比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

きょうの朝刊から・・・秩父事件「一世紀の沈黙」を破って・・・井上伝蔵の孫娘さん100歳の誕生日

2020-11-03 | 秩父事件を追って
きょうの朝刊埼玉版の記事から・・・
いまから136年前の1884年10月31日から11月9日までに起きた秩父事件(秩父困民党事件)。暴徒と呼ばれた秩父困民党のナンバー2、会計長の井上伝蔵、そのお孫さんの「小池もとさん」の近況を伝える記事です。

秩父事件とは何だったのか・・・井上伝蔵とは・・・クリック↡
2008年5月10日のブログ・・秩父路を行く・・道の駅「龍勢会館」・・秩父困民党・・・『草の乱』


カテゴリー秩父事件を追っても見ていただければ・・・
★秩父人の縄文人さんのブログ・・・2020年11月1日のブログ・・・クリック➡本日・11月1日は秩父事件(農民一揆)蜂起の日

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秩父困民党を追って・・・今朝の朝日新聞の記事から・・・俳優・菅原文太と秩父事件

2017-07-01 | 秩父事件を追って
2011年9月29日のブログ・・・「信州佐久の・・・東馬流(ひがしまながし)・・・秩父暴徒戦死者之墓」・・・朝から閲覧が来ています。
2017年7月1日、今朝の朝日新聞朝刊の別刷「be on Saturday」の記事「みちのものがたり・・・秩父困民党の進軍路   (長野県)」の影響です。

朝日新聞の記事内容を写真に撮らせていただきました。読んでみてください。




この記事で、菅原文太さんの生前のラストメッセージ・・・を伝えています。
「今、日本はおかしくなっています」
「なぜ怒りの声が上がらないのか」


千曲川の畔・・・絶壁「天狗岩」・・・戦いは東馬流村の外れのここではじまった。
↑↓の写真は2011年訪れたときのもの。
秩父暴徒戦死者之墓」と書かれた大きな墓石です。
秩父騒動が秩父の谷で瓦解したあと、同志を率いて信州に移動した秩父困民党参謀長菊池寛平の孫たちが戦死者の霊を弔うために事件50周年の昭和8年(1933年)に建立したものです。
暴徒」と記されています。昭和8年の日本の状況下では「暴徒」という表現にせざるを得なかったものと思われます。それでも死者の霊を弔い、この事件を風化させないために祈念碑を建立した菊池家の人たちの心情に感動します。

・・・ブログをはじめて10年、ずっと追い求めてきたテーマです。
折りを見て秩父を尋ね困民党が最初に集結した風布から決起集会の下吉田村椋神社、最後は困民党終焉の地、東馬流(ひがしまながし)まで尋ねました。取材にあたってブログフレンドの秩父出身「縄文人さん」にいろいろご教示いただきました。あらためてお礼申し上げます。。
全部で10数編になりますが主なブログをリンクしました。一読していただけたら・・・
★2008年5月10日のブログ・クリック秩父路を行く・・道の駅「龍勢会館」・・『草の乱』
★2011年9月29日のブログ・クリック信州佐久の・・・東馬流・・・秩父暴徒戦死者之墓
★2012年5月12日のブログ・クリック佐久甲州往還・・・東馬流・秩父困民党終焉の跡

★秩父事件を尋ねて歩いた道をフォトアルバムにまとめました・クリック→秩父へ・・・秩父事件の原点を追いかけて

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秩父・・・上日野沢・・・天空の村の・・・天空のおやき

2014-11-09 | 秩父事件を追って
11月2日、秩父巡行。秩父市下吉田の道の駅「龍勢会館」で干し柿の素材の生柿を買い、秩父困民党事件の原点「椋神社」にお詣り、椋神社の前から阿熊川に沿って埼玉県道284号線を城峰山の方向に。284号線は途中で上日野沢、下日野沢に。

