比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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今日は何の日・・・4月7日・・・大日本帝国・・・「戦艦大和」の最後

2022-04-07 | 今日は何の日
                                、
今日は4月7日、今から77年前の1945年の4月7日は、あの戦争で世界最大の不沈戦艦といわれた大日本帝國海軍の戦艦「大和」が鹿児島県薩摩半島南端の坊の岬から南400kmの海域で米海空軍の機動隊にメッタ打ちにあい沈没した日です。

戦後最大の戦争文学といわれる
吉田満著「戦艦大和の最後」(講談社文芸文庫 1994年刊)
を読んでいます。
著者の吉田満さん(1923~1979年) は東京大学から1943年学徒動員(20歳)、1944年海軍電測学校から戦艦大和の副電測士(少尉)として乗艦。1945年戦艦大和天一号作戦に参戦、奇跡的に生き残った人。敗戦後の1945年秋、両親の疎開していた東京都西多摩の吉野村(現青梅市)で作家吉川英治と会う機会があり、体験を綴ることを勧められたといいいます。ほぼ1日で書かれた文語体の初稿は1946年12月雑誌「創元」に掲載される予定でしたがGHQ(敗戦国日本で占領政策を実施した連合軍最高司令官総司令部)の検閲で全文削除の命令を受けます。1949年(銀座出版社の雑誌)にかなり改変されて著者に不本意な形で文語体で掲載され、ようやく創元社から口語体で書かれた初稿が加筆修正されて出版されたのは講和条約が発効したあとの1952年です。


桜、桜」ト叫ブ声・・桜、内地ノ桜ヨ、サヨウナラ。 
俺ト結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ッタ、俺ハコレカラ死ニニ行ク。
    
  
進歩ノナイ者ハ決シ勝タナイ。負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ・・・ 

ホトバシル・・・撒キ散ラサレタル肉片ハ・・・艦内は手足も胴も頭も千切れた死体の山。

徳之島ノ北西二百哩ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス、水深四百三十米
今ナオ埋没スル三千ノ骸、彼ヲ終焉ノ胸中果シテ如何。


この本は戦争を肯定するものでもなく否定するものでもなく・・・勇ましく軍国主義を讃える内容でもなく非戦を訴える内容でもなく」・・・純粋な若ものが「大和」の中であったことを自分の経験した範囲で記述しているだけです。敗戦数ヶ月後に書かれているためあとづけのイデオロギーがなく若き学徒海軍士官の「時代の証言」です。そこには人間と人間の殺し合いがリアルに描かれています。

戦艦大和について・・・
1937年起工(太平洋戦争の4年前)。
1942年進水。
1945年4月7日未明、山口県徳山沖より豊後水道を通って天一号作戦実行のため沖縄方面に向かいます。
1945年4月7日12時34分 米軍の艦載機が鹿児島県薩摩半島の南端の坊の岬から南400kmの海域で嵐のように襲いかかってきます。
1945年4月7日鹿児島県坊の岬沖で14時23分沈没・・・着工から5年の歳月をかけて進水、2年、敵艦と交戦することもなく敵艦載機の2時間の攻撃で沈没した世界最大の不沈戦艦といわれた「大和」、いったい何だったのでしょう。

戦死者2740名 生存者269名(276名とも)。巡洋艦、駆逐艦など合わせて戦死者3700名。「海ゆかば・・・水漬く屍」・・・鎮魂の歌が聞こえてきます。吉田さんは海中に投げ出され油まみれの海を浮遊物に掴まり漂い、駆逐艦から投げ下ろされたロープのネットにつかまります。海の中では体力尽きて沈んでいく仲間を見ます。駆逐艦に上がるとき足にしがみつかれます(芥川龍之介の「くもの糸」の世界です)。生き残ったのは奇跡、僥倖です。

総工費1億3700万円(現代の換算として東海道新幹線建設費に例えられる)。
長さ263m、総t数64000t(日本最大の客船「飛鳥Ⅱ」は50000t)。

☆あの戦争を生きた人の修辞なき証言を、日本という国を考えるうえでの資料として若ものにぜひ読んでもらいたい本です。


★この稿は2016年4月7日のブログを修正、加筆したものです。

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今日は何の日・・・85年前に・・・帝国陸軍の一部将校が起こしたクーデター・・・二・二六事件

