比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

秩父太田部・・・消えた集落・楢尾・・・映画「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道」・・・全国で上映中

2020-06-18 | 道をゆく 秩父路
秩父の山中・・・太田部・・・楢尾・・・
18年の歳月をかけて撮ったNHKテレビドキュメンタリー「ムツばあさんの花のあとさき」が映画化されました。
公開は5月・・・の予定でしたが・・・コロナ禍で順延され6月になって公開されています。

クリック映画『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』・・・上映館上映日程の公式サイト。
クリック公式サイト「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道・・予告編・・・をぜひ見てください。ムツばあちゃんの可愛い声が聞こえてきます。


語り 長谷川勝彦、監督:撮影 百﨑満晴、プロデューサー 伊藤 純 制作:著作ーNHK 制作ーNHKエンタプライズ、配給 新日本映画社

まだ見ていませんが・・・美しい日本を愛するものとして・・・埼玉や秩父を愛するものとして・・・ぜひ見ていただきたい映画です。


★2019年7月18日のblog・・・いま、この古いナンバーのわたくしのブログがブレークしています。4月785PV、5月813PV、6月は18日現在1016PV.、映画の上映のためと思います。以下はコピーしたこのブログ、一読していただければ嬉しく思います。

2019年7月18日   秩父山中 太田部楢尾・・・「山の民 ムツばあさん」のものがたり

7月15日、NHKテレビPM1:20~3:50放映・・・ドキュメント「秩父山中 花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~」を見てました。録画もしました。

 
秩父の山中奥深く荒川流域から分水嶺を越えて利根川流域に入ったかつての秩父郡太田部村(現秩父市吉田太田部)の楢尾集落で生きて土に還っていった小林ムツさんのありし日を2002年からテレビカメラで追ったドキュメント・・・

2002年8月「ムツ婆さんの花物語 秩父山中・段々畑の日々
2007年12月「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんのいない秋
2009年春 「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんのいない春
そのの3部作の集大成が・・・
2019年5月「秩父山中 花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~」です。

テレビレンズに写るムツばあさん・・・可愛い・・・

過疎化していく山奥の集落の老夫婦、年を重ね山の段畑も手入れができなくなっていきます。残された時間・・・花の咲く木、実の生る木、紅葉のキレイな木を段々畑に植えていきます。
これまでお世話になった畑が荒れ果てていくのは申しわけない。せめて花の咲く木を植えて山にお返ししたい
自分たちはイノシシの食べる実のなる木を切って炭を焼いたり畑にしたりして、その跡地を実の生らない杉の木を植えたりして山の動物の食料を奪ってきた。今度は山を自然に返すときだ

2002年放送が開始される前の10年間で10000本の木の苗を植えてきたそうです。
参考
★番組スタッフの百崎満晴さん(現NHK仙台放送局)は・・・カメラマンからの提案企画ではじまったミニ番組、カメラマン&ディレクター&インタビュアーの一人三役+音声さん、2002年から2019年までカメラマン人生の大半を費やすことになったと語っています。
ブログ メディガムツばあさんと秩父山中の場所はどこ?BSプレミュアムドキュメントまとめ

