比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

武蔵国血洗島の・・・名門から出た・・・近代資本主義を作った男「渋沢栄一」

2015-02-23 | 古民家の風景
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。

深谷宿の常夜燈、岡部藩の陣屋跡、長屋門、江戸時代初めに開削された備前渠川、深谷市血洗島の「渋沢栄一」の生家、栄一の従弟であり義兄でもある深谷市手計の尾高惇忠の生家、最後は渋沢栄一が設立に携わったといわれる深谷市上敷免の「日本煉瓦」。
最後に埼玉が生んだ近代資本主義の父「渋沢栄一」にスポットを戻して、この「見て歩る記」を終わることにします。

名門渋沢家中ノ家」(なかんち)の薬医門です。堂々として文字通り名門です。

渋沢一族は戦国時代末期(16世紀後半)にこの地に土着したといわれ江戸末期には本家「東ノ家」(ひがしんち)中心に17軒。明暦年間(17世紀中期)の記録によれば「中ノ家」は村内30戸の内21番目の小農、それが江戸末期には本家「東ノ家」に次ぐ2番目の豪農に。

さて渋沢栄一(1840~1931年)です。
なにをした人か・・・忘れられた日本人・・・の中に埋没しています。ここでこの人の足跡をたどって・・・近代日本の誕生の中で何をした人か追いかけてみました。


武蔵国血洗島の豪農渋沢家「中ノ家」の生まれ。血洗島は名の通り洪水で水田に不向きな地。畑作、養蚕、藍玉の生産を主としていました。14歳のころから藍葉の買い付けに単身歩いていたといいます。17歳のとき「中ノ家」が岡部藩阿部家の代官に呼び出されたとき父親の名代で出かけ御用金の命令(500両・・・本家東ノ家は1000両)を即答せず激しく代官とやり合ったという。百姓の子倅がイイ度胸していたのだ。江戸末期の領主は豪農に御用金と称してタカリをしていたらしい・・・岡部で岡部藩阿部家の遺構がほとんど残されていないことがわかってきます。そのころから10歳年上の尾高惇忠に師事し、その勤皇思想に心酔し幕藩体制の崩壊を目指し高崎藩高崎城の乗っ取り計画を計画、実行前に荒唐無稽の計画は頓挫、知遇のあった徳川一橋家の家臣の世話で一橋家に仕官。慶喜が15代将軍になると幕臣に。慶喜の弟昭武の随員としてパリ万博に。明治維新後に帰国、静岡藩主になっていた慶喜の下に。1869年明治政府大蔵省に、租税制度改革、駅逓法、貨幣制度、鉄道制度、公債制度、廃藩置県・・・数々の改革に絡んだという。洋行帰り、財務に明るい才能を買われたのであろう。官営富岡製糸場の開設にかかわり、1873年大蔵省退官、第一国立銀行創設。そのごは日本郵船、東京瓦斯、東京海上火災、王子製紙、秩父セメント、秩父鉄道、日本煉瓦、帝国ホテル、京阪電鉄、キリンビール、アサヒビール、東洋紡、石川島造船・・・東京証券取引所・・・聖路加病院・・・一橋大学、東京経済大学、二松学舎、同志社、日本女子大、東京女学館・・・など数々の会社、公的機関、学校の創設にかかわりました。
勤皇の志士から幕臣に、幕末に洋行し西欧資本主義、植民地政策をつぶさに見て帰国、幕臣から明治政府の官僚に、さらに実業界に、時代の波に乗って転身を繰り返す。

資本家としてではなく広く株式を公募する近代資本主義のプロモーター(発起人、推進者)としての渋沢栄一が見えてきます。

渋沢家の終焉・・・

澁澤敬三(1896年~1963年)・・・澁澤栄一の孫。偉大なる祖父の嫡男篤二が放蕩三昧に耽ったため廃嫡となり孫の敬三が渋沢家の2代目後継者に。第一銀行副頭取から日銀副総裁。1944年3月日銀総裁に。1945年8月の太平洋戦争の敗戦まで、軍のいうままに赤字国債を引き受け、日本銀行券の貸し出しの増加という形で無制限に軍の資金調達を続けた。敬三の日銀入りはウムとも言わせぬ軍部からの命令だったという。誰がなっても赤字国債を乱発するしかなかったでしょう。
あの戦争の敗戦の年・・・1945年9月3日、敬三は日銀5階の集会室に全職員を集めてこう訓示した。

