小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

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2011年06月27日 | 書評・絵本
今はやりの若手有名俳優では、果たして、60年代後半の時代背景が、うまく伝わるかどうか、期待できないので、原作を読むことにした。「連帯を求めて、孤立を恐れず、力尽くして挫けることを恐れないが、力尽くさずして、挫折することを拒否する」、「自己否定、日常性の否定」「実存をかけているか」,等等、未だ、二十歳前後の自分が、感じていたことが、そのまま、自分自身に、その言葉達は、襲いかかってくる。奥浩平(青春の墓標)、高野悦子(二十歳の原点)高橋和巳(邪宗門)、吉本隆明などを、読んでは、模擬試験の後で、京大生博昭君の死の知らせを聞いた翌年には、当時、何も出来なかった自分と、死んでいった同世代の若者との違いは、どこにあったのかを知ろうと必至に、遅ればせながら、参加した。入学後、米軍資金導入阻止、産学協同粉砕、学費値上げ反対、等、一連の団塊の世代は、全共闘運動へと、なだれ込んでいくことになる。4.28,6.15,10.8,10.21,等、葉隠れを読んでは明日は、本当に、死ぬ覚悟が出来ているだろうか等と、友人の下宿や、喫茶店で、しゃべり、批判し、批判され、本を読み、議論し、思想と行動を、総括する胸に、棘さすことばかりの日々だった。書斎の本棚に、目をやれば、その時、読んだ本達が、あたかも、見返してくるようである。時代の先を読む力、見通す能力からか、その運動の先行きに、何の展望も、見いだせずに、安田講堂、よど号ハイジャック、連合赤軍リンチへと、一連の総括の間もなく、自壊しながら、あるものは、銀行へ、マスコミへ、広告業界へ、或いは、政治家へ、社会へ、又、あるものは、ドロップアウトして、みんな、社会の中へ、多少のずれはあったが、旅立っていった。並木座の映画館で、見た俳優の拳を丸めて、出て行くときの仕草を今も、どういうわけか、自然とやってします今の自分、長年の仕事のストレスから、少しづつ、解放される日々の今の初老の自分と、明日が来ることを、毎日、苦しく思っていた二十歳の頃の自分と、読後、改めて、ガラスで、負傷した手の平を見つめると、これからの人生、如何に、生きるべきか、60年代後半のあの時の自分が、改めて、問いかけてくるような気がしてならない。我が家の老犬は、それでも、幸せな様子で、目も、耳も、不自由になりながらも、こちらをじっと、眺めている。