2010年訪れた秩父山中の風景です。

秩父市吉田石間(いさま)沢戸集落(標高約500m)・・・この集落の上の半納集落からの眺望です。
急峻な山肌に集落が・・・さらに登って行くと太田部峠に。

太田部峠(標高約750m)から東に向かうと城峰山と太田部集落との分岐点。

秩父市吉田太田部久保田集落に今は就学児童がいなくなったため廃校になった旧太田部小学校が(標高450m)。


いまから100年前に起こった農民たちの自由民権運動「秩父困民党事件」の跡を追って2010年秩父巡礼の旅、秩父吉田の秩父事件蜂起の原点「椋神社」を尋ね、そして下吉田石間、太田部へ。ムツばあさんが生きてそして土に還っていった村です。楢尾集落のムツばあさんの家はすでに主なく、旧太田部小学校あたりを逍遥。
旧太田部小学校の庭で会った秩父大滝村から来たという熟年夫婦、ご主人から秩父の山の民の生活についていろいろお話しを聞きました。
山の民は食べるものは麦、蕎麦、稗、粟などの雑穀類、米は買わなければ食べられません。畑は家の周りにはほとんど無く傾斜の緩い山の中腹より上の稜線近く。そこに桑や雑穀を植えていたそうです。明治以来税金は金納になりました。雑穀の収穫は食べるのに精一杯ですから現金収入が必要、養蚕、生糸、薪炭、楮から紙漉き、蒟蒻、干し柿、林業、出稼ぎなどが命の綱でした。そのどれもがいまの経済下では通用しません。むかしの桑畑もいまは杉林に代わったといいます。
7つの集落からなる太田部。世帯数、人口を調べましたがネットではわかりませんでした。郵便物は吉田から、医療は鬼石方面だそうです。

秩父市吉田太田部相見集落・・・江戸時代前の慶長年代から続いた旧庄屋さんの家。いまはコミュニティーセンターに。

太田部集落から群馬県との県境の神流川に架かる太田部橋を渡ると群馬県鬼石町(藤岡市)です。神流川を堰きとめた下久保ダム湖(神流湖)は渇水期でしょうか。ほとんど水がありません。堆砂も進行してるようです。右側の谷を分け入ったあたりがムツばあさんが生きた太田部楢尾です。
※撮影日は2010年10月。
秩父路や 天につらなる 蕎麦の花    加藤楸邨

過疎、限界集落・・・行政がいいだしたのかマスコミがいいだしたのか知りませんが現実はそうであってもこの言葉は嫌いです。使わないようにしています。
山の民」というほうがまだ優しいですね。太古のむかしは山幸彦といったのです。
日本の森林を育て水源を涵養し国土を守ってきた「山の民」はどこに行くのでしょう。

  
太田部楢尾のムツばあさん・・・おだやかないい顔していました。日本中の山の中、農村、海辺にムツばあさんのような人がいたでしょうね。わたしのおふくろも家内の母もおなじように田舎の片隅で野菜を作ったり花を植えたりして、やがて土に還っていきました。

★映画化のことを教えてくれた☞BROOKさんのblogです
★「縄文人」さんの映画紹介blog☞後を継ぐものは居ない、畑に花を植えて山に返すだがねぇ=ムツ婆さんの花植え物語=

※コメント欄オープン


秩父山中・・・太田部・楢尾・・・山の民~「ムツばあさん」・・・が映画になった

2020-03-08 | 道をゆく 秩父路
秩父の山中・・・太田部・・・楢尾・・・
18年の歳月をかけて撮ったNHKテレビドキュメンタリー「ムツばあさんの花のあとさき」が映画化されました。
公開は5月・・・
クリック公式サイト「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道・・予告編が見られます。


語り 長谷川勝彦、監督:撮影 百﨑満晴、プロデューサー 伊藤 純 制作:著作ーNHK 制作ーNHKエンタプライズ、配給 新日本映画社

まだ見ていませんが・・・美しい日本を愛するものとして・・・埼玉や秩父を愛するものとして・・・ぜひ見ていただきたい映画です。


★2019年7月118日のblogです。
7月15日、NHKテレビPM1:20~3:50放映・・・ドキュメント「秩父山中 花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~」を見てました。録画もしました。

 
秩父の山中奥深く荒川流域から分水嶺を越えて利根川流域に入ったかつての秩父郡太田部村(現秩父市吉田太田部)の楢尾集落で生きて土に還っていった小林ムツさんのありし日を2002年からテレビカメラで追ったドキュメント・・・

2002年8月「ムツ婆さんの花物語 秩父山中・段々畑の日々
2007年12月「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんのいない秋
2009年春 「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんのいない春
そのの3部作の集大成が・・・
2019年5月「秩父山中 花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~」です。