皆野町立沢(元日野沢村)。振り返れば阿熊川の深い渓谷。

ここは皆野町上日野沢の最高地点。海抜500m。

天空のおやき」「生姜の佃煮」の幟が翻っている。

「天空のおやき」の家から下を見ると、段畑であったと思われる傾斜地。柚子の木もある。

※「天空のおやき
下調べしてこなかったがこの店というか、普通の山の中のオウチというか。
上品なオバアチャンと普通のオジサンがいて「こんにちは」と声をかけると気軽に返事してくれて。
とりあえず「おやき」を頼むとお茶とシャクシ菜の浅漬けと生姜の佃煮の小皿を出してくれた。
崖の上の迫り出したような部屋を工事中。
「おやき」をいだだきながら、何気ないお茶飲み話。これが面白い。「おやき」は信州の小川の庄おやき村まで行って研究したとのこと。干し柿の作り方、たらし焼の話、猪の話・・・話し出したら止まらない。
シャクシ菜の漬物を油炒めしたのを餡にした「おやき」はわたしの好きなタイプだ。2個で300円でお茶飲み話してもらってこんな値段では申しわけない。

※「天空のおやき」については・・・ネットでいろいろ検索したほうが面白い→クリック「天空のおやき」の検索

「天空のおやき」ここは上日野沢を知ってもらいたい・・・そんなコミュニケーションの場所のよう。
少し離れた場所にむかしの学校が「天空の楽校」としてあります。今回は寄らなかったが、訪れてみたい。

秩父を訪れた人はぜひここに足を伸ばしてもらいたい。

また尋ねて、こんどはジックリ薀蓄ばなしをしよう。
130年前の「秩父事件」・・・当時の上日野沢村から参加した人もいる。村の神社の神主を務めていた宮川津盛という人は困民党の会計副長を務め事件後に懲役9年6ヶ月の刑に服している。そんな話も聞いてみたい。
下調べもなくはじめて見た場所であり、この天空のフォトポイントもつかんでいなくてイメージを伝える画像が撮れなかった。次の機会にじっくりフォトしよう。

※ブログフレンドの縄文人さんから「おやき」の縄文人バージョンを教えてもらったので紹介します。
   クリック→2011年6月19日「縄文人特別食」手作りお焼き

天空のおやき」のブログ→クリック

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秩父事件を追いかけて・・・130年前の11月1日・・・ここ椋神社で秩父困民党の決起集会が行われた

2014-11-03 | 秩父事件を追って
椋神社のオオカミ様です。鳥居の横に阿吽の狼がいます。秩父地方の狼伝説・・・は下記に。

椋神社の本殿・・・今から130年前の1884年11月1日、ここ椋神社の境内で秩父困民党の一揆(政府側では暴動と呼ぶ)の決起集会が行われました。

神殿のまわりには銀杏の木・・・ギンナンの実が落ちています。

無患子(ムクロジ)・・・患わない子・・・子どもの無病息災を祈る・・・遠くに城峯山(1037m)が見える。

境内に秩父事件を象徴化した・・・狼煙を持った農民・・・のブロンズ像。
斧や鍬を振るう農民が「圧制を変じて良政に改める」という思いを叫んだようすがひしひしと伝わってきます。

さて、椋神社の「オオカミ様」です。神社というと狛犬ですが奥多摩御嶽神社、秩父三峰神社をはじめとしてオオカミが多いようです。
神の眷属「」…秩父には狛犬ではなく狼を神犬とする神社が10数社あるそうです。
日本狼…1905年奈良県の山奥で見た以来、姿を消したそうです。原因は定かではありませんがコレラ、ジステンパー、狂犬病などいろいろいわれているようです。
秩父山岳地帯に古くから伝わる狼信仰、狼は家畜も襲ったでしょうが猪、鹿などの数を調整する益獣でした。薀蓄を追っていくと長々となるので省略。

130年前の1884年11月1日、ここ椋神社の境内で、明治維新に入って17年目、江戸時代の農民一揆(強訴)をそのままのような秩父困民党による強訴・打ち壊しの決起集会が行われました。詳細は拙ブログの「秩父事件」「椋神社」などを見ていただけたらと思いますが、ここでは経緯だけを下記に記しました。

