9月22日、黒部立山アルペンルート・・・信州大町側から室堂往復のコース。
こういうコースは朝早く行って、早く帰るというのが・・・渋滞に巻き込まれないで・・・イイ

午前中に降りてきて、稲穂、蕎麦の花のひろがる安曇野の・・・ちひろ美術館へ。
1997年設立の「
ちひろ美術館 安曇野」。
広々とした緑の公園から正面玄関へ・・・山々に囲まれた素晴らしいロケーション。

正面エントランス・・・フロントロビー・・・中庭。

※絵はちひろ美術館のパンフレットより。
ちひろ・・・いわさきちひろ・・・岩崎千尋・・・ってご存知ですか。名前は知らなくても、
←のような絵を子どものころいちどは見たことがあると思います。
いわさきちひろ(
本名松本知弘、旧姓岩崎 1918~1974年)画家、絵本作家。陸軍築城本部の勅任建築技師の父岩崎正勝(
長野県梓川村出身)、母文江(
松本市出身)の長女として母の赴任先(
教師)の福井県武生市で生まれる。母文江は旧制奈良女子高等師範学校(
現奈良女子大学)の第1回生。そのご東京で育ち旧制第六高等女学校(
現都立三田高等学校)、同補習科、洋裁学校で教育を受ける。幼い時から絵をよくし洋画を岡田三郎助に、書を小田周洋に師事。書は師の代理を務めるほどだったという。20歳で結婚、夫の勤務先の旧満州大連へ、夫の自殺により帰国、ふたたび絵、書を学ぶ。1944年(
25歳)、母が主事をしていた大日本女子青年団の「大陸へ花嫁を」の活動で「満蒙開拓女子義勇軍」に書の教師として同行、同年、東京での書の教え子の叔父の旧満州陸軍の将校の手配により帰国(
どのような理由をつけてか不明)、終戦の前年であり、このようなことは旧満州の高級軍人、官僚の子女には行われていたようです。このことが無かったらその後の運命はどうなったでしょう。東京に戻った翌年の1945年、岩崎家は空襲で全焼、父母の故郷信州へ疎開。同年の8月に敗戦。教養ある父母の下で経済的に何不自由なく育ったちひろ。神国日本の不敗を信じていた岩崎家、敗戦後の情報の変化で大きな転機が訪れたようです。ちひろは日本共産党に入党、自立を目指して上京、母方の親戚の神田神保町の箔押屋さんの二階に下宿して共産党系の人民新聞に勤務。丸木位里、赤松俊と交流。父母は満州引揚者のための開拓地松川村へ入植、開墾を始めます。
1950年、同じ党員の松本善明(
のちに弁護士、衆議院議員)と結婚。雑誌・新聞のカット、広告のポスター、表紙絵、絵本の挿絵などで生活を支え、しだいに絵本作家としての地位を築き、油彩から水彩に、書の技法を取り入れたボカし、滲みなど
ちひろの世界をひろげていきます。惜しむらくは56歳の若さでこの世を去りました。
「
ちひろ美術館」・・・ちひろの子、松本猛がちひろ没後の3年目の1977年練馬の自宅を改装し「
ちひろ美術館」を開設。20年後の1997年、祖父母の開墾した地、安曇野の松川村に「
ちひろ美術館 安曇野」を設立。
館内でお絵画きする子ども・・・ちひろの世界・・・そのものです。

館内に絵本カフェ・・・芝庭にオープンカフェ。

ラベンダーの畑。美術館の一部です。

優しい時間が流れます。
一日ノンビリしていたい公園みたいな美術館です。
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