テレビレンズに写るムツばあさん・・・可愛い・・・

過疎化していく山奥の集落の老夫婦、年を重ね山の段畑も手入れができなくなっていきます。残された時間・・・花の咲く木、実の生る木、紅葉のキレイな木を段々畑に植えていきます。
これまでお世話になった畑が荒れ果てていくのは申しわけない。せめて花の咲く木を植えて山にお返ししたい
自分たちはイノシシの食べる実のなる木を切って炭を焼いたり畑にしたりして、その跡地を実の生らない杉の木を植えたりして山の動物の食料を奪ってきた。今度は山を自然に返すときだ

2002年放送が開始される前の10年間で10000本の木の苗を植えてきたそうです。
参考
★番組スタッフの百崎満晴さん(現NHK仙台放送局)は・・・カメラマンからの提案企画ではじまったミニ番組、カメラマン&ディレクター&インタビュアーの一人三役+音声さん、2002年から2019年までカメラマン人生の大半を費やすことになったと語っています。
ブログ メディガムツばあさんと秩父山中の場所はどこ?BSプレミュアムドキュメントまとめ

2010年訪れた秩父山中の風景です。

秩父市吉田石間(いさま)沢戸集落(標高約500m)・・・この集落の上の半納集落からの眺望です。
急峻な山肌に集落が・・・さらに登って行くと太田部峠に。

太田部峠(標高約750m)から東に向かうと城峰山と太田部集落との分岐点。

秩父市吉田太田部久保田集落に今は就学児童がいなくなったため廃校になった旧太田部小学校が(標高450m)。


いまから100年前に起こった農民たちの自由民権運動「秩父困民党事件」の跡を追って2010年秩父巡礼の旅、秩父吉田の秩父事件蜂起の原点「椋神社」を尋ね、そして下吉田石間、太田部へ。ムツばあさんが生きてそして土に還っていった村です。楢尾集落のムツばあさんの家はすでに主なく、旧太田部小学校あたりを逍遥。
旧太田部小学校の庭で会った秩父大滝村から来たという熟年夫婦、ご主人から秩父の山の民の生活についていろいろお話しを聞きました。
山の民は食べるものは麦、蕎麦、稗、粟などの雑穀類、米は買わなければ食べられません。畑は家の周りにはほとんど無く傾斜の緩い山の中腹より上の稜線近く。そこに桑や雑穀を植えていたそうです。明治以来税金は金納になりました。雑穀の収穫は食べるのに精一杯ですから現金収入が必要、養蚕、生糸、薪炭、楮から紙漉き、蒟蒻、干し柿、林業、出稼ぎなどが命の綱でした。そのどれもがいまの経済下では通用しません。むかしの桑畑もいまは杉林に代わったといいます。
7つの集落からなる太田部。世帯数、人口を調べましたがネットではわかりませんでした。郵便物は吉田から、医療は鬼石方面だそうです。

秩父市吉田太田部相見集落・・・江戸時代前の慶長年代から続いた旧庄屋さんの家。いまはコミュニティーセンターに。

太田部集落から群馬県との県境の神流川に架かる太田部橋を渡ると群馬県鬼石町(藤岡市)です。神流川を堰きとめた下久保ダム湖(神流湖)は渇水期でしょうか。ほとんど水がありません。堆砂も進行してるようです。右側の谷を分け入ったあたりがムツばあさんが生きた太田部楢尾です。
※撮影日は2010年10月。
秩父路や 天につらなる 蕎麦の花    加藤楸邨

過疎、限界集落・・・行政がいいだしたのかマスコミがいいだしたのか知りませんが現実はそうであってもこの言葉は嫌いです。使わないようにしています。
山の民」というほうがまだ優しいですね。太古のむかしは山幸彦といったのです。
日本の森林を育て水源を涵養し国土を守ってきた「山の民」はどこに行くのでしょう。

