比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

関門海峡・・・みもすそ川公園・・・平家終焉の古戦場・・・壇之浦

2016-07-31 | 道をゆく 山陽・山陰
彩風人・・・2016年5月、北九州の旅の写真紀行です。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)

関門海峡を渡って下関市みもすそ川町・・・みもすそ川公園です。バス停は「御裳川」・・・読めないですね。ちなみに伊勢神宮の神域を流れる五十鈴川の異名を御裳濯川をいうが関係は・・・よくワカラナイ。
平安時代の末期、平清盛の天下が崩れて、平家は瀬戸内海を西へ敗走、それを追う源氏の軍勢・・・源平合戦の最後の戦場が・・・眼前の壇之浦です。

みもすそ川公園から眺めた関門海峡、早鞆ノ瀬戸、玄海灘から瀬戸内海への玄関口。
いちばん狭いところで海峡の幅700m。1日4回の潮の流れ、いちばん早いときで時速18㎞。
関門橋(関門自動車道)・・・1973年竣工、長さ1068m、最大支長712m、高さ141m。

眼の前は源平合戦(治承・寿永の乱)・・・最後の海戦(寿永4年-1185年)が行われた「壇之浦」・・・
平知盛・・・碇知盛・・・
知盛は平清盛の四男、平家の総大将、戦に敗れもはやこれまでと碇を体に巻きつけて入水(じゅすい)したと伝えられるが?・・・

源義経・・・義経の八艘跳び・・・
義経は源頼朝の異母弟、壇之浦の海戦で舟の上を次から次へと八艘、飛びまわったと伝えられるが?・・・
源平合戦の総大将源範頼(頼朝の弟)、稀代の戦略・戦術家義経・・・そのご次々に兄頼朝に抹殺されていきます。


江戸末期の1863年、64年、長州軍は米、英、仏、オランダの連合艦隊と一戦を交え叩きのめされました・・・攘夷戦争、馬関戦争
欧米列国の軍事力の違いを見せつけられた長州藩は「攘夷(夷人を攘う・・・排除する)」は政権転覆のタテマエにして、開国への道に進みます。
そのときの長州軍のカノン砲・・・戦利品としてフランス軍が徴収・・・ゆえに長州砲?・・・のレプリカ・・・屈辱・明治の夜明けのモニュメント。
※撮影日は2016年5月30日。カメラはCanon PowerShot G7X。

関門海峡・・・下関クラシック建築群を歩く

2016-07-29 | 道をゆく 山陽・山陰
彩風人・・・2016年5月、北九州の旅の写真紀行です。
関門海峡を渡って下関市・・・1875年開かれた国際港です。
1901年英国領事館が開設、1905年対外貿易商社秋田商会開業、大いに賑わった。
・・・彩風人の写真帳・・・
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国指定有形文化財旧英国領事館
1901年英国大使ア―ネスト・サトウの具申で英国が下関市赤間町に領事館を仮設。1905年下関市唐戸町に新領事館を建設。
1941年閉鎖。1954年下関市に移管。2014年市民館、市民ギャラリー、「カフェレストラン英国館」としてリニューアル・オープン。

国指定有形文化財南部町(なべちょう)郵便局
1900年赤間関郵便電信局(現下関東郵便局)として現在の地に建設。1975年下関東郵便局の移転に伴い、南部町郵便局に。、
現役の郵便局建造物として日本最古。2001年国の重文に指定され、カフェバー「多羅葉」が1Fの一部と中庭に。ライトアップ。

旧秋田商会・・・現下関観光情報センター
1915年建築、屋上に設けられた日本家屋と日本庭園は日本最古・・・だそうだ。秋田商会は1905年創立の総合商社、主に木材、海運業。
※撮影日は2016年5月30日。カメラはCanon PowerShot G7X。