 10月31日 風布村で農民蜂起、130人
 11月1日 下吉田村椋神社で決起集会、3000人
 11月2日 大宮郷(現秩父市街)郡役所に本部、10000人 
 11月4日 金屋村の衝突、800人、12人死亡
 11月5日 粥新田峠の衝突、100人
 11月9日 信州東馬流(現小海町)300人、野辺山原200人の衝突で終了 14人死亡 

勇ましくも悲しい物語です。

秋の秩父路・・・秩父事件困民党が信州へ走った道・・・合角ダム・・・桃湖

2013-11-08 | 秩父事件を追って
秋の秩父路、11月3日、秩父市下吉田から吉田川に沿って県道182号線を西に、合角ダム(かっかく)にやってきました。

合角ダムの堰堤下、塚越の三差路。直進すると土坂峠方面へ。、左折すれば矢久峠方面へ。
県道182号線・・・吉田川に沿って下吉田から上吉田、塚越、強矢、矢久集落を過ぎて矢久峠、神流川の谷に抜ける道です。1884年、自由民権運動から暴動に発展した秩父事件、官により制圧され瓦解した秩父困民党の一部の集団が信州を目指してこの道を辿ったといわれています。

合角ダムから見た堰堤下の風景。小川戸集落・・・郵便局がありました。上吉田の中心部のようです。

合角ダムの堰堤・・・高さ61m。2001年竣工、治水、上水道用。農業利水、水力発電はないようです。

合角ダムのダム湖・・・西秩父桃湖・・・かつての知事の娘さんの名前からという話があるが真偽はわからない。

桃湖を西に進むと矢久峠に行く道と小鹿野町に行く道に分かれます。この集落は小鹿野町日尾(前倉尾村)。
合角(かっかく)・・・難読地名です。もとは倉尾村(現小鹿野町)の合角集落・・・いまはダム底に沈んだ地籍名だそうです。地名の由来は・・・不明です。
合角ダム‥・埼玉県管理の補助多目的ダム、堰堤鷹さ61mの立派なダムです。なぜか水力発電には利用してないようです。

矢久峠への道・・・渓谷にせり出すように野生の柿の実が・・・とりたいのだけど手が届きません。

182号線から左に分かれトンネルを抜けると小鹿野町はすぐです。

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秩父事件の足跡を追って・・・秩父金仙寺・・・秩父困民党総裁田代栄助の墓

2013-06-17 | 秩父事件を追って
6月9日、秩父市下影森・・・大聖山金仙寺(臨済宗建長寺派)。秩父七福神めぐりの寺、布袋尊が祀られています。開基は定かではありませんが南北朝のころの1358年といわれています。ネットでググっていきますともとは在地領主のお館から城郭みたいなものが構築されていたようです。このあたり歩けば空堀、土塁などが見られるようですが今回は素通りしました。
今回の目的は秩父事件の首謀者とされる秩父困民党総裁田代栄助の墓に詣でることです。

金仙寺山門。タチアオイの花がキレイです。

扁額の寺名が金僊寺になっています。の本字・・・知らなかった。
布袋尊が祀られている…七福神のお寺を・・・いつの時代に・・・どうやって決めたのか・・・知りません。

サイパン地蔵が本堂のすぐ前に(1946年建立)。太平洋戦争で犠牲になったかたがたの慰霊地蔵のようです。


田代栄助墓」・・・巨大な自然石に刻まれた文字は風食か石をもて打たれたのか損傷が激しく近くに寄らなければ読めませんでした。
振りかえりみれば昨日の影もなし 行く末くらし死出の山路」・・・墓石の裏にはこう刻まれているそうですが読めませんでした。 