2021-02-26 | 今日は何の日
今日は何の日・・・いまから85年前に帝国陸軍の皇道派の少壮将校が下士官、兵士たち1483人を率いて起こしたクーデター・・・二・二六事件の日です。
事件は1936年(昭和11年)2月26日午前5時に始まり、2月29日午後2時の下士官、兵士たちの投降、帰隊により終わりました。
クーデター軍は岡田啓介首相を襲い失敗、高橋是清蔵相を射殺、斎藤実内大臣を射殺、渡辺錠太郎教育総監を射殺、鈴木貫太郎侍従長を銃撃、瀕死の重傷を負わせ、湯河原にいた牧野伸顕伯爵をも別動隊を派遣して襲わせましたが牧野は間一髪で難を逃れました。
決起の趣旨はともかく完全な流血テロです。暗殺は周到な計画の下に行われました。
決起軍は三宅坂から桜田門一帯を占拠して皇居内に入ろうとしましたが成功せず、時が経過するとともに鎮圧軍に包囲され、下士官、兵士たちは投降、原隊に復帰、首謀者たちは自首、逮捕されました。

★写真は反乱軍鎮圧のために戒厳令が発令され戒厳司令部になった九段下軍人会館(戦後に九段会館、2011.3.11の東日本大震災で天井崩落、廃館)。写真右は国会議事堂あたりを占拠する反乱軍。

ことの発端は帝国陸軍内の派閥・・・統制派皇道派・・・の確執といわれます。

夜遅くになってしまいました。続きは後で・・・



半藤一利著昭和史」(2006年 平凡社刊)
第5章 二・二六事件の眼目は「宮城占拠計画」にあった 大股で戦争体制へ
146ページから178ページまで32ページです。読んでみるとダイジェストであるが核心をついていて、ことの顛末がおぼろげながらわかってきます。

夜遅くになってしまいました。続きは後で・・・


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8月28日・・・MLBアメリカプロ野球機構  ジャッキー・ロビンソン・デイ

2020-08-30 | 今日は何の日
8月28日・・・MLBアメリカプロ野球機構が制定した・・・ジャッキー・ロビンソンの日
グランドに立つ選手全員が背番号・・・42・・・


アメリカのプロ野球機構(MLB)のブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)にジャッキー・ロビンソンという選手がいました。ほとんどの人は知らないでしょう。
選手生活10年、生涯打率0.311、本塁打137本、一流ですが超一流ではありません。
1945年8月28日、28歳のときにニューヨークのブルックリン・ドジャースの当時球団会長のリッチー氏に誘われて、1947年4月15日メジャーデビュー。
黒人選手1号です。野次とブーイング、脅迫の中でプレーします。チームメートも敵です。
そんな中で爽やかに堂々と紳士的にプレーしたそうです。それが差別に対する戦い方だったのでしょう。
ある試合で相手チームの彼に対する卑劣な行為にチームメイトが立ち上がり乱闘騒ぎが起こります。ついに居場所を勝ち取ったのです。有色アスリートが後に続く道を開きました
1972年死去。デビュー50年後の1997年4月15日MLBは彼の背番号「42」をMLB全チームの永久欠番にします。

2004年4月15日MLBは・・・この日を彼の偉業を称えるジャッキー・ロビンソン・デー・・・に制定。グランドの選手全員が背番号42をつけてプレーします。4月15日は彼のデビューした日・・・ことしはコロナ禍で遅れ、彼がドジャースオーナーと会って大リーグ入りを決意した1945年の8月28日にちなんで8月28日に。
8月28日は1963年ワシントンリンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する日に黒人の人種差別の撤廃と各人種の協和を求めての大集会が行われ、キング牧師が「I have a Dreem」と演説した日。


人は・・・人種も国籍も出自も生まれるとき選べません。障害者もまたそうです。


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今日は何の日・・・司馬遼太郎・・・菜の花忌

2010-02-12 | 今日は何の日
新聞を読んでいたら司馬遼太郎「菜の花忌」のことが出ていました。司馬遼太郎・・・1996年2月12日没。「菜の花」と名づけたのは幕末の北前船の豪商高田屋嘉兵衛のことを書いた「菜の花の沖」にちなんでか。
司馬遼太郎・・・熱心な読者でもないし、読んでいない作品もいっぱいあるし、その内容を理解してるわけでもないし、感想をいえるような資格もありません。