※関門海峡 門司・下関の旅のブログはクリック

中・四国の旅・・・安芸の宮島・・・厳島神社

2015-04-22 | 道をゆく 山陽・山陰
わたしが旅したのではありません。彩風人の中・四国紀行です。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
3月23日、安芸の宮島・・・厳島神社観光。
ユネスコ登録(1996年)世界文化遺産。国宝、国指定有形文化財、国登録有形文化財、国指定特別史跡などなど・・・創建585年、平安時代末期の1240年代、平清盛によって現在の規模に。神体は弥山(535m)。日本三景の一つ、大鳥居は日本三大鳥居の一つ。





※撮影は3月23日、カメラはCanon PowerShot G12。


中・四国の旅・・・山の上から・・・尾道水道を見る

2015-04-16 | 道をゆく 山陽・山陰
わたしが旅したのではありません。彩風人の中・四国紀行です。
・・・彩風人の写真帳・・・
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海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海にさしかかると・・・・・・
林芙美子の小説「放浪記」(新潮文庫1979年刊)の中の第二部の一節より。

3月21日、旅人は愛媛県今治市からしまなみ海道を渡って尾道市に。標高136mの千光寺公園展望台の上から尾道市街地と対岸の向島、間の海域は尾道水道。

千光寺公園から・・・左手に尾道大橋、新尾道大橋(しまなみ海道)、尾道水道を挟んで対岸は向島。
橋の下あたりに日立造船向島工業。

尾道水道・・・手前は尾道市街地、山陽本線が走っている。対岸の左・・・JFE商事造船加工、右は向島ドック。
※撮影は3月21日、カメラはCanon PowerShot G12。



中・四国の旅・・・古い街道・城下の街・・・備中高梁・・・をゆく

2015-04-03 | 道をゆく 山陽・山陰
わたしが旅したのではありません。彩風人の中・四国紀行です。
・・・彩風人の写真帳・・・
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旅人は備中高梁にやってきました。人口33000人の小都市、静かな街です。
高梁市・・・高梁川、成羽川の合流点は標高50m、標高300m~500mの山々に囲まれた盆地。岡山県倉敷駅から鳥取県伯耆大山駅に到る伯備線、国道180号線(新見往来)、国道313号線(備中往来)などが交差する交通の要衝、備中松山藩の城下町で生産物流通の中心地。

さて街中の散歩です。
旧高梁尋常高等小学校(1904年建築)・・・1972年まで現役、現高梁市郷土資料館
明治時代の大工の棟梁が作った西洋風木造建築の極致です。

紺屋川筋美観地区・・・約600mの市道は「日本の道100選」に選ばれています。

川の上に祠がある・・・水神様であろうか。

高梁基督教会堂(1889年建築)・・・岡山県指定史跡。紺屋川筋美観地域にある県最古の教会堂。
この地の女子教育の先駆者福西志計子も設立に関与し、新島襄も訪れたという。

備中松山城(高梁城)に行きます。
※撮影は3月19日、カメラはCanon PowerShot G12。

山陰・山陽を行・終章・・・海が見える・・・尾道

2009-08-24 | 道をゆく 山陽・山陰
さてさて・・・たった3泊の山陰・山陽の旅・・・今日で最後です。
朝、を出発、岩国の錦帯橋へ。岩国から広島、の街でへ。
なぜ・・・呉の街に?・・・かつての帝国海軍の軍港、戦艦大和を造った海軍工廠の街を一度見たかったのです。呉の街で食べた回転寿司は旨かった。

尾道にやってきました。尾道・・・なんで来たのだろう?
旅の最後、広島空港の搭乗時間の時間調整?家には夜に帰ればイイのだ
知らない街ではまず駅あたりに行きます。駅の向かいのフェリー乗り場近くの駐車場へ車を停めて街のブラブラ散策です。

駅のそば、商店街の入口あたりに尾道ゆかりの女流文学者林芙美子のブロンズ像が。


放浪記」(新潮文庫1979年刊)の中の第二部の一節。
(八月×日)
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海にさしかかると・・・・・・