・・・今この至難というべき業を始めるに当たり、先ず我々は過去に対し熾烈なる反省を加えねばなりません。本行総裁として私自身又大きな罪を犯して居ります。私情から申せば斯かる事態にもかかわらず、引続きこの責務を続けることは堪え難き事であり、事実、君の為に死んで行った兄弟達や、忠実に奉公した銃後の兄弟達に対する冒涜であると感じます。
この意味で私自身を含めて指導者と目すべき各界の幹部は、悉く万死に値する罪びとであったと云わねばなりませぬ。今我々が先ず為さねばならぬ事は只一つ過去の罪業をはっきりと正視して、今後の日本の発展を齎すべき基礎を打ち建てる、それのみであります。



上記の言葉は痛切な悔恨の言葉とも聞こえます。
10月9日、日銀総裁辞任、大蔵大臣に、預金封鎖、新円切り替え、財産税を実施。任期は1946年5月までの半年あまり。まるで自分を罰するかのごとく財産税導入では自ら祖父栄一が残した大邸宅を処分、財閥解体では自らの澁澤財閥を解体、見事に没落しました。

※渋沢栄一の写真は深谷市パンフレットより、渋沢敬三の写真はWikipediaより。

彩の国・・・青年期の渋沢栄一にもっとも影響を与えた・・・尾高惇忠の生家を尋ねた

2015-02-17 | 古民家の風景
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。
深谷宿の常夜燈、岡部藩の陣屋跡、長屋門、江戸時代初めに開削された備前渠川、そして深谷市血洗島の近代資本主義の父「渋沢栄一(1878~1942年)」の生家。それから渋沢栄一の従弟であり義兄でもある深谷市手計(てばか)の尾高惇忠の生家にやってきました。
手計(1889年、8ヶ村が合併して手計村に、1890年八基村に改名、1954年豊里村に、1973年深谷市に合併)。
手計(てばか)地名の由来には諸説がありますが、①手墓と表記されていた時代もあったようで、戦いで切られた武士の腕の血を洗ったのが血洗島、その腕を葬ったのが手墓(手計)、②関東地方で崩壊地、崖を表すバケ(古日本語)、③アイヌ語説・・・②が正解・・・と思う。

さて尾高惇忠の生家です。血洗島から数100m、むかしの下手計村
埼玉県道14号線下手計交差点そば、深谷宿から中瀬河岸に、島村の渡しに向かう幹線街道。「油屋」という屋号で商家を営んでいたそうだ。

