小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

奨学金支援を憂う:

2014年12月02日 | 社会戯評
奨学金支援を憂う:
根幹である教育の機会均等という幻想すら、もはや、崩れ去ってしまったのであろうか?学校でもスポーツでも、貧乏やハングリーだけでは、もはや、一流にはなれないのが、現実なのであろうか?返済しなければならないという条件を有する奨学金制度というものも、誠に、不可思議な制度である。少なくとも、ある一定程度の収入を得られなければ、返済は免除するとかという特別ルールでも設けない限り、初めからハンデを背負っている人間を救済することは出来ないのではないだろうか?我々の世代は、子供の頃を振り返ってみると、みんな、一律に、貧乏であったような気がする。それでも、学歴のない親の世代は、一生懸命になって働きながら、勉学の機会を子供達に与えてくれたような気がしてならない。或る者は、炭鉱の会社員、又、或る者は、製鉄会社員とか、あまり、一流企業の大会社の重役のお坊ちゃまやお嬢様がいるとも思えなかったが、、、、、、。もっとも、今にして思えば、そう言えば、あの有名会社の重役だったのではないかくらいの記憶は、お手伝いさんとおやつにいつも出されたプリンを想い出す度に、そうだったのかも知れないと思われるが、、、、、大半が、貧乏家庭であったが、学習意欲と成績は、不思議と良かったような気がする。確かに、大学時代の友人の何人かは、奨学金を貰っていたものであるが、、、、。我が家系でも、母方の叔父は、いつも、「貧乏人の家庭のほうが、何で、出来が良いのか?」等と、当時は、平然と、正月の年賀の時に、居並ぶ親戚・親族一同を前にして、はげ頭が、酒を飲みながら、大声で言っていたのを、子供心に、想い起こす。しかしながら、どうやら、今日では、そうでもないらしい。教育の機会均等も、金次第になってしまったのであろうか?もっとも、もはや、今日では、一流と呼ばれる大学に入ってからでも、人生そのものが保証されるわけでもなく、その幻想だけは、どこかに、しっかりと、根付いてしまっているのであろうか?幼児の頃から、有名幼稚園などに、通わせる人間の心理は、全く、理解しかねるが、もっとも、水泳やテニスやフィギアスケート等は、子供の頃から、一家揃って、海外留学ならぬ、海外移住をする傾向が多いような気がしないでもないが、大変な時代になったものである。教育というものは、ある種の再生産可能資源のようなもので、長期的な観点から、ある種のレベルが、落ちないように、或いは、もっと、向上するような仕組みが確立されなければならない。本田宗一郎や井深大らが、設立した交通遺児支援の「あしながおじさん」の基金ではないが、そんな浄財と公的な資金とのコンビネーションでもなければ、うまく機能しないのではないだろうか?最低限度の「教育の機会均等」の条件は、一種のセーフティー・ネットとして、何らかの形で、担保されなければならないであろう。それは、憲法によって保証されたものと考えるのではなく、それ以前のものであると考えるべきであろう。