林芙美子(1903~1951年)下関に生まれ各地を転々として小学5年生から市立尾道高女を卒業するまでの6年間を尾道で過ごした。上京してフリーターの生活を続けながら同棲を繰り返したりして奔放に逞しく生きて、やがて女流文学者になって行く。
放浪記」あらためて読みました。自伝とも虚構ともわからない取り留めない日記風の小説? 底辺で落ち込まないでアッケラカンで逞しく生きている女の物語?
冒頭の文章は、むかしの恋人(結婚の約束を破って郷里因島で就職、結婚)に会いに行くイントロ、どうやら金の無心までしたらしい?・・・脈絡、起承転結がなくて不可解?・・・こんな本が1930年(改造社刊)ベストセラーになりました。

尾道は坂の町。坂道のテッペンは千光寺公園、尾道水道を見下ろすビュースポット。ロープウエイもあります。時間がないのでパス。坂道の途中に志賀直哉が父親と不和になり数年を過ごしたという長屋があるようです。生活費はどうしたのでしょうね。もう作家として食えたのでしょうか。ちなみに志賀直哉の祖父は福島の相馬中村藩の武士、維新後は相馬家の家令(執事?)、政商古河市兵衛と組んで足尾銅山を開発(やり手だ)。相馬事件(主君筋の相馬氏の精神病による入院?監禁?)にかかわったとされる。父は総武鉄道(現JR総武線)、帝国生命などの取締役、明治財界の重鎮。

見上げると不可解な城。はて?尾道に藩があったのかな。
いまにも倒れそう。周りの景観にもアンマッチだっ!

1964年商工会で尾道に観光名所をと、弘前城?を模して鉄筋コンクリートの展望台を造ったらしい。歴史的にまったく意味のないもの。1990年代に閉鎖。今は廃墟らしい。

さて尾道港のあたり、尾道水道の向こうは向島、ドックが見えます。

尾道港の前のウォーターフロントビルの二階のコンコースみたいなところから尾道水道、遠くに西瀬戸有料道路(しまなみ海道)の新尾道大橋が見えます。この橋を渡ると向島、因島・・・四国の今治に。
連絡船乗り場の前の岸壁。自転車がいっぱい。島に通勤する人たちのものでしょうか。


さて山陰・山陽の旅・・・境大ハシからはじまって新尾道大ハシで終わりです。どちらも上をハシることはしませんでした。あんな高いところ怖いですね。

呉の街も尾道の街ももっとゆっくり散策してみたかったがタイムアップ 広島空港へ。広島空港は広島市になくてむしろ福山に近い三原市の海抜330mの山に中にあった。

3泊4日、レンタカーの旅、全部で900km弱。いまのレンタカーはNAVIつきですがNAVIはあまり好きではありません。何か器械に命令されているようですね。場所によって使い分けました。ナビを使わないようにするためには行く前に地図と睨めっこする必要があります。ネットにNAVITIMEというのがあります。これは登録しておくと便利です。最短距離の地図と距離と概算時間がでます。これで調べて地図に赤線を引きました。分かれ道の集落名などチェックします。旅に行く前の下調べ、これが楽しいのです。

知らない街を・・・歩いてみました・・・また、いつか行ってみたい

山陰・山陽を行く⑪・・萩・・・明治維新の英傑を生んだ町

2009-08-21 | 道をゆく 山陽・山陰
萩の街です。笠山(海抜112m)の上から見ています。
笠山は萩市の北東に位置する陸繋島、頂上に直径30m(深さ30m)の噴火口のある活火山(お休み中)。
萩の街は中国山地から流れ出る阿武川の分流、松本川と橋本川に挟まれた中の島にあります。


津和野から萩へ・・・中国山地のなだらかな峠をいくつか越え萩にやってきました。萩市郊外、松本川の支流の貝見川の傍に松下村塾があります。むかしの松本村の塾、看板は松下邨塾(そんじゅく)。納屋を改造したあばら屋、建て増しをしてるようだ。
松陰神社あたり⇒Yahoo地図

