決定はアメリカ民政府のノーというひと言で無条件で破棄されます。パスポートが無ければ本土(ヤマト)に旅行にも学校にも働きにも行けません。本土の永住権も取れません。仕事は基地労働者になるか米軍相手の飲食店で働くしかありません。職種が限られているのです。農耕地は基地になっています、Aサイン、ハーバービュークラブ(米軍高官、琉球政府高官。琉球経済界の重鎮のみが会員になれる高級クラブ)など知らないことがでてきます。朝鮮戦争、ベトナム戦争の戦場で同僚兵士の命が飛び散り、束の間の戦時休暇、荒みきった米軍兵士の犯罪が頻発する沖縄。特に三人の住む普天間飛行場、嘉手納飛行場のゲートに近いコザ、胡屋(ゴヤ)はその中心街。米軍統治下の沖縄のことを知らなければ理解できないかも。

A5判541頁の長編。ヘビーな内容です。読み通すにはエネルギーがいります。著者はこの作品を書くのに7年の歳月をかけたそうです。
大勢の人に読んでもらいたい本です。
★↑↓の写真は表紙装丁より。


≪参考リンク≫2019年1月9日「もののはじめblog」さんのブログ・・・→クリック・・・宝島

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きょうは何の日・・・いまから74年前の沖縄戦・・・沖縄北部伊江島に米軍が上陸した日・・・そして沖縄の今は

2019-04-16 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
沖縄北部、海洋博の開かれた本部半島から西方9kmに浮かぶ伊江島です。グスク(城山)とかイータッチューと呼ぶ山が見えます。フクギ並木に囲まれた備瀬の集落から海岸に出ますと眩いばかりの海の色に出会います。
エメラルドグリーンというのかコバルトブルーというのか言葉を失います。

今日は何の日。
1945年4月16日は、この美しい島・・・伊江島に米軍が上陸した日です。日本兵2700人、住民からなる防衛隊、義勇隊、女子協力隊が1200人、数日を経ずして陥落します。
戦死者4700人、内住民1500人が犠牲になります。
石灰岩の自然洞窟(アハシヤガマ)では150人余の集団自決が起こります。
ナンダッタのでしょう。
いま「命どう宝」(ヌチドウタカラ)の意味を考えてます。

世界でも最も美しいヤンバル(沖縄北部)の海が埋め立てられようとしています。
いま、沖縄で何が起こっているのでしょう。美しい沖縄の海はどうなるのでしょう。


※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。 


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今日は何の日・・・74年前、沖縄に米軍が上陸した日・・・そして沖縄は今も変わらない

2019-04-01 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
2007年4月1日投稿のブログです

今日は何の日。太平洋戦争末期1945年4月1日アメリカ軍が沖縄本島に上陸した日

上陸地点は沖縄本島中部の西海岸、嘉手納町読谷村。米軍の陽動作戦により南部海岸に上陸を想定した日本軍は不意をつかれ、なすすべもなく水際作戦を放棄しました。
わずか1時間で16000人が上陸したといいます。
無血上陸です。
4月2日読谷村の自然洞窟チビチリガマに避難した住民140人余、米軍が投降を呼びかけたがパニックになり84人が自決しました。

4月5日までには中部地区は東海岸に至るまで米軍に制圧されます。これより米軍は南部に向かって進攻を開始します。


米軍の兵力は総数548000人、艦艇1500、上陸部隊182000人。
日本軍は陸軍87000人、海軍10000人、沖縄県人で組織した義勇隊22000人。
日本国内で民間人(沖縄県民)を巻き込んだ初めての戦闘が始まります。
それから2ケ月半、6月22日、牛島中将の自決により組織としての戦闘は終結しますが、沖縄県民にとっての地獄が日々はさらに続きます。最終的には8月29日(終戦から2週間後です)の最後の日本兵の投降により沖縄戦は終結します。

沖縄戦犠牲者(Wikipediaより) 日本側19万人(うち沖縄県人12万人・・・沖縄県人の犠牲者はこれを上回ると思われる)  米軍側1万数千人。
★太平洋戦争における日本軍の死者230万人(うち餓死者、海没者が7割余)、一般人80万人(沖縄戦争の一般人、原爆、本土大空襲の死者、中国大陸、旧満蒙での死者を含む)。
★太平洋戦争における日本以外のアジア諸国の死者数は2000万人を越えるといわれます。
★太平洋戦争が終わったあと、朝鮮戦争、ベトナム戦争が起き、数100万の命が失われます。近代戦争では非戦闘員のほうが死亡者が多くなります。

死屍累々・・・「海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」のメロディーが浮かんできます。


★74年間、戦争のない時代を過ごした日本、それは何千万の命を犠牲にして続いた。この平和を未来永劫に続けなければ「非命に斃れたる人たち」に申し訳ない。

これからの日本を支える人たちへ・・・歴史のなかで(何故を考えない)年号の丸暗記なんて意味のないことだけど・・・どうか日本が太平洋戦争に突入した日(1941年12月8日)、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄戦争が終った日(1945年6月23日)、広島・長崎に原爆が落とされた日(1945年8月6日。9日)、日本が降伏した日(1945年8月15日)だけは覚えてほしい。
そしてWHY(なぜ・・・どうして)・・・を自分で考えてほしい。

世界でも最も美しい海・・・ヤンバル・・・(沖縄北部)の海が埋め立てられようとしています。


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きょうは何の日・・・いまから74年前の沖縄戦・・・慶良間諸島に米軍が上陸した日

2019-03-26 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日。1945年3月26日、太平洋戦争で沖縄に米軍が攻撃を開始、慶良間諸島に上陸した日です。日本国内の地上戦、沖縄戦争の始まりです。
島にいたのはわずかな日本兵と防衛隊(島民による義勇軍?)と島民です。ほとんどノーガードの島に米軍はいとも簡単に上陸しました。
渡敷島の記録では犠牲者は日本兵76人、軍属87人、防衛隊41人、島民368人(うち集団自決329人)とあります。この集団自決が後々問題になりました。慶良間諸島全体では集団自決は700人といわれます。
集団自決は米軍の沖縄本島上陸により伊江島、読谷村、うるま市、沖縄市、糸満市、玉城村と続きます。集団自決は日本軍の示唆によるものか否か。わたしには語る資格はありません。ただ集団自決があったことは事実です。そのことを歴史から消してはなりません。

大田昌秀の説く 沖縄戦の深層 住民はいかにして戦争に巻き込まれたか」(高文研 2014年刊)・・・の中からの写真です。
1945年3月29日、慶良間島で。
少女を抱く米兵・・・悲しい目をしています・・・ふるさとに残した妻や子のことを思い出しているのでしょうか。

慶良間諸島ってご存知ですか・・・美しい島々です。
那覇空港の遥か西方40kmに浮かぶ島、船で1時間、そこが慶良間諸島。渡嘉敷島を中心にして大小20余からなる島嶼群です。

  島人ぬ宝(シマンチュウのタカラ)
                 詞・曲 BEGIN
 僕がうまれたこの島の海を
 僕はどれくらい知ってるんだろう
 汚れてくサンゴも 減って行く魚も
 どうしたらいいのかわからない
   (後略)


世界でも最も美しいヤンバル(沖縄北部)の海が埋め立てられようとしています。
いま、沖縄で何が起こっているのでしょう。美しい沖縄の海はどうなるのでしょう。



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