太平洋戦争末期、大学から召集され戦車隊に。学徒動員ですね。促成の戦車学校を卒業して満州国牡丹江省の戦車隊に配属されます。戦車の運転もおぼつかない大砲の照準も合わせられないヒドイ即席少尉だったそうです。ソ満国境からソ連軍の進攻が予測される中、なぜか関東軍の転進?のため栃木県の佐野市に。戦車隊の本拠は佐野小学校、九十九里浜か湘南海岸に米軍が上陸するという想定だったそうです。そして敗戦の日に。戦わずして生き延びた。
生き延びたのは司馬さんのせいではありません。

このことがそのご22歳からの司馬さんの生きるテーマになったのでしょうか。司馬さんはそのごの執筆活動を22歳の自分への手紙と語っています。

司馬史観といいます。「史観」ですから「史学」ではありません。あくまでも個人的な思い込みというのでしょうか。でも史観の前に「司馬」がつくから読む人は「個人史観」として読めばいいのです。どう思うかは人それぞれです。ちなみにわたしは「竜馬が行く」「坂の上の雲」「翔ぶが如く」読んでいません。
この人の本は保守党の大物議員や財界の大物に絶賛され、民主的な考え方の人にも好かれ、右翼にも左翼にも嫌われています。ヘンです。
満州の戦車隊の経験を生かして、ノモンハンや731部隊やシベリア抑留のことを小説にしてほしかったですね。どう書いたでしょうか。

今日は何の日・・・建国記念日・・・紀元節・・・神武天皇即位日

2010-02-11 | 今日は何の日
今日は何の日・・・むかしの紀元節・・・いまは建国記念日。
今から2670年くらい前、奈良の橿原宮で天皇家の初代(神武天皇)が即位した日。
話の根拠は「日本書紀」らしい(もちろん読んだことはない)。

              「紀元節」
     雲にそびゆる千穂の嶺オロシに艸(クサ)も木も
      靡き伏しけん大御世を仰ぐ今日こそ樂しけれ
                        (高崎正風作詞・伊澤修二作曲 明治21年小学唱歌)

日本書紀によれば神武天皇45歳のとき日向高千穂から東征を決意し瀬戸内海を東進、近畿の難波碕で上陸、抵抗勢力の長髄彦(ナガスネヒコ)に敗れ撤退、紀州那智勝浦の荒坂津に上陸、八咫烏(ヤタガラス・・・近畿勢力に圧迫された熊野の山道に精通した山の民?)の道案内で北上、今度は長髄彦を破り橿原に居つきます。侵略・略奪による進駐軍の居座り?ガザ地区に入植したイスラエルみたい。天皇家に背く逆賊として殺された長髄彦は哀れ。

橿原宮に奥さんと居を構え初代天皇家と名乗った年が辛酉年庚春朔・・・推古天皇9年から遡って1260年(還暦21回)前、BC660年といいます。つまりそれが日本建国の日。どうしてそういう計算をしたのかわかりません。春朔は旧暦正月一日。

ちなみに日本書紀は720年完成の舎人親王の作成による歴史書。影のプロジューサーは当時の天皇家のスタッフの最高権力者藤原不比等といわれます。一説によれば古事記の作者稗田阿礼は不比等とも。歴史を為政者に都合よく改竄する始まり? 不比等の系譜は宮廷内で公家として昭和の敗戦時(近衛公の自決)まで続きます。

話を元に戻そう。高千穂・・・ってどこでしょう。日向の国といいます。今の宮崎の国名ですが、日向(ヒムカ、ヒムキ、ヒナタ)という地名は全国いたるところにあります。九州だけでも50例近くあるようです。高千穂とは高い多くの山の頂ということです。困りました。天孫族の降臨地や饅頭屋さんの元祖は先に名乗ったところが勝ち?
神武一族はどこから出陣したのでしょう。建国元年はBC5世紀、吉野ヶ里遺跡は弥生式時代(BC10世紀からAC300年代)。さらに邪馬台国、卑弥呼の時代はAC3世紀の初めごろといわれますから、その関係はどうなるんでしょう。アタマが痛くなった
さらに頭が痛くなるのは神武天皇の系譜です。天地開闢で生まれた七世の最後はイザナミ・・・そこから何代かあとの血筋らしい。謎は深まるばかりだ。