江戸時代後期に建てられた商家建築といいますが2階の屋根に煙出しが見られますから養蚕農家でもあったようです(深谷市指定史跡)。

煉瓦造りの倉庫、日本煉瓦(㈱)のある上敷免の刻印を残す煉瓦が使われており、日本煉瓦の創立(1887年)以降の建造の倉庫。


尾高惇忠(1830~0901年)・・・通称新五郎、号は藍香。渋沢栄一は「藍香ありて栄一あり」と語ったといいますが、はて、どんな人物でしょう。明治5年(1872年)に創設された官営富岡製糸場初代場長・・・というぐらいしか知りません。
渋沢家「東ノ家」から栄一の父親元助が「中ノ家」に養子で。元助の姉が「尾高家」へ嫁いで惇忠を生む。惇忠と栄一は10歳違いの従兄妹にあたり、惇忠の妹が栄一に嫁いだことから義兄弟にもなり、さらに惇忠の弟平九郎が栄一の養子見立てになっており・・・ややこしい。むかしはみんなそんなものだったらしい。
惇忠は学問に優れ自宅で塾を開き近隣の子どもに教えていて栄一もその門下生。惇忠はそのころ流行りの「水戸学」(尊王攘夷思想)を信奉、栄一ら子弟に大いに勤皇思想をアジテーション。1863年、栄一、惇忠、従兄妹の渋沢喜作と惇忠宅の2階で討幕のための決起行動を謀議。まず高崎城(大河内松平藩)を乗っ取り、横浜に進軍して異人館を焼き払い異人を切り殺す。過激な学生運動など足下にも及ばない劇画のような荒唐無稽のクーデーター計画。その年の秋に最終謀議が図られ、惇忠の弟長七郎が反対して解散を促した。京都にいて天下の情勢を冷静に判断したことからだったらしい。議論は朝まで続いたが惇忠は結局中止を宣言、この荒唐無稽な計画は回避された。
栄一と喜作はその後、一橋家に仕官、栄一は川慶喜の弟、昭武の随員としてヨーロッパへ、喜作、惇忠は彰義隊上野戦争、飯能戦争(1868年)に加わり、その後、喜作は函館五稜郭に、惇忠は飯能戦争からどうにか逃れ故郷へ。惇忠の弟、栄一の見立て養子平九郎は飯能戦争で敗れたのち越生山中で自決。
激動の明治維新前夜にヨーロッパにいて維新後に帰国した栄一が新政府に仕官したのは1869年。華麗なる転身です。
その後、新政府が計画した官営富岡製糸場、農民出身の栄一がそのプロモーションを一手に引き受け、惇忠ら養蚕をよく知るスタッフに建設計画から参加させます。大きなプロジェクトですから個人的な功績は何ともいえませんが、惇忠は難航した工女の募集に娘の勇を第1号として、それがために全国からの工女志願者が集まったといわれます。工場完成後の1872年から1876年までの4年間、工場長として誠意を尽くした運営を行い退任後、第一国立銀行岩手支店支配人、仙台支店支配人を歴任。謹厳実直の人だったらしい。曾孫にNHK交響楽団正指揮者尾高忠明。
栄一は富岡製糸場の完成した1年後の1873年に大蔵省を辞職、第一国立銀行を創立。変わり身の早い人です。

尾高惇忠・・・多感な少年期から青年期の渋沢栄一の思想に影響を与えた人、この人がいなかったら栄一は田舎の百姓オヤジで身代を潰していたかもしれません。
※尾高惇忠の写真は深谷市パンフレットから。

彩の国深谷・・・近代資本主義の父・・・渋沢栄一の生家にやって来た

2015-02-14 | 古民家の風景
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。
深谷宿の常夜燈、岡部藩の陣屋跡、長屋門、江戸時代初めに開削された備前渠川、そして近代資本主義の父「渋沢栄一(1840~1931年)」の生家のある血洗島にやってきました。
血洗島村(1889年、8ヶ村が合併して手計村に、1890年八基村に改名、1954年豊里村に、1973年深谷市に合併)。
深谷市血洗島(ちあらいじま)というブッソウな地籍です。地名の由来には諸説がありますが、①利根川の氾濫でたびたび地()が流された(洗われた)、②地が荒れている(痩せている)、③アイヌ語で北の果て(気仙)・・・ケセンがチセン・・・血洗・・・になった。どれもホントに思えるが・・・。

さて、渋沢栄一生家「中の家」です。

堂々たる四本柱、切妻屋根の正門です。建築様式では医薬門といいます。

1895年建造の主屋。典型的な養蚕農家の家です。奥行き5間、間口9間。切妻二階建て。二階は養蚕室、屋根には養蚕用の煙出(温度調節)があります。屋号は「中の家(ナカンチ)」。名字帯刀を許された本百姓、村三役クラスの家です。明治の時代には養蚕、藍玉生産販売、雑貨商、質屋業を営んでました。


上がり端から見た表側の部屋。10畳間が3部屋続きます。裏側の部屋も同じ間取りです。

長男である栄一が1865年、家を離れたため妹貞が婿市郎を迎え1980年代に養蚕を拡大するために立てなおされ1895年火災で焼失、同年再建。妹夫婦は渋沢家を大いに栄えさせた。1983年埼玉県指定旧跡に、市郎の孫嫁多歌子が1983年「学校法人青淵塾国際学園」を設立、外国人の日本語・日本文化研修施設として43ヶ国679人の留学生が学んだ。学園は2012年解散、2012年深谷市の帰属となり深谷市指定史跡に。