吉田松陰(寅次)(郎1830~1859年)長州萩藩26石の杉家次男、57石吉田家の養子。波乱万丈、儒学、兵学、洋学、蘭学を修め脱藩して東北ほか各地を見て歩き、政治学、経済学、歴史学、文学など多彩な知識を得る。好奇心の塊のような人だ。ペリー2度目の来航のおり密航を頼むがぺりー側が問題になるのを恐れてか拒否。入獄。許されて幽閉の身に。尊皇攘夷の思想的リーダー。
IF・・・密航・留学が成功していたら西欧思想・科学の啓蒙家になったであろう。
1855年叔父のやっていた松下村塾を引継ぎ開講。1858年日米通商条約に反対して老中暗殺計画を立てるが頓挫、伊井大老の安政の大獄によって1859年死罪。塾長であったのは3年間、弟子の身分を問わず純粋・情熱の人らしかったようで、幕末・維新の英傑が育った。

松陰神社、松下村塾を開いた杉家の邸内に松陰の遺物を納めた祠を建て後に伊藤博文らが神社として創建。東京世田谷の松陰神社は処刑された松陰の亡がらを高杉晋作らが毛利別邸の敷地に改葬したもの。

松陰神社の少し奥の伊藤博文の実家。
伊藤博文(1841~1909年)山口県熊毛郡束荷村(現光市)の農家の林家の長男。父が萩市の吉田松陰伊藤家(萩藩中間・・・足軽より下の位)に作男奉公し後に養子縁組。家屋は15坪くらいか。兼業農家士分(末端の下士)。利助といったが俊助、俊輔と勝手に改名していく。吉田松陰の弟子。文武とも並以下であったが天性の周旋家(まとめ役)と松陰に言われる。桂小五郎の従者のような立場で頭角を現して行く。
かつては千円札の顔であった人。この人についてはよく知らない。いま本を読んでいる。

萩市中央公園に駐車、菊屋横丁、木戸孝允、高杉晋作旧邸などのある小路を歩きます⇒yahoo地図

武家屋敷の並ぶ小路。袴を穿いて大小を腰に差したお侍が歩いていても違和感のない街だ。
御城下は二つの川に挟まれた中の島、萩城は海に面した突端。備後・安芸120万石の大大名から37万石の周防・長州の萩藩に減封された毛利家は1604年萩城を築いて1863年山口に藩庁を移すまで、この山陰の僻遠地で過ごした。

木戸孝允の実家の旧邸。             高杉晋作の実家旧邸。
 
木戸孝允(1833~1877年)藩医和田家の長男、150石桂家の養子となり士分を得る。「逃げの小五郎」といわれ幕末動乱の京都で生き延び、薩長同盟の長州代表、維新後は病もあったがパッとせずに44歳で没。
高杉晋作(1839~1867年)200石の上士。松下村塾の秀才。身分制に頼らない奇兵隊という軍隊組織を作る。優れた人材であったらしいが肺結核のため28歳で没。

長州萩の武家屋敷街、いまなら高級官僚住宅団地であろうか。維新の英傑を生んだ街。それにしても維新後には非凡の天才は残らず消えた。維新の元勲とは動乱の時代に生き残った人。もし坂本竜馬、高杉晋作、村田蔵六が生きていたら・・・。

ここ萩で語られなかった井上聞太こと井上馨について語ってみたい。
井上馨・・・伊藤博文の盟友、周防湯田村(現山口市)100石取り井上家の次男、文武いずれもパッとしなかったらしいが殿の小姓役として頭角を現す。尊皇攘夷派であったが1863年イギリスの密航のおり上海で外国というものを見て早くも開国派に変わったというから判断力は確かで早い。
維新後は外務卿、大蔵相、農商務相、内務省など歴任。
海音寺潮五郎著「悪人列伝四」(文春文庫1976年刊)は井上の「尾去沢銅山事件」「藤田組偽札事件」などを詳しく書いています。政商と組んだ蓄財の腕は抜群。西郷隆盛は「三井の番頭さん」と井上のことをいってたらしい。