武甲山が見えます。田代栄助、秩父大宮郷字熊木の生れ(羊山のすぐ西側の現在の市街地)。1885年処刑された田代栄助の墓は生れ在所のそばの羊山の中腹にありましたが戦時中の軍の地下壕計画で金仙寺に墓所を移したそうです。長い間、秩父事件の首魁として墓所も辛い目にあったようでフェンスに囲まれ鉄扉に鍵が施されていたそうです。いまは施錠されていません。新しい花が供えられていました。

※秩父困民党総裁田代栄助)(1834~1885年)・・・江戸時代には秩父大宮郷熊木の名主も務めた大百姓の家の生まれ。親分肌で人望があり貸借トラブルの仲裁など代言人(明治時代の弁護士みたいな職業)もしていたようです。自由民権運動の波に乗り、1884年2月自由党に入党します。やがて年長者、親分肌だったことから秩父の困窮した農民の政府への請願運動のリーダーに推されます。
武力蜂起にはかなり慎重派だったらしいのですが、燃え上がった炎は抑えることができず1884年11月1日の椋神社の決起集会で暴動へと進みます。秩父での騒動は11月3日に鎮圧され田代栄助は逮捕され処刑されます。


秩父事件の足跡を追って・・・最初に鬨の声をあげた風布の琴平神社下吉田の椋神社困民党副総裁井上伝蔵の商店跡石間の副総裁加藤織平の墓信州佐久の東馬流の秩父暴徒戦死者之墓秩父困民党散華之地・・・を尋ねて歩きました。
今回の田代栄助の墓に詣でて、この旅も一段落したような気がします。

江戸時代の徳川幕府という体制、明治時代に入り新政府という体制・・・農業者にとってどのような違いがあったのでしょう。天子様も将軍様も同じ感覚であったのかも知れません。年貢の納め先が変わった、年貢が物納から金納に変わったという程度でしか捉えていなかったかも知れません。唯一の換金生産物である生糸相場の暴落、明治政府のデフレ政策、増税、さまざまな要因が絡んで農地を手放すしかないという状況(小作農への転換、一家離散、身代限り、夜逃げ)に追いこまれます。債権の年数延長、学校費の負担延長、雑税、村税の軽減・・・など請願しますがすべて却下され・・・実力行使に向かっていきます。百姓たちにとって一揆という感覚だったかもしれません。。秩父騒動、暴動とか暴徒、逆賊と長い年月いわれ続けましたが、いまは研究者たちの検証により「秩父事件」といわれるようになりました。
暴力による問題解決・・・いつの時代にも許されませんが・・・国を治めるサイドが民の声を聴く姿勢は・・・いつの時代にも政治の基本です・・・秩父事件は民の声を聴くという姿勢が国を治める側にあればあんな悲劇的な結末にならなかったのでは・・・そんな思いがします。
そして、あの時代にいいたいことがあれば堂々とものをいった・・・そんな秩父人の百姓の強かさに・・・畏敬の念が湧きました。

フォトアルバム「秩父へ・・・秩父事件の原点を追いかけてもご覧いただければと思います。

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秩父困民党の足跡を追って・・・秩父事件はここ琴平神社で第一歩が踏み出された

2013-05-15 | 秩父事件を追って
5月12日、北武蔵の山波の北のはずれ、風布(ふうぷ)にやってきました。
風布は釜伏川に沿ったV字谷の谷底から上がった急峻な傾斜でみかん栽培を生業としている「風布みかん山」と呼ばれている村(今は寄居町大字風布です)。
東に向かったミカン山の斜面の坂を登りきると峠の頂上、塞神様、弁財天の石碑、秩父事件碑がありました。

明治17年(1884年)、秩父の谷で起きた民衆運動「秩父困民党事件」の事件後110年の秩父事件顕彰碑が建てられていました。

その上に、1984年建立の事件後100年追念碑が建てられていました。

その脇に聖観世音菩薩像。1984年建立の追念碑によれば、追念碑建造のとき有志の浄財で建てられたようです。


ここは琴平山(標高311m)、琴平神社が祀られています。
秩父事件は1884年10月31日、ここ琴平神社で風布組150名が集合して、運動の第一歩がスタートします。