佐野真一著「渋沢家三代」(文春新書 1998年刊)

渋沢栄一の本についていろいろ読みました。どれもが業績を讃えた偉人伝です。ようやく、この本にたどり着きました。栄一の私生活、栄一の長男篤二の遊芸への耽溺による挫折、孫敬三の経済人とアカデミズムとのあいだの葛藤、・・・アリノママに記しています。

近代資本主義の父「渋沢栄一」と言っても知ってる人はほとんどいないでしょう。明治の時代、官営富岡製糸場、第一銀行の創設で知られ数々の会社設立にかかわった人です。東京証券取引所、日本レンガ、秩父セメント、帝国ホテル、日本郵船、東洋紡、王子製紙、東京ガス、東京火災海上、京阪電鉄、キリン、サッポロ、数え上げたらキリがありませんが今はキレイに渋沢の名前が消えてます。

この人の孫の渋沢敬三という人。「栄一」の偉業には遠く及ばないかもしれませんが、終戦直後の日銀総裁、大蔵大臣を勤め、自分の会社「渋沢財閥」を含め三井、三菱などの財閥を解体した人です。財閥解体と財産税でスッテンテンになった人ですが民俗学に造詣が深く私財を投じて研究者たちに援助を惜しみませんでした(現在の貨幣価値にして100億円余といわれます)。民俗学の父とも言うべき人です。

渋沢家三代」は偉人伝では書いていない別の角度から見たホントウの渋沢栄一を知る本であると思います。

※熱心に説明してくれたボランティアのかたに感謝。ありがとうございました。
深谷を訪れたかた、ぜひ尋ねてみてください。

樹齢400年・・・高麗神社・高麗家住宅の・・・シダレザクラ

2011-04-04 | 古民家の風景
飯能市に「フルートコンサート」に行った帰り、日高市の高麗神社奥の高麗家住宅跡のシダレザクラを見てきました。

高麗家住宅は江戸初期の1600年代中期に構築されたと推定されている古民家。1977~78年解体、復元。総面積37.5坪(136.2㎡)。国指定重要文化財。
668年朝鮮半島の覇権争いで敗れた高句麗の亡命者1799人が716年この地に入植。高麗家はその入植者(渡来人)のリーダー。

シダレザクラ・・・エドヒガンザクラの系統。幹が2本に分かれいて細い。主幹が落雷で焼け現在のものはヒコ生えのようです。


東向きの山の麓にあります。曇天で山陰で光量がありませんでした。写真は晴れた日の午前中が順光でイイですね。

樹木は太陽と土と水があれば命を繋いでいきます。


秋の巾着田・・・豪農の館「新井家」の風景

2010-12-03 | 古民家の風景
11月28日、武州高麗の里の小さな喫茶店の小さなコンサートに。その前に巾着田の中をブラリ歩き。

小さな牧場があります。白い馬がいました。その向こうに大きな民家が。城壁のような石垣、長い白壁、入母屋二階造りの家は豪農の館でしょうか。屋敷林の向こうは日高市の象徴・・・日和田山。



豪農の館に少し近づいてみました。巾着田から国道299号線を挟んで少し高くなった段の上、江戸時代から続く豪農・・・「新井家」・・・2008年日高市が取得。


母屋は入母屋二階造り平入り、桁行23.2m、梁間8.2m、190㎡(約58坪×2)、建築年代は江戸中期とも末期とも明治初期とも定かではないようです。1993年茅葺から瓦葺に。そのとき茅葺のための叉首組を瓦葺用の木組みに。長い年月でこうした改修を重ねてきたようです。
母屋に直角につながっている客殿があります。入母屋二階造り平入り、唐破風の屋根がついた式台があります。桁行12.8m、梁間5.5m、70㎡(22坪×2)。1906年建造、1998年茅葺から瓦葺に。
敷地12651㎡、ほかに宅地3183㎡。2008年、日高市が1億5894万円で新井家から購入・・・ざっとこんなことがことらしい。
江戸時代の名主級の家と推察しますが、たしかなことはわかりません。ご当主さんがこの土地にいらっしゃるようですし、よけいな詮索はしないことでしょうね。日高市でこれを取得したということは、この建造物自体が歴史遺産であり建築遺産であり、それを後世に伝えたいということでしょう。古文書も残ってるでしょうね。江戸時代の農村の古文書は貴重です(ちなみに秩父市太田部の新井家の古文書は埼玉県の文書館に保管されてるそうです)。