政商・・・最近では規制改革会議議長をつとめ郵政民営化の議論を行い、その議長の会社が郵政民営化のために郵政事業の一つ、かんぽの宿を一括譲渡を受けるという自作自演劇がありました。

山陰・山陽を行く(蛇足)・・旅の思い出に・・・萩焼

2009-08-21 | 道をゆく 山陽・山陰
旅に出ると・・・ささやかに何か一つ思い出(スーヴェニール)に。
そこにしかないもの。小さなもの。高価なものはダメ

萩焼・・・kg・500円・・・


萩焼・・・一楽二萩三唐津といわれる茶器のふるさと。
1604年慶長の役ののちに朝鮮人の陶工李兄弟によって窯が開かれたといわれる・・・それ以上の説明は私にはできない。その土地の陶土と釉薬によって現れる独特の「貫入」といわれるヒビ割れが特徴のようです。

私が買ったものはたんなる生活雑器です。それが好きです。

山陰・山陽を行く⑩・・・津和野から萩へ

2009-08-14 | 道をゆく 山陽・山陰
津和野・・・駅のターンテーブルでSL571「やまぐち号」を見て、安野光雅美術館でゆったりした気分になり、本町、殿町の町並みでタイムスリップしたような気分に、さて萩に向けて出発です。
その前に津和野の観光スポットを2つ。

鯉のいる町を歩いていると目の前に教会が。
津和野カトリック教会・・・1931年ドイツ人ヴェケレー設計のものとか。礼拝堂が畳敷きです。天草の崎津教会がそうでした。
津和野とキリスト教の関わりの歴史。
1867年浦上四番崩れ(隠れキリシタン告発、逮捕)、この事件は1864年に日仏修好条約により長崎市に大浦天主堂ができ、そこに長崎郊外の浦上村の隠れキリシタンが訪れたことからはじまります。「長崎の信徒発見」このニュースは世界に発信されます。明治の初頭、まだキリスト教はご禁制。1867年68人逮捕、1968年流罪決定、萩、津和野、福山、薩摩など各藩にお預けということになります。
津和野藩では乙女峠に収容所を設け153人収容(うち死者36人、改宗者59人)。流刑は改宗を迫るものですから改宗しないものにたいして厳しい拷問があったようです。
1973年キリスト教ご禁制解除、そのとき全国の流刑者は3400人余、うち662人が死亡。開放された信者は長崎に帰り教会をつくります。原爆爆心地に近い「長崎の鐘」の浦上天主堂です。
津和野教会はこの事件と直接は関係ないでしょうね。津和野教会では毎年5月3日「乙女峠まつり」で殉難者の霊を慰める行事を行っています。

さて津和野の街を離れて萩方面に・・・途中、製紙会館があったので寄ってみた。製紙屋さんで紙漉きの実演を見て楮、三椏、がんぴの話しを聞く。日本の三大和紙産地は「美濃紙、埼玉小川細川紙、そして石州紙」だそうです。石州紙は津和野藩の専売、大事な財源でした。

製紙屋さんの横、森鴎外旧邸。写真だけ撮りました。

森林太郎(1862~1922年)津和野藩御典医の長男。オランダ語、漢籍に親しみ神童と呼ばれる。1872年廃藩で10歳のとき一家上京。11歳で第一医学校(現東大医学部)入学。19歳本科卒業、順位が8番であったため研究者の道を閉ざされ、陸軍病院勤務。20歳ドイツに官費留学。26歳帰国。のちに陸軍軍医総監(中将相当)、文人としても夏目漱石と並ぶ明治の文豪です。医者としては脚気伝染病説?などあります。作家としては数々の名作を残しているようですが、わたしは「雁」「山椒太夫」ぐらいしか読んでいません。旧宅はいまは町の財産。ほかに大きな記念館がありますが読んでいない作家ですからパス。

