比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

五月・・・ふたたびの安曇野散策・・・豪農「山口家」の佇まい

2019-08-04 | 古民家の風景
信州上田の・・・六文銭の写真帳

5月中旬、ふたたびの安曇野・・・安曇野市堀金烏川70・・・「山口家」・・・
山口家は江戸時代初期から岩原村庄屋、南安曇の村々の集合体である長尾組の大庄屋、一帯の松本藩藩林を管理する材木奉行を務める豪農でした。

堂々たる門構えの風景です。建造月日は・・・ワカリません。
現在も御当家在住ですが長野県名勝指定の庭園と庭園を眺める書院は解放(有料)。

本棟造りの主屋・・・棟の上に雀脅しが見えます。
説明板には主屋は元禄年間(1700年前後)と記されていますが改築、増築を重ねているように見えます。

石垣、塀に囲まれ、屋敷の中に数100年の杉の木が。

今回は外から見るだけ・・・名勝の庭園を書院の畳の上でゴロンと寛いで眺めるだけで・・・ユタカな気分に浸れるそうです。
※撮影日は5月17日。
☆山口家出身の日本画家山口蒼輪(1913~1955年)・・・昭和の大戦後すぐに早逝。画家として花開くときがあの戦中であったため作品はほとんど残っていません。院展に4回入選、同じころ院展に入選した画家に片岡球子がいる。
☆岩原村・・・江戸時代の村、1873年近郷4ヶ村が合併し烏川村に、1955年三田村と合併し堀金村に、2005年安曇野市に。


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松本平・・・筑摩山地西麓の・・・本棟造りの古民家・・・馬場家住宅を訪ねた

2019-07-11 | 古民家の風景
信州上田の・・・六文銭の写真帳

春四月・・・松本平の西・・・松本市内山の・・・国の重要文化財・・・古民家「馬場家住宅」を尋ねました。
馬場家」・・・1582年戦国時代の終り、甲斐の武田家の滅亡、その家臣の馬場家の縁者である馬場氏が帰農してこの地に居を構え開発したという。
現在見られる住宅は江戸期の終りに建てられたもの。1845年文庫蔵、1851年主屋、1859年表門.

豪壮な表門、左右に長屋が。

本棟造りと呼ばれる主屋。切妻妻入り玄関、正面右が賓客用の玄関の式台、左に潜り戸付き大戸。間口9間、奥行き7間。
多雪地帯ではないので屋根は緩傾斜、寒冷のため当時の瓦では割れるので板葺。

屋根の妻、破風のあわせのところに「雀踊り」(「雀脅し」「烏脅し」ともいう)という装飾が。屋根裏に2階がある。

大戸の中は裏戸まで通し土間になっていて、片側は3×2、4×2の6~8部屋、逆側は作業場、作男部屋、厩、ダイドコ・・・など。

文庫蔵・・・現在は展示室に。

左右の長屋は作業小屋、蚕室、作男部屋などに。
※撮影日は4月18日。
☆江戸後期からの建築様式、賓客玄関の式台があり上層階級の百姓住宅であった。松本平、安曇野、塩尻あたりから、伊那地方、木曾地方に見られ東信、北信、他県では見られない。
☆こうした古民家はいまは国の重要文化財になっているところが多く公開されていて、いちどは尋ねてみたいところです。
☆正面から見るとスイスの山小屋風住宅シャレ―に似ていてオシャレなのか、今もこのような住宅を建てる人もいるとか。


※コメント欄open。

信州大町市美麻の山中・・・1698年建築の古民家「中村家」を見る

2018-06-26 | 古民家の風景
信州上田の・・・六文銭の写真帳

長野市から大町市に通じる県路31号線(大町街道)、とちゅう信号のある交差点で直進する道路が白馬村に通じる県道33号線(オリンピック道路)。
青具という三叉路の交叉点です。その交叉点に大きな古民家があります。

国の重要文化財「中村家」です。江戸時代は青具村、明治時代に美麻村、平成の合併で大町市美麻
このへんはむかしからつい近年まで麻の産出地でした。奈良の正倉院にも信濃上布の献上品があるそうです。