どのような形で公開されるか興味があるところです。

参考》これまで目にしてきた古民家。


上段左から・・・深谷市澁澤栄一生家長野県大鹿村松下家長野県大町市美麻中村家
中段左から・・・秩父市太田部新井家埼玉県長瀞町新井家
下段左から・・・熊谷市平山家鴻巣市甘楽家鴻巣市青木家それぞれ自治体がそれなりに管理してるようです。

秋の秩父路・・・山の上の上吉田の太田部・・・ムツばあちゃんの花物語・・・

2010-11-24 | 古民家の風景
11月19日秩父の山道を物見遊山。
秩父市吉田の最奥、荒川水系の石間の谷から分水嶺の太田部峠を超えて利根川水系の神流川(かんながわ)の右岸が太田部(おおたぶ)です。

なぜ分水嶺を越えたところが秩父? 神流川流域ですから生活交流は群馬県のほうが便利なはずです。同じように分水嶺を越えた隣の矢納村は1948年埼玉県から群馬県に所属変更しています。なぜ太田部は群馬県に所属変更しなかったのか。住民の秩父に対する深い思いがあったのでしょうか。

太田部の地名由来》①上吉田に大棚部という耕地があります。そこから来た人が住みついた。②万葉歌の詠み人の大伴部小歳に見られるように秩父には奈良時代から大伴部の一族がいてその人たちが住みつき、大伴部が太田部になった。
2説あるということはどちらも裏付けるものがないのでしょう。わたしは②のほうがロマンがあって好きです。大伴さんは大君のお伴をする人という意味ですね。都人です。その一族がどうして秩父に。地方官庁の役人としてか秩父牧の管理か何かで中央から来たのでしょうか。

さて急峻な山の中腹をグルグルと辿って太田部峠を越えて太田部楢尾集落そして旧太田部小学校にやってきました・・・太田部相見集落です。
校庭にヘリ発着用の〇に十の字の印が書かれています。標高450m、下の神流湖が標高300m、傾斜は2/3くらいか。コンクリートのしっかりした建物です。いまは何の利用もしてないようです。小学生は吉田小学校にスクールバスで? いいえ、就学児童はいないのです。


小学校の少し先にある旧新井家の住宅です・・・いまから400年前のむかし、慶長のころから世襲名主を務め、明治に世になっても村長を務めたが、事情あって50年くらい前にこの地を去ったという。地区の公民館として、いまは秩父市管理のコミュニティーセンターとして使われています。
間口10間、奥行き6軒、60坪くらいでしょうか(二階作りですから120坪)。もっとあるかな。切妻平入り。石間の沢戸耕地で見た家屋のように出桁造り。2階のベランダが広く庇が長い。ここも楮の乾燥場、蚕室使用があったのですね。建造年は不明ですが明治か大正の年代ではないかと思います。ガッチリしたごつい建材はどうやって伐りだしどうやって搬入したのでしょうね。誰もいないので中を見ることはできませんでした。




新井家も立派ですが、この村の民家はどこも立派な2階建ての母屋で、土蔵付きが多いようです。

道を引返して、神流湖(かんなこ)のほうに向います。比高150m。かなり下り、太田部橋を渡ると群馬県鬼石町(藤岡市)です。
太田部橋を渡ったところから神流湖を見ました。渇水期でしょうか。ほとんど水がありません。堆砂も進行してるようです。右側の谷を分け入ったところが太田部です。旧太田部小学校は右の真上のほうですが見えません。


