比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

朝の塩田平・・・農道を軽三輪トラック・・・ミゼットが走る

2014-06-06 | 骨董・民具・ヴィンテージ
6月2日、信州上田・・・塩田平・・・塩田平のシンボル独鈷山を見ながら朝の散歩。

農道を・・・オニイサンが運転するMIDGET・・・ミゼットが走ってきた。田んぼの水を見に来たのだ。

オニイサンに「いい車だね」と言ったら・・・「オレの愛車だ」と嬉しそうに答えた。

昭和40年(1965年)製だそうだ・・・現役で走っているなんて・・・オドロキ

なぜか無性にウレシクナッタ
※カメラはLUMIX DMC TZ-40
MIDGET(ミゼット)・・・ダイハツ工業が1957年に発売した250㏄、バーハンドルの小型三輪トラック。1959年に305㏄、丸ハンドルにモデルチェンジ、1972年発売中止。昭和30年代から40年代、日本経済が発展途上であったころの中小企業、零細企業の輸送ツールとして大活躍して日本の経済発展に貢献した。

※ブロ友の縄文人さんのブログからクリック「昭和の暮らし・・・ミゼット


テクニクス大国日本の夜明け・・・名器ニコンF2

2010-12-08 | 骨董・民具・ヴィンテージ
11月29日日帰り信州。上田市の某さんに幻のカメラを見せてもらいました。

日本のカメラがドイツのカメラを凌ぐようになったのは一眼レフの開発からといってもいいでしょう。最初に一眼レフを発売したのは1948年ドイツのコンタックスS、日本では1952年アサヒフレックス、1957年アサヒペンタックス、1958年ズノーペンタフレックス、1959年ニコンF、キャノンフレックスと続きます。1971年ニコンF2、キャノンF1とまさにわが国のカメラ産業の夜明けです。

さて現物を見てみましょう。
ニコンF2フォトミック・・・レンズはNIKKOR-S Auto 1:1.2 f=55mm

ケースもついているオタカラです。状態が非常にいいです。1:4 200mmの望遠レンズつき。オークションではありません。所有者も売る気はありません。




忘れられた農具・・・天秤ばかり・・・ヘビー級

2010-09-05 | 骨董・民具・ヴィンテージ
天秤(竿ばかり、棹ばかり、棒ばかり)・・・ヘビー級です。

たぶん農家で穀物なんかを量ったのでしょう。
こういう大型秤は支点になるところが紐になっていて棒を挿して両側から担いで量ります。米俵60kg・・・16貫目、繭フクロ、炭俵、穀物などの重量を量ったのでしょう。


鈎になったところに品物ををを吊り下げます。支点が二ヵ所(重量によって変える)。変えたとき鈎はクルッと位置が変わります。支点には紐がついていてこれに棒を差して両側から人が担ぎます。棒に重量目盛りが埋め込まれていて分銅の紐を差込み移動させて水平になったところで重量が決まります。
棒を担ぐ人2人、分銅を見る人1人、荷物の鈎のほうに1人、計4人の作業です。

古代ローマの時代からの度量衡器だそうです。日本には中国から室町時代に伝来。江戸時代にに盛んに用いられ、昭和20年代までは使われていたようです。 

フライ級の天秤ばかり→こちらクリック




忘れられた民具・・・炭火アイロン

2010-09-03 | 骨董・民具・ヴィンテージ
これはナンでしょう(秩父皆野のカキ氷屋さん・阿左〇冷蔵の店内にあったものです)。

左の鉄製の煙突みたいなのを突き出しているの・・・・むかしのアイロンです。上の部分が開くようになっていて火を熾した炭を入れます。
いまのアイロンみたいにスチームなんか出ません。


炭火アイロン・・・明治初期に西洋から入ってきたハイカラ文化。昭和30年代(1960年ごろ)まで現役。家庭用電気アイロンのサーモスタット入り(温度調節)が普及したのは1959年。

真ん中のアサギ色のものはわかりません。鉄製です。中に鏡が付けられていて回転します。
わかったかたはいるでしょうか。

倉庫とか工場の風抜きのように思えてきました。嵌めこみ式になっています。倉庫側に♀穴があって嵌め込んだのでしょうか。前に見える溝は長さを調節したのか。
次の機会に当主に聞いてみよう。

もっと原始的な炭火アイロン→こちらクリック


忘れられた民具・・・農家の蔵の中にあるもの

2010-08-28 | 骨董・民具・ヴィンテージ
信州の農家の蔵の中で見たものです。
目張りを張ったものが何であるかわかる人はエライ。


コメントをください。
知ってる人は2~3日後、コメントが出尽くしたあとでコメントをください。

ということで《正解》は・・・スターアニスさんのコメントでピン~ポン~
ふるいふるいむかしの米収納庫です(いつの時代かはわかりません)。前面が嵌めこみ板になっています。たぶん玄米をこの中に入れて羽目板を重ねて上からさらに収納していったのでしょう。取り出すときは下の小さな板を外して必要なだけ使う。いまの家庭用ライスボックスとおなじ仕組み。前に2つ横に2つぜんぶで4基ありましたた。1基10俵(600kg)以上入りそうです。つねにふるい米から食べるのですね。時によっては5年物とか。
江戸時代、米の年貢は基本的には定免法(過去何年かの平均収穫から割り出す)でした。検見法(毎年出来高で査定)もありましたが、このほうがトラブリました。定免法では豊作の年も不作の年も年貢が同じです。豊作の年の余剰米を備蓄して不作の年に備える。そんなことからこの米収納庫が考えられたかもしれません。
百姓の知恵です。