※撮影は2017年6月29日。
主屋・・・間口14間、奥行き6間、建坪84坪(中村家の年代記によれば1698年建造、記録に残る建築年代では長野県最古)、土蔵24坪(二階建て、1780年建造)の堂々たる百姓屋です。
江戸時代の初期、上方より帰農した当主は代々庄屋などの村役人を勤め、12石5斗の本百姓だったそうです。現大町市所有。

冬の信濃路・・・東御市和(かのう)・・・江戸元禄期の農家・・・春原家(すのはらけ)住宅を尋ねる

2018-02-05 | 古民家の風景
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、東御市和(かのお)、国指定重要文化財「春原家」(すのはらけ)を尋ねました。
東御市和は明治の町村合併で周辺6ヶ村が集まって和村(かのうむら)に。村名は「和を以て尊しとする」から? 江戸時代は旗本松平家の5500石祢津領。1956年東部町に、2004年東御市に。上信越高速道東部・湯の丸ICの近く、標高約650m、浅間・烏帽子岳火山群の裾野の付け根。
寄棟茅葺、正面10.5間、奥行4.5間(47.25坪=約154㎡)、南向きに建つ。建造年は不明でしたが1979~1980年の解体修復で建築様式から江戸元禄年間(1700年前後)と推定。
正面外側から見ると、縁側、雨戸が無く、いきなり外壁、左側に大戸、中央に戸。小窓が見えます。開口部が少なく外気を遮断する、冬季寒く、夏季に暑い信州東部の気候に対処しているようです。屋根上の小屋根(気抜き)は明治期に養蚕のためつけられたものと思います。寡雨地帯のためか外壁に腰板が張られていません。
間取りは説明板にあればわかりやすいのですが・・・土間、ダイドコ、厩が6割。4割が居室、土間に沿って茶の間、北側にネドコ。キタノマ、南側にザシキ、オヘヤ。

堂々たる農家住宅です。


※撮影日は1月12日。
春原家(すのはらけ)・・・江戸時代初期に名字を許されたという古い家。春原のは「(はり)」で開墾された原野のこと。「すのはら」と読むことを初めて知りました。「すのはら」の「」は古日本語で「」のことだそうです。「の」は助詞、で春原の読み方を変えたもの。

一月の東御市を尋ねる散策はこれで終了。

※コメント欄開いています。

冬の信濃路・・・東御市滋野の・・・江戸時代の相撲界のレジェンド・・・「雷電」の生家を尋ねる

2018-02-02 | 古民家の風景
信州上田の・・・六文銭の写真帳

1月12日、江戸時代、大相撲史上不世出の名大関「雷電為右衛門」のふるさと東御市滋野乙の「雷電生家」を尋ねました。
国道18号線牧家交差点から北に上る、県道74号線(浅間サンライン)別府交叉点から南に下る。

雷電為右衛門生家」東御市文化財史跡。1798年、雷電32歳のとき、50両を投じて実家を改築。
1984年老朽化のため復元。復元費2500万円(内600万円は当時の東部町、残りは寄付金)、完成後に東部町に寄付。
間口8間半、奥行4間、二階建て、小屋根がついいますが明治時代に入って養蚕のためつけたものと思われます。


典型的な農家の造りですが、通し土間に土俵が、2階に桟敷席があります・・・江戸時代に作られたのか?復元時に作られたものか?
※撮影日は1月12日。
雷電為右衛門(1767~1825年)江戸時代の大相撲力士。信濃国小県郡大石村字金子(現東御市滋野乙)の百姓関家の長男として生れる。17歳のとき江戸へ、21歳で関取に、197㎝、169kg、在籍21年、35場所、大関27場所、254勝10敗2分14預かり、1年2場所10日興業の時代に抜群の戦績、現役生命の長さ、横綱にならなかった力士の謎、「相撲界のレジェンド」です。