過疎、限界集落・・・行政がいいだしたのかマスコミがいいだしたのか知りませんが現実はそうであってもこの言葉は嫌いです。「山の民」というほうがまだ優しいですね。太古のむかしは山幸彦といったのです。
旧小学校の庭で会った秩父大滝村から来たという熟年夫婦、ご主人が秩父の山の民の生活についていろいろ話してくれました。食べるものは麦、蕎麦、稗、粟などの雑穀類、畑は道の周りを見回してもほとんど見ることはできません。傾斜の緩い山の中腹より上、稜線近く、そこに桑や雑穀を植えていたそうです。いまはむかしの桑畑も杉林に代わったといいます。米は買わなければ食べられません。明治以来税金は金納になりました。雑穀の収穫は食べるのに精一杯ですから現金収入が必要、養蚕、生糸、薪炭、楮から紙漉き、蒟蒻、干し柿、林業、出稼ぎなどで稼ぎました。そのどれもがいまは金になりません。
7つの耕地からなる太田部。世帯数、人口を調べましたがネットではわかりませんでした。郵便物は吉田から、医療は鬼石方面だそうです。
日本の森林を育て水源を涵養し国土を守ってきた「山の民」はどこに行くのでしょう。

     秩父路や 天につらなる 蕎麦の花    加藤楸邨

NHK人間ドキュメント「ムツばあちゃんの花物語」で紹介されたムツばあちゃんはこの村のひとでした。
  
太田部楢尾のムツばあちゃん・・・おだやかないい顔していました。日本中の山の中、農村、海辺にムツばあちゃんのような人がいるでしょうね。わたしのおふくろも家内の母もおなじように田舎の片隅で野菜を作ったり花を植えたりして、やがて土に還っていきました。

※コメント欄オープン。

武州・・桶川・・・べにばな祭り・・・古民家「甘楽家」

2010-07-04 | 古民家の風景
7月3日・・・桶川市の紅花を見に行きました。

紅花ふるさと館・・・べにばな祭りの中心的な会場です。
旧加納村の豪農甘楽(ツヅラ)家の屋敷。明治時代後期(20世紀初頭)のころの典型的なこの地方の農家建築。解体して再築したもの。

長屋門・・・本来は武家屋敷のみに許された門。そのご苗字帯刀を許された庄屋クラスの百姓に許され、そのうちに領主に対する献金により富裕な商家、農家にも許されるようになり、明治になるとその規制もなくなり豪農のステイタス・シンボルとして作られるようになった。
門の両サイドは作業所、納屋、使用人の住居など。ミエばかりでなく機能的です。

母屋・・・寄せ棟2階作り。風抜きの小屋根がありますから2階は蚕室でしょうね。間口は10間、奥行きは6間、建坪60坪、1~2階合わせて100坪余といい加減な計算をしました。説明プレートには何年創築とか何年再築とか建物の寸法とか詳しいことは書いてありません。再築の際に間仕切り、厨房などの変更はしたようです。
今は「うどん処」です。武州の地粉・・・メニューも多く美味しそう。中庭のテーブルで食べると自然の風を感じてさらに美味しくなるでしょうね。昼飯後に来ましたので食べられません・・・ここは昼飯抜きで行くところです
二階は喫茶ルーム、グランドピアノもありコンサートもできます、会合、宴会などもできるようです。
中庭では地の野菜売り場、花木の苗、フリーマーケット、骨董市など。
体験工房棟もあり木工、陶芸、書道ほか市民のカルチャーセンターの役割もあるよう。

さて・・・紅花・・・です。ふつうの農家の畑です。紅花ふるさと館の付属農場というわけではないようです。
紅花農家の畑の地図などあったらもっといいですが。
紅花のアップ!

畑に花畑が・・・白い大きな玉はあじさいアナベル・・・紫はアガパンサス・・・黄色い鉄砲百合も。

桶川と紅花?・・・江戸期の桶川は中山道の宿場、近隣の村の農産物を集めて大消費地江戸に送る物流基地。紅花というと山形の「最上紅花」ですが、ここ桶川は「桶川臙脂」のブランド名で山形に次ぐ生産量を誇ったのだそうです。臙脂・・・色の和名。小豆色、海老茶色、ワインレッド、早稲田カラーなどが類似色。
「紅花」・・・土地1反当りの収益が米作は2両に対し紅花は4両。最上に紅花長者が生まれたようにここ桶川でも紅花により富と文化がもたらされ、たいへんな賑わいを見せたといわれます。反・両などの単位はややこしいから考えないほうがいい。つまりおなじ土地面積で紅花のほうが倍の収益があったということ。
その紅花も明治時代に入ると化学合成染料の導入で衰退していきます。
そんな紅花を復活させようと農家の方が栽培に取り組み、やがて市民運動になり、市を挙げての街づくりの一環として毎年べにばな祭りが開かれるようになった・・・というわけ・・・オシマイ