  
太田部楢尾のムツばあさん・・・おだやかないい顔していました。日本中の山の中、農村、海辺にムツばあさんのような人がいたでしょうね。わたしのおふくろも家内の母もおなじように田舎の片隅で野菜を作ったり花を植えたりして、やがて土に還っていきました。

★映画化のことを教えてくれた☞BROOKさんのblogです
★「縄文人」さんの映画紹介blog☞後を継ぐものは居ない、畑に花を植えて山に返すだがねぇ=ムツ婆さんの花植え物語=

※コメント欄オープン


初冬の・・・ジオパーク秩父・・・地球の窓「長瀞岩畳」

2019-11-23 | 道をゆく 秩父路
久しぶりの秩父路・・・なんとなく外の空気を吸いたくなって・・・秩父長瀞までごライブ・・・家から約1時間。
何十年ぶりだろうか・・・長瀞岩畳・・・
長瀞町長瀞・・・長瀞駅から・・・踏切を渡って、土産物屋さんの並ぶ道商店街を100mちょっと・・・・河岸段丘を階段で下ると岩畳・・・

荒川左岸(こちら側)が岩畳、右岸が赤壁、上流の岩鼻のあたりから下流に6㎞を長瀞渓谷と呼ぶ。1878年明治政府が招聘したドイツ人の地質学者ナウマン博士(ナウマン象、フォッサマグナの発見で有名)、がここを訪れて地質の多様性を認め、以来、ここは「日本地質学発祥の地」といわれるように。1924年「長瀞」という登録名で国の名勝及び天然記念物。

長瀞岩畳から・・・岩畳は三波川変成岩帯のうち、結晶片岩の節理が重なり隆起した岩壁。
対岸は黒色片岩だ含んだ鉄分が赤く見えるところから(中国揚子江の赤壁に因んで)赤壁と呼ぶ。

川の流れが白く濁っているのは、このところの長雨のせいで上流の石灰岩が溶けて流れ出したもの。


※撮影日は11月9日。


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久しぶりの秩父路・・・長瀞駅から・・・みやげ店通りで・・・しゃくし菜を買う

2019-11-22 | 道をゆく 秩父路
久しぶりの秩父路・・・なんとなく外の空気を吸いたくなって・・・秩父長瀞までごライブ・・・家から約1時間。

秩父鉄道 長瀞駅・・・
※1911年開業。開業時は宝登山駅、1923年長瀞駅に改称。1日の乗降客1255人。
関東の駅百選」1997年選定駅。
※「鉄道の日」記念行事の一環として1997~2001年の間に運輸省関東運輸局管内で選考委員会が 選定した駅。

長瀞町・・・江戸時代は野上三郷といわれる幕府直轄領(天領)。1889年野上村に、1940年野上町に、1972年長瀞町に(国の天然記念物長瀞渓谷を地名に)。長瀞渓谷は明治政府に招かれたドイツ人の地質学者ナウマンが1878年調査にきてその価値を認められた。1924年国の天然記念物に。変成岩の褶曲、断層、柱状節理、懸垂谷などが見られる・・・地質学の見本市のような場所。

長瀞岩畳に向こう踏切から・・・長瀞駅ホーム・・・2面3線。

長瀞岩畳に向かう道の両側に土産物屋さんが並ぶ・・・



秩父地方の伝統野菜・・・しゃくし菜の漬物・・・1袋買いました。
シャクシ菜・・・結球しない白菜の仲間、正式和名は雪中体菜、明治の初期に中国から渡来。杓子に似てるからシャクシ菜と呼ばれる。
現在ではほとんど栽培されていないが秩父地方では冬冷えする内陸気候、粘土質、石灰岩の土壌、風土にあったのか栽培されてきた・・・
※撮影日は11月9日。


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秩父山中 太田部楢尾・・・「山の民 ムツばあさん」のものがたり

2019-07-18 | 道をゆく 秩父路
7月15日、NHKテレビPM1:20~3:50放映・・・ドキュメント「秩父山中 花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~」を見てました。録画もしました。