※コメント欄開いています。

五月の北安曇野・・・奥信濃のミステリアス街道・・・善鬼の伝説・・・青鬼(あおに)村

2017-06-20 | 古民家の風景
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・

5月28日、北安曇野・・・白馬山麓・・・白馬村北城(はくばむらほくじょう)・・・青鬼(あおに)。
標高680mの白馬盆地の底、姫川の畔から標高760m。青鬼沢の右岸の小さな河岸段丘の上の小さな集落。
そのむかし白馬山麓から鬼無里村を経て戸隠神社、善光寺様へ至る参詣道の途上の村でした。
       ※サムネイルの画像をクリックするとズームアップ、さらにクリックすると画面イッパイにズームアップ。

善鬼の伝説・・・奥信濃の青鬼(あおに)村(現白馬村)。
国の重要伝統的建造物保存地区に指定された14棟の古民家群・・・茅葺(鉄板被覆)、寄棟平入、平側兜造り。

集落の中央に一基だけ残されている・・・ガッタリ・・・水力を利用した猪オドシの原理・・・むかしの脱穀機です。

お善鬼の館」・・・1908年建造。2005年修復され地域の集会所に。この地を訪ねる人に解放され休憩所、資料展示され見学もできます。

茅葺、寄棟、平入、二階建て、兜造り。山を背にして全戸が南向き。江戸末期から明治初期の建造が多いそうです。
二階建て、平側を兜の正面のように切ったのは採光、通風を考慮。養蚕のためと思われます。
兜造りは幕末から明治初期にかけて急激に養蚕が発展した山梨、群馬、長野の古民家で見られます。
※撮影は5月28日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。

善鬼伝説・・・むかし鬼無里村の山奥に鬼のような大男がいて近隣の村々で悪事を働いていました。村びとが捉えて青鬼村の岩戸山の中腹にある底なし穴に閉じ込めたところ、抜け出した大男は悔い改め善行を重ねるようになったとか。村の北の山の中腹に「お善鬼様」を祭神とする青鬼神社があります。
青鬼の地名由来・・・ミステリアスな地名です。善鬼伝説と関係あるか? 村を流れる青鬼沢からとかいう説もあります。それでは「あおに」とは何か?「アボ」「アズ」「アゾ」・・・崩壊地を表す古日本語という説があります(キ・・・接尾語)。地形から考えてナルホド。そこから「青木」になり善鬼伝説と合わせて「青鬼」になった?想像です。
青鬼堂遺跡・・・縄文時代の遺跡・・・遺跡があることから判るように古い古い村です。
アクセス・・・大糸線白馬駅からタクシーで20分、信濃森上駅から徒歩1時間。



夏の南信州・・・築150年の本棟造りの古民家で・・・ひと休み

2016-09-27 | 古民家の風景
2016年7月6日、南信州・・・伊那谷の最南端の天龍村から、むかしの上久堅村(今は飯田市)の山の中でブルーベリー農園を営む旧友に逢う。友だちの案内で山を下りて下久堅小林のカフェに。カフェといっても敷地300坪以上か、建坪70坪以上の堂々たる古民家です。玄関前で記念写真をパチリ。
カフェ「九如亭」・・・築150年だそうです。明治維新の前後でしょうか。堂々たる本棟造りです。
本棟造りという松本、塩尻から南信州にかけて見られる古い伝統建築様式の家です。
間口8間、奥行き8間の正方形が標準(奥行きが9間とか10間とかの家もあるようです)。切妻屋根の妻側を玄関として(妻入り)、高い屋根が緩傾斜で1階の軒まで、正面の2階に見えるのは屋根裏になります。正面の右側か左側に大戸、潜り戸、玄関を入ると厩、作業場、通し土間が背戸に通じているというの一般的構造。玄関のほかにこの家のように式台という武家クラスの人が出入りする上り口がある家もあります。


正面(ファサード)です・・・破風の寄せられた屋根の頂上部には雀脅し、懸魚(げぎょ)という飾りがついているのが本棟造りですが・・・
雀脅しはリノベーションの時に鬼瓦になったようです。