秩父困民党事件」・・・1884年(明治17年)11月1日、明治新政府のデフレ政策で借金苦にあえぐ秩父の谷の農民が救済を求めて下吉田村(現秩父市)椋神社に集まり蜂起、その数3000人・・・翌11月2日、下吉田村を出発した農民の集団は荒川を渡り大宮郷(現秩父市街)に進出、その数は10000人に膨れ上がったといいます。

11月1日の椋神社の決起集会に参加した農民の中でいち早くその前日の10月31日にここ琴平神社で決起集会を開いたのが風布組といわれる風布、金尾、折原、男衾、鉢形など近在の共鳴者、その数150名、中でも風布村のからの参加者は80戸の内で70名といわれます。一行は夕刻に外秩父の山を降り、金崎村(現皆野町)の高利貸永保社を襲撃して地券、借用証文などを破却して下吉田の椋神社の総決起集会に向かいました。

なぜこの静かな山の中の山の民が暴動(と呼ばれるが)に参加したのか。ここから他村に通じる道は荒川の支流である昼なお暗い深いV字谷の風布川に沿った道かいくつかの峠以外にはありません。1枚の水田すらない急峻な山の中腹に人々は桑を植えお蚕を育てせることを生業にしていたと思います。秩父事件の起きた背景は生糸相場暴落とデフレ・・・蚕以外に生産のない山の民に生きていく道がなかったのでしょう。地域共同体は運命共同体・・・山の上から地形を見ているだけで秩父事件がわかってくるような気がします。

事件は10日後の11月10日長野県佐久の野辺山高原方面で困民党壊滅の結末を迎えます。江戸時代の強訴、一揆が明治時代にそのまま持ち込まれたような体制側と非体制側との衝突、体制側に刃向った暴動としてこの事件は終わりました。この事件は日本が近世から近代に生まれ変わる時代、民が国に対して声をあげ民政とは何かを問いかけた事件です。

帝国憲法、帝国議会が成立したのはそれからあとのことです。

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北武蔵・・・風の谷の村・・風布みかん山・・・秩父事件の碑

2013-05-14 | 秩父事件を追って
5月12日、北武蔵の山波の北のはずれ、風布(ふうぷ)にやってきました。
風布・・・埼玉県大里郡寄居町大字風布、秩父郡長瀞町大字風布と二つの風布がありますが、江戸時代は風布村、1889年の明治の大合併で白鳥村に、1943年、風布地区はなぜか山の尾根で二分されて尾根の西側は野上町(現長瀞町)に、尾根の東側は寄居町に編入。今日は寄居町のほうの風布訪問です。

釜伏川に沿ったV字谷の中、風布は谷底から上がった急峻な傾斜でみかん栽培を生業としている「風布みかん山」と呼ばれている村です。
みかん栽培は16世紀後期の鉢形城主北条氏邦が小田原のミカン栽培法を導入してこの地に定着させたと伝えられています。

釜伏川(風布川)から高度差100m以上、つづら折りの緩やかな道を登ってきました。

坂を登りきると石碑と東屋が。

塞神様、弁財天の石碑、秩父事件碑があります。

峠道は隣の金尾村(現寄居町)の小林みかん山へと続く道です。

秩父事件で最初に狼煙が上がった村・・・まえから尋ねてみたい思っていました。
話の続きは次回に。

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秩父札所「音楽寺」…困民党の駆け抜けた小鹿坂峠

2013-04-16 | 秩父事件を追って
秩父札所34ヶ所23番、臨済宗南禅寺派松風山音楽寺、824年開基。
秩父盆地、秩父市街から荒川を挟んで西の長尾根丘陵の中にひっそりとたたずむ静かな観音堂。