忘れられた民具・・・鉄瓶ではなく銅瓶

2010-08-26 | 骨董・民具・ヴィンテージ
鉄瓶です・・・銅製らしいから銅瓶かな。
竈の穴にはまるように羽根がついています。羽釜というのはいまでも見ますが羽瓶というのは見たことも聞いたこともありませんでした。


ずいぶん仕事したようです。静かにお休みください。

森生さんのコメントでヒントもらいました。銅壺でWEB検索・・信州せいしゅん村・・・ピカピカの「へっつい」が出てきました。大正から昭和のはじめの厨房機器のようですね。竃に銅壺というものを乗せたもの。銅の薬缶はそのパーツのようです。古いものではないのですね。竃の銅壺、そのご農村の台所も薪からガスになり消えていきました。

クラシックカメラを見る・・・オリンパスペンF

2010-06-13 | 骨董・民具・ヴィンテージ
某日、近くの旧友の家を訪ねました。
旧友は若いときからカメラの親しんでいますから、クラシックのカメラを持っています。
それを見せてもらってウンチクを語るのが楽しみで訪問したようなものです。

OLYMPUS-PEN-F F1.8 38mm・・・1963年(昭和38年)発売、世界初のハーフサイズ一眼レフ。ハーフサイズシステムとは通常のフィルムの半分サイズ(縦24mm×横18mm)で撮影するシステム・・・つまり36枚入りフィルムなら72枚撮れるわけです(セコイ!)。初出のFは露出をオプションの外付け露出計と連動させています。バージョンアップのFT(1966年)はセルフタイマー、露出計が内臓です。アクセサリーシューはオプション。


交換レンズをはずしたところ。横開閉ミラー。

Canon FTb F1.4 50mm・・・1971年(昭和46年)発売。


一眼レフカメラの歴史は長いが、日本ではじめて商品化されたのが1954年アサヒフレックス、1957年アサヒペンタックス、1958年ズノーペンタフレックス、1959年ニコンF 、1959年キャノンフレックス 、そのごの日本のカメラ業界の技術の発展はスゴイ。西ドイツのカメラ業界を駆逐してしまった。報道カメラの世界からスピグラなどを追放して一眼レフ一色にしてしまった。

上の写真のカメラたちはいずれも惚れ惚れするような素晴らしい逸品です・・・・
が、もはや一眼デジの時代、フィルムカメラの時代ではない(それをいうとフィルム一筋の人に怒られるが)。そしてまた近い将来、一眼デジにかわるカメラが出現するであろう(それをいうと一眼デジ一筋の人に怒られるが)。ちなみにこれらの撮影はコンパクトデジカメです。

発売当時のお値段はCanon FTbが57000円・・・中堅サラリーマンの給料1月分ぐらいだったかな?

カメラマニアの中では有名らしくオークションにもでています。でもカメラというものは工業製品ですから量産していて、まだ目の玉が飛び出るような値段ではない。
「日本の匠の結晶だ・・・大事にしてやってください・・・しまっておかないで飾り棚に飾ってやったらどうだろう」・・・友人は機械設計の技術屋・・・こういう言葉に弱い。

百姓の持ちたる火縄銃を見た

2010-05-29 | 骨董・民具・ヴィンテージ
信州塩田平の知人宅で見せてもらった・・・火縄銃・・・普通の農家の土蔵から出てきたもの。
鉄砲そのものは農家の農具(鳥獣撃退用)として広く使われていたようですが、徳川五代将軍綱吉の1575年、「諸国鉄砲改め」で徴発されたはず。お目こぼしかな・・・イイかげんですね。それから時が流れて徳川末期になるとかなり流通していたといいますから、何を撃っていたんでしょうね。

さてこの鉄砲がどのような経緯でこの農家にあるのか・・・本物か明治以降に作られたものか・・・わかりません


信州上田藩、仙石家に代わって松平家が1706年入封したころ並河源兵衛なる鉄砲鍛冶が鷹匠町(現中央1丁目)に屋敷を構えていたといいます。今も上田駅お城口パレオビルの裏から10数mの段丘を上る坂を源兵衛坂といいます。この並河鍛冶が作った有名な左火口火縄銃、短銃が上田市立博物館にあります。
蛇足
1543年鹿児島県種子島にポルトガル人の商人が漂着して鉄砲なるものを披露します。台風による漂着といいますがウサン臭いですね。一儲け企んだのかな?同時期に倭寇が東南アジア方面から鉄砲の情報・技術を持ってきたという説もあるようです。模倣、改良の上手い日本人ですからたちまちのうちに日本人による生産が始まります。近江国友鍛冶、日野鍛冶、泉州堺鍛冶の匠の集団です。
30年後の奥三河の長篠城の戦いでは織田信長軍は3000丁の鉄砲で無敵といわれた甲州武田騎馬団をいとも簡単に殲滅したといいます。戦争は精神力とか愛国心とかではなく火力、兵力、経済力の勝るほうが勝つのですね。恐ろしいです。

忘れられた農具・・・古い牛の鞍

2009-09-01 | 骨董・民具・ヴィンテージ
農耕牛につけた牛の鞍です。


農耕馬、農耕牛を使わなくなったのはいつのことでしょうか。
自動耕運機(耕耘機)が本格的に取り入れられたころの1955年(昭和30年)は8万台、1967年(昭和42年)は300万台といわれます。
それまでは田んぼの耕耘、代掻き、畑の中耕、農産物の運搬はすべて牛や馬でした。

あらためて写真の鞍を見てみよう。引退は昭和40年代か。きわめて保存状態が悪い。一銭の価値もないでしょう。
でも大事に保存し、昔の農業のやり方を偲んでみよう。