多摩川・・・羽村の堰で・・・郷土博物館を見た

2010-06-05 | 古民家の風景
東京都羽村市・・・羽村の取水堰・・・1654年開削された玉川上水の取水源に物見遊山に行ってきました。

羽村市・・・多摩川が奥多摩の山地から出て青梅に、さらに武蔵台地、多摩丘陵に挟まれ流れるあたりが羽村。1652年徳川四代将軍家綱の代に幕府は江戸市中の上水不足の解消のために玉川上水の開削にかかります。この大プロジェクトの総奉行は松平伊豆守信綱(老中)、水道奉行伊奈忠治(関東郡代)、工事請負はのちに玉川兄弟といわれる町人(町人請け)。羽村から四谷大木戸まで43km、ブルやユンボなどの土木重機もなかった時代にわずか2年でこの工事を完成させます。これについては省略して、まず、郷土博物館に行きました。駐車場がここしか見つからなかったのです。

奥多摩街道から羽村大橋を渡って多摩川右岸に。羽村市郷土博物館・・・入館料は無料。
主力は羽村取水堰の説明パネルと、とうじの木樋とか。さらに江戸末期からの蚕業。丘陵地が多く水田の少なかった羽村は米作以外の農業が主力でした。。明治の時代に入り群馬、長野の産業の技術を導入、改良し、地場産業として大いに栄えたようです。この展示物が目を引きました。

裏の広場に下田家住宅・・・市内羽西の農家を移築。国指定有形民俗文化財、1847年建築。
草むしりをしていた方とお話しました。30坪ぐらいですかと聞くと29坪と答えてくれました。機織機の話とか桑の実を食べた話とか・・・ボツボツ茅葺の葺き替えの時期なんですよ・・・というようなお話をしました。


玄関から通し土間に。竈などが土間に。土間の左側、箱のようなものはお茶揉み台。お茶の生産地でもあったのですね。お勝手が右に。中央広間(リビングです)に囲炉裏が、奥の右側が寝所?奥左が奥の間、奥の間には縁側もあり機織器が置いてありました。29坪ですから広くはありません。お蚕を飼うには少し狭いような感じがします。でも平均的なお百姓の家だったのでしょうね。移築前は田の字(4間構造)・・・大広間がデイ(応接間兼居室)とリビングに改装されていたようですが、建築当時の3間構造に直したようです。


郷土博物館の裏庭に石仏が数基ありました。
清月童女 霊位
辰 元禄十三年七月十日

と読みましたが・・・?・・・元禄13年とは1700年です。幼くして亡くなった子どもの供養でしょうか。同じ童女のフォームで名前の違うのがありました。


駐車場から堤防を上がると多摩川の河川敷が。それは次回に



武州・・荒川中流の古民家・・・平山家

2008-11-17 | 古民家の風景
荒川の大麻生公園を散策しての帰りに熊谷大橋のそばの古民家「平山家」に寄りました。ここは荒川の右岸、熊谷市樋春地区。
広い水田地帯の中の森に囲まれた萱葺きの大屋根が目立ちます。

重要文化財「平山家」、入母屋、萱葺き造り、間口9間、奥行6間で54坪、ウマヤ(厩)、外縁などの含めると敷地総面積67坪、堂々たる構えです。建築年代は17世紀後半と考えられ、重要文化財指定後に大改修を行い旧観を復元したそうです。
画像クリック・・・平山家の拡大写真
屋敷の背戸(北側、川の上流側)に欅、カシなどの屋敷林があるのが関東平野の荒川べりの農家の特徴です。

トボクチ・・・トバクチとも、玄関のこと。大戸は開けてありますが潜り戸も見えます。軒下に小豆を乾しています。外縁に庇屋根が張り出しているため軒先が広く使えるようになっています。大戸は馬も出入りして屋内にウマヤが二つあります。