漢字が中国から輸入され実用化されるようになったのは5世紀、天皇の生没、在位などが文字に残されるようになったのは飛鳥時代29代欽明天皇(507~571年)の時代から。神武天皇から28代までの約1200年の神話時代、古代王朝時代は文字による記録はないようです。口伝(伝承)です。つまり為政者に都合のいいフィクションもできるわけです。

長々と話しました。問題はそれを国民の祝日にしたことです。明治政府は1872年紀元節と定め、1891年小学校で祝日大祭に、1914年全国の神社で大祭を行うようになります。つまり封建時代から近代国家に生まれ変わるとき立憲君主国として国の象徴の権威づけが必要だったのです。まあ神話の世界なんて誰も信用していなかったようですし、笑い話のうちはよかったのですがね。皇紀2600年祭を1940年に盛大に行うようになるとおかしくなります。シンワをシンケンにシンじろというようになるのです。逆らう奴はアカとして逮捕です。翌1941年太平洋戦争に突入します。なお2月11日にしたのは根拠はないようです。

1945年太平洋戦争敗戦とともに廃止。1967年「建国記念日」として復活。復活の理由づけはわかりません。今の定説では建国元年BC660年説や神武天皇存在説は否定されているようです。つまり科学的根拠がないのです。学校教育で理科や算数や歴史や考古学を教えていて実証できないものを教えるのは無理があります。唯心論と唯物論。形而上学と形而下学。天動説と地動説。わたし的には神話の世界はロマンがあり好きです。でも科学的根拠のないものを信じたり信じなかったりするのは哲学の世界です。人の心を一本化するのは無理があります。

ちなみに皇室はこの行事を公式には行っていないようです。

森とオーケストラ・・・今日は「みどりの日?」

2008-04-30 | 今日は何の日
08年4月29日去年から「昭和の日」・・おととしまでは「みどりの日」、昔は「天皇誕生日」。
みどり豊かな群馬県立公園「群馬の森」に行ってきました。


群馬交響楽団の「森とオーケストラ」。今年で第29回。「みどりの日」にふさわしい鬱蒼とした森の中で市民が「みどり」と渾然一体になった音楽祭です。なぜか「昭和の日」の「森のオーケストラ」って語呂がよくないですね。
広い芝生に思い思いにシートを敷いて楽しんでいます。
ここでは多少ガヤガヤしても「シーッ」なんていう人はいません。

画像クリック・・・大変な数の聴衆です。大きな森の木の下が特等席です。

群馬交響楽団・・1945年太平洋戦争敗戦の年に創立した高崎市民オーケストラが前身です。この楽団のことをモデルにした「ここに泉あり」という映画がありました。

「群馬の森」・・・1970着工、1980年完成した26.2haの自然林の公園。旧日本軍の造兵廠岩鼻製造所跡地。何を造ってたのでしょう。今も大きな化薬工場が隣接しています。場所は高崎市岩鼻・・江戸時代岩鼻陣屋があったところです。近くに中山道倉賀野宿、利根川舟運倉賀野川湊、日光に通ずる例弊使街道の起点がありました。

今日は朝起きして高崎市「みさと芝櫻公園」、「榛名湖」、「大笹街道大戸の関」などを回ってここにきました。

シュトラウス「春の声」、ベートーヴェン「田園交響楽」などを聴いて芝生の上でウトウト。
至福のひとときです。

今日は何の日・・・二百三高地陥落の日・・・乃木希典

2006-12-07 | 今日は何の日
今日は何の日。1904年12月6日は日露戦争で旅順攻略のキーポイント[二百三高地の陥落の日]です(ほんとうは昨日ですが書き込みに失敗しました)。

二百三高地といえば乃木希典将軍です。聖将とも愚将とも無能の将軍とも言われます。神社(赤坂の乃木坂で知られる)に祀られている伝説の人です。

でも乃木将軍といってもほとんどの人が知らないでしょう。何しろ101年もむかしです。明治は遠くなったのです。私自身むかし文庫本で司馬遼太郎の「殉死」という小説を読んだ程度の知識です。つい最近「乃木希典」(福田和也著)を読みました。どちらも資料を丹念に調べて書いたものと思います。
わたし的に書いて見ました。

