小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画「ALWAYS 3丁目の夕日 ‘64」を観る

2012年02月03日 | 映画・テレビ批評
シリーズ、3作目の1964年の東京オリンピックが開催された年のことである。弟が、聖火リレーの走者の一団の一人として、青梅街道を、走ったのを覚えている。又、住み慣れた旧い家を、新しく建て替えたこと、ステレオやカラー・テレビやクーラーを、父が、それに合わせて、購入したこと、半年間に亘る建て替えの合間に、誰かから戴いた江戸川でつり上げた大きな鯉が、たらいに入れられていたこと、それを祖母が料理してくれて家族一同で食べたこと、西日の暑い2階の部屋、夜、窓ガラスの裸電球を通して、群がる小さな虫を、捕食するヤモリを初めて見たこと、何故か、その四肢の小さな丸い吸盤が、ガラス越しに、印象的だったこと、後年、ベトナムで、部屋の中で、ヤモリが、ケケケと鳴きながら、這いずり回っても、何となく、懐かしく想えたことを思い起こす。もう、50年弱も前の昔のことである。既に、世代は、代わりつつある。祖父母から、父母の代へ、そして、私の代へ、更には、子供達の代へ、更には、今度は、孫の代へと、移ろい代わってゆく。映画の中でも、そうである。売れない小説家、茶川竜之介が、勘当された父から受けた本当の気持ちを、その死後に知り、里子に対して、同様に、小説家としての気概を伝える場面、集団就職してきた住み込みの女工さん(堀北真希演じる六子)から、東京の両親として、結婚式当日、お礼の挨拶を受け、送り出す場面、どちらも、「世代の交代」を印象づけるものである。むろん、幸福度を推し量る指数等は、そこには、どこにもないが、「本当のささやかな幸せ」とか、「若い人の夢」とか、「希望」、「夫婦愛・家族愛」が、少なからず、垣間見られる。時代考証的には、風景、様々な看板、映画のポスター、商品の広告、ベーゴマの台、赤いコカ・コーラの自動販売機、それを見張っている主人(ピエール瀧演じる氷屋)、町並みのゴミ箱、エレキギター、銀座のみゆき族、手塚治虫とおぼしき赤いベレー帽を被った漫画家、等、細かな服装、建築、意匠、もみじや、すすき、赤とんぼも含めて、できる限り忠実に、フォローされている。3Dだと、ご飯粒や、赤とんぼの群れ飛ぶ場面なども、きっと、目前に、迫ってくるのであろうが、2Dでも、十分、VFXや時代背景は、楽しめる脚本である。「世代の交代」と「時間の移ろい」に合わせて、今後、鈴木オートの社長家族や、茶川竜之介の家族達が、どのように、年取ってゆき、世代交代が、続くのだろうかと、その50年後が、楽しみになるところである。50年後の「ALWAYS 3丁目の夕日 2114」は、どうなっているのであろうか?50年も前に確かにあったものが、50年後も、確かに、あるのであろうか?それとも、失ってしまうのであろうか?「今、現にそこにある確かなモノ」は、時間の経過とともに、後年、懐かしさという言葉とともに、「失われてしまうモノ」なのであろうか?オリンピックという高度成長の宴の終了とともに、構造不況の足音が、既に、近寄っていたことは、むろん、この映画には、出てこないし、飽くまでも、未だ、「いつも、3丁目の夕日」は、残光を放ちながら、沈み行く真っ赤な夕陽は、まだ、人々の「希望」の象徴として、明日へと繋がる想いで、暖かく、描かれている。それにしても、大きな映画館が、満席だったとは、驚きである。