秩父の山中奥深く荒川流域から分水嶺を越えて利根川流域に入ったかつての秩父郡太田部村(現秩父市吉田太田部)の楢尾集落で生きて土に還っていった小林ムツさんのありし日を2002年からテレビカメラで追ったドキュメント・・・

2002年8月「ムツ婆さんの花物語 秩父山中・段々畑の日々
2007年12月「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんのいない秋
2009年春 「秩父山中 花のあとさき ムツばあさんのいない春
そのの3部作の集大成が・・・
2019年5月「秩父山中 花のあとさき・最終章~ムツばあさんの歳月~」です。

テレビレンズに写るムツばあさん・・・可愛い・・・

過疎化していく山奥の集落の老夫婦、年を重ね山の段畑も手入れができなくなっていきます。残された時間・・・花の咲く木、実の生る木、紅葉のキレイな木を段々畑に植えていきます。
これまでお世話になった畑が荒れ果てていくのは申しわけない。せめて花の咲く木を植えて山にお返ししたい
自分たちはイノシシの食べる実のなる木を切って炭を焼いたり畑にしたりして、その跡地を実の生らない杉の木を植えたりして山の動物の食料を奪ってきた。今度は山を自然に返すときだ

2002年放送が開始される前の10年間で10000本の木の苗を植えてきたそうです。
参考サイト
NHK公式サイト「ドキュメンラリー紹介サイト★番組スタッフの百崎満晴さん(現NHK仙台放送局)は・・・カメラマンからの提案企画ではじまったミニ番組、カメラマン&ディレクター&インタビュアーの一人三役+音声さん、2002年から2019年までカメラマン人生の大半を費やすことになったと語っています。
ブログ メディガムツばあさんと秩父山中の場所はどこ?BSプレミュアムドキュメントまとめ


2010年訪れた秩父山中の風景です。

秩父市吉田石間(いさま)沢戸集落(標高約500m)・・・この集落の上の半納集落からの眺望です。
急峻な山肌に集落が・・・さらに登って行くと太田部峠に。

太田部峠(標高約750m)から東に向かうと城峰山と太田部集落との分岐点。

秩父市吉田太田部久保田集落に今は就学児童がいなくなったため廃校になった旧太田部小学校が(標高450m)。


いまから100年前に起こった農民たちの自由民権運動「秩父困民党事件」の跡を追って2010年秩父巡礼の旅、秩父吉田の秩父事件蜂起の原点「椋神社」を尋ね、そして下吉田石間、太田部へ。ムツばあさんが生きてそして土に還っていった村です。楢尾集落のムツばあさんの家はすでに主なく、旧太田部小学校あたりを逍遥。
旧太田部小学校の庭で会った秩父大滝村から来たという熟年夫婦、ご主人から秩父の山の民の生活についていろいろお話しを聞きました。
山の民は食べるものは麦、蕎麦、稗、粟などの雑穀類、米は買わなければ食べられません。畑は家の周りにはほとんど無く傾斜の緩い山の中腹より上の稜線近く。そこに桑や雑穀を植えていたそうです。明治以来税金は金納になりました。雑穀の収穫は食べるのに精一杯ですから現金収入が必要、養蚕、生糸、薪炭、楮から紙漉き、蒟蒻、干し柿、林業、出稼ぎなどが命の綱でした。そのどれもがいまの経済下では通用しません。むかしの桑畑もいまは杉林に代わったといいます。
7つの集落からなる太田部。世帯数、人口を調べましたがネットではわかりませんでした。郵便物は吉田から、医療は鬼石方面だそうです。

秩父市吉田太田部相見集落・・・江戸時代前の慶長年代から続いた旧庄屋さんの家。いまはコミュニティーセンターに。

太田部集落から群馬県との県境の神流川に架かる太田部橋を渡ると群馬県鬼石町(藤岡市)です。神流川を堰きとめた下久保ダム湖(神流湖)は渇水期でしょうか。ほとんど水がありません。堆砂も進行してるようです。右側の谷を分け入ったあたりがムツばあさんが生きた太田部楢尾です。
※撮影日は2010年10月。
秩父路や 天につらなる 蕎麦の花    加藤楸邨