画像クリック・・・
トボクチ(玄関)から入った通し土間。左からデグチ(応接室、リビング)、チャノマ(食堂)、ナガシ、セトグチ(背戸口、裏口)、カマド。さらに右にウマヤ。

表から見たデグチ(出居口)、縁先があって訪問者は縁側に座って茶の接待を受けるなんていうのが時代劇にはあります。デグチは地方によってデイとも。出たり入ったりする今のリビング、応接室みたいなものでしょうか。ここでも縁側に小豆が乾してあります。
名主級の家ですが武士(役人)が出入りする式台がありません。デグチの縁側から上がったのでしょうか。

画像クリック・・・平山家桁行断面図。説明。

表から見たザシキ・・・お百姓の家ですから床の間はないようです。地方によってオクノマなんていうようです。土蔵が見えますがこれは古いものではないようです。

画像クリック・・・平山家平面図(古民家に興味のある方は見てください)。

ここは江南町樋春(現熊谷市)・・・江戸期までは樋口村、樋口とはその名のとおり川から農業用水(吉見用水)を取水する場所(現在の取水堰と水門)、中世の武蔵武士から帰農した平山家はこの樋管、用水路、荒川土手の維持管理にあたった名主だったようです。いまは母屋と1棟の土蔵のみですがかつては長屋門、何棟かの土蔵、塀に囲まれた堂々たる豪農の住まいであったことがうかがわれます。

重要文化財の古民家といっても個人の所有らしく小豆などを乾してあり、所有されているかたの庭先からお邪魔するようになっています。入館料は無料。
「古きを尋ねて新しきを知る」でした。

信濃国・・須坂・・豪商の館「田中本家」

2008-08-18 | 古民家の風景
草津白根から信州に向かい万座峠から高山村、須坂市に出ました。
ジブンドキを過ぎています。須坂の街を通っていると豪商の館「田中本家」の案内が目に入り寄ってみることにしました。駐車場から150m。
暑い!!

正面。門は長屋門、冠木門、四脚門ではないようですが乳金を打った立派なものです。
間口100m、奥行き100m、つまり10000㎡(一町歩)、四方が土蔵に囲まれています。写真は折れ曲がって見えますが直線です(写真4枚合成)。

入館料700円、正面の母屋は別料金

母屋を囲んで土蔵が、中庭もあり池もあり、納屋もあり石垣もあり、迷路のようです。

母屋を望む中庭                  母屋と裏側の土蔵との間

石垣があります。お城みたい         土蔵と母屋の間、塀があります。            

屋敷の裏側、ここでも塀ではなく土蔵です。掘りがあります。

豪商「田中家」初代田中新八が江戸中期(1733年)開業。穀物、菜種、綿、煙草、酒造業、総合商社ですな。特に菜種油は江戸中期から灯火用の油が菜種油になったことから千曲川沿岸の主力地場産業になりました。須坂藩の御用達商人であり運上金、冥加金とかも納めますがそのほかに莫大な献金もしたでしょう。別に悪いことではありません。特別税と考えればいいわけです。名字帯刀も許されます。幕末には士分に取り立てられ財政を担当します。民間出身の閣僚ですね。藩も財政逼迫で田中家の財政管理能力と資金力も必要だったかも知れません。
とうぜん大地主へと成長していきます。よくあることです。
ちなみに須坂藩1万石、豊臣家の重臣から譜代扱いに、財政改革を行い逆に財政逼迫したり、幕末には徳川慶喜を諌めて自死したり、そのあとめは官軍になって会津征伐に出兵したりして、なかなかうまく泳いで徳川時代を改易、移封することなく廃藩を迎えます。
土蔵を改修した博物館は江戸時代から昭和に至るまでの生活雑器から高級衣服、書画、文書がたいへんイイ状態で展示してあります。庶民の家にはこんなものは残っていません。貴重な文化遺産、近世の正倉院とも言われるんだそうです。

「フ~ん」と感服しきりで館内の食事処で「とろろ蕎麦」を食して、次に移動です