さていよいよ萩に向かいます。約50km、1時間チョッとか?いくつも山を越えて橋を渡り、この50kmは眠くて長かった。萩で昼飯というのが楽しみでゆっくり車を走らせます。中国山地は老年期の山というかなだらかでアップダウンもきつくないのでイイですね。道はすべて県道?地図のほうが好きなんですが隣の人間ナビがアテにならないので機械のナビ任せ。

ようやく萩の町に入って武家屋敷の通りに入る前のお寿司屋さんでサービスランチ。安くて美味かった。

萩の町、武家屋敷、菊屋横丁。
 
ここは上士(高級官僚)の公営住宅街のようです。土地はお上からの貸与物件、ウワモノはどうだったのでしょうね。

ブラブラ歩いていますがその話しは次回に。

山陰・山陽を行く⑨・・・津和野

2009-08-12 | 道をゆく 山陽・山陰
山陰・山陽の旅は続きます。
広島を早朝、6時前に出発。ホテルはそういう点で楽です。朝食は前夜に買っておいたパンと牛乳、お湯を沸かしてインスタントコーヒー。

ナビを萩に設定。廿日市ICから高速山陽道、ナビの指示なしに防府東ICで一般道におりる。ここから山口市方面に行く道があるはず。ところがナビの指示は国道2号線に沿って西に、結局は小郡まわりで山口市に、道路事情であろうか。山口市付近で時間が早いので津和野に行くことに。知らない土地は車の運行時間が読めません。

津和野(人口8600人)。なんか・・・紅白の石畳だなんて・・・・・キレイすぎる 
石州津和野藩43000石、元城下町。石見国益田から周防国防府にいたる流通の道の宿でもあったのでしょう。お殿様は1601年坂崎出羽守直盛、大阪城千姫救出の立役者と言われますが? そのご千姫奪取計画露見で自刃? 謎が多いですね? 仕組まれたようにも思えます。1618年亀井家が入府して明治まで。亀井久興衆議院議員、亜紀子参議院議員は津和野藩主の直系です。


鯉のいる街・・・飛騨古川、肥前島原、野州栃木・・・
なんでもない風景ですが水がキレイということです。
ちなみにわたしは信州生まれなので、単純にオイシソウ・・・というイメージです。
鉄道ファンにはたまらない風景でしょうね。
JR西日本山口線津和野駅・・・キハ40系のディーゼル駆動車。
横にSL「やまぐち号」が牽引する客車が待機しています。

キハ40系。オレンジはJR西日本広島支社のカラーらしい。

SL「やまぐち号」C571・・・ターンテーブルにいました。
ホンとは煙を吐いて走ってるのを撮りたかった

全国のSL運行地域は11。「やまぐち号」は1979年運行開始、今年で30周年。

JR西日本山口線・・・山陽新幹線新山口駅・山陽本線新山口駅(旧小郡駅)と山陰本線益田間、全線93㎞。全線非電化。運行は多い区間で1時間3~4本、少ない区間では1~3時間に1本。SLは土・日・休日が主。冬季は休止。ちなみに津和野駅の1日の乗客数平均は300人強。

さて、はるばる山と川に囲まれた美しい小さな街、津和野に来たのはなんだったのだろう。知らない国に旅するトキメキ・・・そしてこの田舎町は夢みたいな絵をかく安野光雅さんのふるさとでした。
安野光雅美術館(津和野町立)。
石州瓦の赤い屋根とナマコ壁の白がイイ。9時少し過ぎ、まだ掃除のおばさんなんかいていろいろお話してくれました。まるで安野さんとお友達みたい。
安野さんは絵本、イラスト、挿絵の人ですから、出版物を通じて今までずいぶんと見てますが原画に触れるのは非常に気持ちイイですね。
安野光雅の世界」です。

美術館内中庭。
津和野の町は⇒yahoo地図