1849年長府藩江戸上屋敷に生まれる。
1877年西南戦争で軍旗を奪われる
1894年日清戦争に、1896年台湾総督に。
   長州藩閥で山県有朋の下で順調に出世します。
1904年日露戦争に第3軍司令官として任につく。

これからが正念場です。
とにかく犠牲者の数が多いのです。室町時代からの戦国時代でもこんなに多くの戦死者は出ないでしょう。まるで兵士は消耗品です。
まず二百三高地(海抜203㍍の丘ですが旅順の後背地にあたります)をロシア側はコンクリートの分厚い要塞で固めています。機関銃がはじめて使われます。そこへ突っ込めー突っ込めーですからバタバタ倒されるわけです。武田の騎馬軍が織田信長の鉄砲隊にやっつけられたたときと同じです(長篠城の戦い)。
  第1回総攻撃8月 15800名戦傷
  第2回総攻撃10月  3830名戦傷
  第3回総攻撃11月 16935名戦傷
  二百三高地の攻撃では戦傷者総計 59000名
  日露戦争全体で戦傷者200000名ですから30%です。

結局この戦いは第3回総攻撃において総参謀長児玉源太郎が直接指揮(乃木将軍の一時的棚上げです)を執ることになり作戦の変更、砲台の設置変えなどにより12月6日二百三高地の陥落となります。翌年1月2日旅順陥落、日本海海戦勝利があり10月14日終戦となりました。
乃木大将は1907年学習院院長となります。明治天皇(3歳年上)にたいへん信頼されます。謹厳実直だったからでしょうか。ただし若いときは放蕩の限りを尽くしたといいます。
1912年(明治45年)明治天皇の崩御に殉じて夫人とともに自死します。このことも聖将の名を高めますがアナクロ(時代錯誤)という評価もあります。何しろ殉死は徳川4代将軍のとき保科正之の案で禁止(1663年)になっているのですから。でも天皇制絶対の時代に口にすることははばかられたでしょう。夏目漱石の小説「こころ」ではほんのチョット触れています。

話は長くなりました。この日清、日露戦争から大国帝政ロシア(当時ロシアは革命前夜)に勝ったという奇妙な錯覚が始まり太平洋戦争まで続くわけです。もちろんロシアの東進をストップさせたという大きな意味はあります。歴史にifは許されませんが負けていればヒサンな事になっています。それだけに兵隊さんは必死の思いで闘ったのでしょう。もう少し犠牲者の数を少なくできなかったかという思いがします。

殉死」(司馬遼太郎・文藝春秋1967年刊)
乃木希典」(福田和也・文藝春秋2004年刊)
この2冊を読み比べてどちらがどうとかの判断はお読みになった方が決めることです。

今日は何の日・・・文化の日・明治節

2006-11-06 | 今日は何の日
文化の日に書き込もうとしたが今日になってしまいました。
文化の日ってなんだろう。むかしの明治節の名前を変えたんだ。明治天皇のお生まれになった日です(旧暦ですと9月22日)。
嘉永5年(1852)生まれ、明治45年(1912)60才で没。
慶応3年(1867)15歳で天皇に、翌年17歳で東京に、この年が明治元年(1868)になります。
さてこの人何をした人かというと、ほとんどの人が知らないでしょう。歴史というものはそういうものです。例えば徳川15代の将軍の名前だって6人知ってれば上々です。明治維新というものはたいへんな区切りで戸籍とか地租とか憲法とかすべて新しくしたのです。明治天皇は「さようか」と言ってればよかったはずです。何しろ16才で東京へ連行されたのです。判断力などあろう筈もありません。後から徹底的に勉強はします。侍講といいます。でも立憲君主国家というものは君主は「さようか、そうせい」でいいのです。
奥さんのほかに側室が5人。子女は15人、次の天皇(大正)の母は柳原愛子様です。別に恥ずかしいことでも珍しいことでもありません。
明治天皇の時代に戊辰戦争、西南戦争と内戦があり同じ日本人が官軍と賊軍に分かれて戦います。日清戦争、日露戦争と戦争が続きますがすべてこの人が主導して起こした戦争ではありません。多くの若者が死にました。

私たちは立派な髭を生やし颯爽としたお姿の写真しか知りません。
明治天皇といえば乃木将軍です。この話はまたの機会に。