過疎、限界集落・・・行政がいいだしたのかマスコミがいいだしたのか知りませんが現実はそうであってもこの言葉は嫌いです。使わないようにしています。
山の民」というほうがまだ優しいですね。太古のむかしは山幸彦といったのです。
日本の森林を育て水源を涵養し国土を守ってきた「山の民」はどこに行くのでしょう。

  
太田部楢尾のムツばあさん・・・おだやかないい顔していました。日本中の山の中、農村、海辺にムツばあさんのような人がいたでしょうね。わたしのおふくろも家内の母もおなじように田舎の片隅で野菜を作ったり花を植えたりして、やがて土に還っていきました。

☆私のブログ友「縄文人」さんが秩父山中の集落を写真に撮ったデジブック天空の郷・家・杣道です

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一月七日・・・七草寺・・・秩父長瀞不動寺で・・・七草粥をいただく

2016-01-07 | 道をゆく 秩父路
食っちゃ寝、食っちゃ寝」の正月。
1月7日、ようやく冬眠から覚めて・・・七草粥の・・・秩父長瀞・・・不動寺に行ってきました。
寄居から秩父方面に国道140号線を・・・長瀞駅前交叉点を右折、宝登山神社方面へは左側に回り込むと駐車場が。今年から不動寺前の広い駐車場は有料でした。

シダレ梅がもう咲いています。

行列すること約1時間、ようやく真言宗醍醐派長瀞山五大院不動寺にお詣り。お賽銭を。

七草粥の「おふるまい」です。
春の七草・・・芹、なずな(ぺんぺん草)、ごぎょう(ハハコ草)、はこべら、ほとけのざ(小鬼田平子)、すずな(蕪)、すずしろ(大根)。

1月8日朝日新聞朝刊埼玉版より・・・わたしたちのすぐ後ろで順番を待っていたお嬢さんでした。

七草粥には「秩父おなめ」がよく合います。
おなめ・・・大豆・小麦の麹をモロミにしたものに茄子、生姜などを加えて漬けたもの。お酒のアテにイイです。

ロウバイがもう咲いています。
ここはロウバイの名所・・・宝登山の麓・・・1月23日24日は宝登山の「蝋梅祭り」です。

正月はブログをお休みして「食っちゃ寝、食っちゃ寝・・・時どき読書、ときどきテレビ」の正月。
ブログをボチボチ始めます。
今年もよろしくお願いいたします

秋の秩父路・・・城峰山神社から・・・眺めた秩父は山また山

2015-11-21 | 道をゆく 秩父路
11月16日。久しぶりの晴れ間、フラフラと秩父路を吉田の椋神社、上日野沢の立沢集落へ、そして城峰山神社と尋ねています。

城峰山神社の境内、キャンプ場の西側の展望台から山を見ています。
中央に両神山(1728m)の山塊が。

遥か下のほうに秩父市石間(いさま)の沢戸集落(標高450~500m)が見えます。

このあと城峰公園の冬桜を見にゆく予定だったが・・・城峰山の真下の石間峠を越えて林道を東に、奈良尾峠から神川町矢納の城峰公園の十月桜(冬桜)を見に行く予定が、道を間違えて林道を直進、城峰公園の冬桜はまたの機会にとあきらめて風早峠を過ぎて皆野町出牛の交叉点から県道13号線に、長瀞町に出て帰路に。
※ということで2008年11月20日に訪れたときの城峰公園の冬桜の写真です(画像クリックで拡大)・・・今週あたりまではまだ見られると思います。