最近仁なってリノベーション(修復と同時にさらに進化させて改装)したようです。

玄関横の番猫です。

赤石山地の水を使ったコ―ヒーを飲み、友だちとよもやま話・・・伊那の旅を終えて帰路につきます。

Cafeの名前は・・・「九如亭」。

※九如亭のホームページクリック
※九如亭の写真紹介クリック


武州・小川町をブラブラ・・・享保年間につくられた古民家の吉田家を尋ねる

2016-05-01 | 古民家の風景
GW・・・遠出は渋滞に巻き込まれるだけ。久しぶりに熊谷市万吉(まげち)のハム工場の工場直売に。
帰りにブラブラ・・・国道140号線を寄居方面に。道の駅「かわもと」JA野菜直売所に寄りキャベツ、レタスなど購入。
秩父のほうに物見遊山しようと思っていたが道路渋滞で帰ることにする。どこかでランチしよう。
寄居から国道254号線を小川町方面へ。
JR八高線竹沢駅近くで古民家吉田家住宅を見ていくことに。

埼玉県比企郡小川町勝呂(すぐろ)・・・道標に沿って進むと国指定の重要文化財建造物「吉田家」。ハイキング姿の人が多い。このあたり比企丘陵の低中山の山歩きのメッカです。

個人住宅です。入館料は「寄付箱」に気持ちだけ。

玄関を入ると通し土間。広間と奥は二間・・・三間広間型。奥の間の上に二階座敷あり。土間はオ勝手、紙漉きの作業場、ウマヤ。

茅葺、入母屋、二階部分あり。

板敷広間の囲炉裏。ダイドコロ、居間。

曲がった梁・・・日本の大工の匠の技。

前座敷十二畳、奥座敷十畳。

建物の規模は桁行(間口)21.5m、梁間(奥行)10.5m、10間半×5間半ぐらいか。

※古民家として小さくはないが豪農という感じではない。
1984年調査のとき柱に貼り付けてあった棟札が発見され「享保六丑歳霜月吉祥日・・・」とあり祈祷札であることがわかりました。
1721年建造・・・実年代のわかる県内最古の古民家だそうです。1989年国の重要文化財建造物に指定。
1996年~1999年、国庫補助事業として全面解体修理工事。

このあたりを通りかかったらぜひ寄ってみてください。
1721年・・・享保6年・・・江戸時代中期八代将軍徳川吉宗の時代です(享保の改革で思い出しました)。

山深い静かなところです。庭からウグイスの声が聞こえてきました。
土間にはお茶を飲む場所もあります。座敷に上がったり二階に上がるのも自由です。
こんなところでのんびり座ってしばし思考を停止すれば、先人の歩いた道が見えてきます。



彩の国・・・さきたま古墳公園を散歩・・・江戸時代の農家建築を見た

2015-03-06 | 古民家の風景
古くは「さきたま」と呼ばれた埼玉県、その「さきたま」の発祥の地がここ埼玉村(現行田市)。
古代の古墳時代には栄えた・・・そうだ。
いまはその面影を伝える9基の大型古墳が・・・今日はこの公園の散歩です。

公園の一隅に江戸時代の古民家が・・・幸手市千塚から移築された「旧遠藤家」。
江戸時代末期の建築、茅葺、寄棟、間口11間、奥行き6間、222㎡(67坪)。
玄関が二つあります。通し土間の奥がダイドコ、下座敷があります。小屋根がついていますがこれは養蚕のためあとから抜いたものか。

玄関を入って、上がり端から、チョウバ、ナカノマ、デイ(表座敷)。
農家のようですがチョウバがあるということは、商人も兼ねていたのでしょうか。

イタノマ、チャノマ・・・階段が見えます。平屋ですが2階があったようです。隠し部屋(ロフト)?