いまから129年前、この静かな山の寺の境内を「逆賊、暴徒」と呼ばれる農民の集団が駆け抜けていきました・・・
秩父困民党事件」です。


1884年(明治17年)11月1日、明治新政府のデフレ政策で借金苦にあえぐ農民が救済を求めて下吉田村(現秩父市)椋神社に集まり蜂起、その数3000人・・・翌11月2日、下吉田村を出発した農民の集団は、長尾根丘陵小鹿坂峠を越えてここ音楽寺で休息。寺の梵鐘を打ち鳴らし山を駆け下り荒川を渡り大宮郷(現秩父市街)に進出、その数は10000人に膨れ上がったといいます。


事件は10日後の11月10日長野県佐久の野辺山高原方面で困民党壊滅の結末を迎えます。江戸時代の強訴、一揆が明治時代にそのまま持ち込まれたような体制側と非体制側との衝突、体制側に刃向った暴動としてこの事件は終わりました。この事件は日本が近世から近代に生まれ変わる時代、民政とは何かを問いかけた事件です。

音楽寺の境内の一隅にこんな墓石が建てられています。

 

墓は1978年、秩父困民党決起100年記念事業委員会が浄財を集めて建立したもの。墓の隣に困民党のことを書いた碑があります。
写真をクリックすると拡大します。
音楽寺を訪ねた方に・・・どうかこの一文を読んでください。

秩父事件については何回かブログを重ねています。過去ログをごらんになりたい方は→クリックしてください

こんにちは・・・古い古いブログに訪問いただいてありがとうございます。「いいね」にクリックしていただければ幸いに存じます。

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佐久甲州往還・・・東馬流・・・秩父困民党終焉の跡

2012-05-12 | 秩父事件を追って
2泊3日の信州の旅・・・最終日は佐久から甲州に抜けて帰ります。
塩田平から丸子、長久保、芦田、望月、臼田、小海に。

小海町で秩父困民党終焉の地に寄っていくことにしました。昨年の9月18日小海町東馬流の諏訪神社の脇に建つ「秩父暴徒戦死者之墓」に寄りましたが、困民党の最後の激戦地天狗岩あたりを見なかったことが心残りになっていたからです。

天狗岩です・・・戦いはここではじまった。

信州佐久・・・小海町東馬流・・・天狗岩の下・・・小海線、道路のそばの一角にこんな記念碑が建っていました。石碑の下は畑、千曲川をはさんでその向こうは国道141号線甲州往還(山梨県からいえば佐久往還)。

明治17年11月9日未明 秩父困民党散華之地 佐久秩父事件100周年顕彰実行委員会

1884年(明治17年)10月31日秩父風布で蜂起した秩父事件は11月3日秩父盆地では瓦解、11月4日上吉田塚越で菊池寛平が新リーダーとなって信州佐久に進路をとります。そして11月9日ここ東馬流で軍、警官隊と衝突、野辺山方面に壊走、11月10日完全に消滅しました。

この衝突現場で農民13名が死亡。6名の名前が刻まれています。碑文の間にスペースがあります。残り7名の死体は名前がわからなかったのでしょうか。

石碑のそばに菊池寛平、井出為吉の像が・・・二人は秩父困民党結成に佐久から参じました。秩父佐久事件の佐久サイドのシンボルです。
もう少し凛々しく悲壮感あふれる像を作ってもらいたかった。

菊池寛平・・・(1847~1914年)北牧村の生まれ、北相木村の菊池家の養子。岩村田町で代言人を。秩父事件蜂起前に秩父入りをして幹部に、秩父困民党の軍律5ヶ条を起草したといわれる。佐久事件のリーダーであるが逃亡を重ね逮捕され終身刑に、恩赦により釈放。余生を北相木村で。
井出為吉・・・(1859~1905年)北相木村の戸長を務めていたインテリ。寛平とともに秩父困民党の結成に参じて会計係りに。秩父で逮捕され懲役、恩赦により釈放後、群馬県で吏員を務めていたが病を得て故郷に帰り46歳で没。


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秩父事件を尋ねて歩いた道をフォトアルバムにまとめました・・・クリック→秩父へ・・・秩父事件の原点を追いかけて

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