秋の秩父路・・・城峰山神社で・・・金目の狼様に逢った

2015-11-20 | 道をゆく 秩父路
11月16日、秩父路の散歩です。秩父吉田の椋神社、上日野沢のおやきの茶屋、そして城峰山にやって来ました。

城峰山(1038m)の直下に建つ城峰山神社・・・神川町矢納の城峰神社の奥社です。

祭神は大山祇神(オオヤマツミ)、日本武尊(ヤマトタケル)が開創。
平将門の弟の平将平をこの地で討ったという藤原秀郷が祭祀を行い城峰の号を奉ったという。
拝殿の左に大きな「将門」の扁額があります。
平安時代に関東で反乱の狼煙を上げた平将門の伝説、弟の平将平の伝説。確かな記録はないようです。

城峰山神社の神の眷属(従者)「狼様

狛犬じゃなくて大神様?・・・狛犬・・・神社の両脇に対で並んでいる守護獣。もとはヤマト王朝時代、唐から朝鮮半島経由で仏教伝来とともに伝わってきたといわれます。高麗から来たから狛犬。お寺の守護獣だったようです。それがいつのまにか神社の守護獣に。想像上の獣ですから角を持っていたり、唐獅子と呼ばれるようなスタイルだったり。猪、龍、鹿、狐、虎、狼、和犬、人々の信仰のままに変化していきます。
狼を神社の守護獣にしているのは主なところでは奥多摩の御嶽神社。秩父の三峰神社、両神神社、秩父の武甲山御嶽神社、宝登山神社、釜山神社、椋神社ほか、かなりあります。山岳地帯だけでなく平野部にもあるようで全国的にも随所に見られるようです。何故といわれても理由は諸説あって理論づけできません。
※祭神の大山祇神(オオヤマツミ)・・・オオヤマは大山、ツ=津=の、ミ=ミタマ=御霊・・・・・・山の神という意味ですね(わかりやすい)。古事記に記された神様だそうです。

秩父路は・・・天空のおやきと・・・柿のれん

2015-11-19 | 道をゆく 秩父路
久しぶりの晴れ、フラフラと秩父路を天空のおやき茶屋のオヤジさんの顔を見て城峰山、冬桜の城嶺公園に行ってみようと。
上日野沢の立沢集落からの俯瞰。
手前は阿熊川の渓谷。遠くに見えるピラミッド状の高いほうが武甲山(1304m)、その右が小持山(1273m)か。


天空の・・・おやきの茶屋の・・・柿のれん

天空のおやき・・・秩父の地場野菜シャクシ菜が入っています。
この日の「天空のおやき茶屋」・・・月曜日というにお客さんが次から次へ。

上日野沢立沢の集落。標高約450m。城峰山が見えます。

城峰神社(標高約930m)にお詣りしていきます。

シャクシナ(雪中体菜)・・・結球しない白菜の仲間。明治の初期に中国から渡来。現在ではほとんど栽培されていないが秩父地方では風土にあったのか地場野菜として栽培されてきた。

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・URL無記入のコメントは削除します。

秩父路の秋・・・上日野沢・・・門平の高札場

2015-11-18 | 道をゆく 秩父路
11月16日。久しぶりの晴れ間、フラフラと秩父路を天空の村の上日野沢から城峰山、寒桜の城嶺公園に行ってみようと。

秩父市下吉田の椋神社から皆野町上日野沢門平集落へ。
西門平の上から見た門平の集落。このあたり標高約550m。

東門平の三叉路に江戸時代に建てられたという高札場(県指定史跡)。

軒下に吊るし柿の季節です。

高札場・・・江戸時代、幕府が基本的な法令(掟、法度)を周知させるための広報手段として使った掲示板のこと。諸藩にもこれを倣うように命じ、全国の60000の各村々に存在していた。門平の高札場はいつごろ建てられたか定かでないが1819年の門平の大火仁焼け残ったという文書があるそうで、それ以前の江戸時代後期の建造か。1973年復元改修工事。江戸時代、上日野沢村は旗本知行地、無年貢の村であったという。