土間からダイドコ、ミソベヤ。曲がった木材を使った梁、日本建築の極みです。

間取りです。6LDK、土間は作業場、厩は別建屋。堂々たる豪農の館です。

この公園は大きくて歩き回るとけっこう疲れます。
※撮影日2月27日、カメラは Panasoni LUMIX DMC TZ-40。

世界文化遺産・・・富岡製糸場と絹産業遺産群構成資産・・・田島弥平旧宅を尋ねる

2015-02-25 | 古民家の風景
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。

深谷市岡のナベヅル越冬地、そこからほど近い血洗島の近代資本主義のプロモーター「渋沢栄一」の生家、精神形成に大きな影響を与えたといわれる従兄妹の「尾高惇忠」の生家、栄一が設立にかかわった「日本煉瓦」の建物・・・を見て歩きました。
そうだ・・・昨年6月に世界遺産に登録された近くにある群馬県伊勢崎市境島村の「田島弥平旧宅」を紹介しよう。血洗島から5分とかかりません。
境島村・・・1889年島村、1955年に堺町と合併、2005年伊勢崎市境島村。群馬県でありながら利根川右岸の飛び地。深谷市血洗島と地続きです。

2015年6月ユネスコ世界遺産登録「富岡製紙場と絹産業遺産群」構成資産のひとつ「田島弥平旧宅です。

東門・・・薬医門です。門の左側に1894年建築の桑場(二階建て納屋)。右側に田島弥平が隠居所とした別荘が。
屋号・・・「遠山近水屯舎」、「桑拓園」。

門をくぐると敷地総面積4000㎡の田島弥平旧宅。2012年国指定史跡。現在も子孫の方がお住まいです。

1863年建造の母屋、2階の屋根の上に長さ25m、高さ2m、幅1.8mのヤグラ(建築用語で越屋根、小屋根、煙出しともいう)がついてます。
養蚕のための温度調節設備(気抜き)として考えられたものです。気抜きの窓は現在はパネルで覆われていますが引き戸になっていました。

間口24m、奥行9m、二階建て、瓦葺き、県内最大の養蚕家屋です。この家屋の様式は全国の養蚕農家に普及していきます。

母屋の2階から新蚕室に繋がる渡り廊下。新蚕室は1875年前後に建築され、1952年に解体されています。

井戸・・・1863年の記録にはこの井戸はすでにあった。上屋は1914年。洪水対策として嵩上げした石垣の上に設置。

正門の左、田島弥平が隠居所にしたという別荘跡だそうです。1階は弥平没後は馬小屋、物置にされました。
別荘の左に、1856年香月楼と呼ばれた2階建て、瓦葺き、総ヤグラの実験的蚕室(間口22.5m、奥行き5.6m)、1958年解体。

利根川です。洪水のたびに村は利根川に二分、三分されました。村の地籍が両岸に分かれているのはそのためです。
江戸中期の1783年の天明の浅間山大噴火による河道の変遷から「島村の渡し」が運行されて、現在も(市道として)運営されています。

ここを訪れたのは世界遺産に登録されたばかりの1ヶ月後の昨年の7月15日でした。
もういちど尋ねて見たい。

富岡製紙場と絹産業遺産群構成資産・・・富岡製糸場荒船風穴蚕種貯蔵設備(下仁田町)、清涼育の研究・指導・普及田島弥平旧宅(島村)、清温育の研究・指導・普及高山社跡(藤岡市)。

田島弥平(1822~1898年)上野国島村の生れ。島村の地は利根川の洪水の地、19世紀初期ごろより。荒れた河川敷も桑畑にして養蚕が盛んに。弥平はその中で従来の自然育を基本に清涼育を体系的に研究、東北にむかしからある温暖育も研究、1856年二階建ての納屋を新築して換気ヤグラを工夫、1863年総二階、ヤグラ小屋根つきの母屋を新築。換気により温度管理を容易にして安定した生産を可能にする近代的養蚕飼育法を確立、「養蚕新論」、「続養蚕新論」を著し、全国から伝習生を集め養蚕の普及に貢献した。1863年蚕種輸出解禁、1872年島村勧業会社設立(現在の農協のようなもの)副社長。蚕種の直輸出を計画、1879年自身もアメリカ、イギリス、フランス経由でイタリアへ、55000枚の蚕種紙を持参し30000枚を売ったという。この事業は結局順調に進まず離脱する会員が出て1885年会社は解散。島村の養蚕はしだいに蚕種から繭生産に変換していった。
幕末から明治にかけての絹生産に全精力を傾けた篤農家です。