台南、「赤篏楼、延平郡王祠」にて、鄭成功を偲ぶ:
台湾の歴史というものは、なかなか、面白いものである。元々、17世紀頃には、北部をスペインが、南部をオランダ人が統治していたのであるが、これを、オランダ人が、スペインを駆逐する形で、統治していたものを、明朝の滅亡と清の勃興に伴い、ある種の反清朝との内戦に伴い、「鄭成功」が、台湾の台南をオランダ人から制圧して、台湾全土の統一に成功するという、謂わば、蒋介石の国民党による大陸反攻思想とそっくりの構図が、17世紀の半ばには、繰り広げられたわけである。もっとも、鄭成功なる人物の名前くらいは、歴史書の中で、耳の残ってはいたものの、その人物の母が、田川松という日本人で、おまけに、長崎の平戸で生まれたとは、更に、国姓を賜った大身という意味から、その俗称の「国姓爺」という名前から、後の世に、近松門左衛門によって、人形浄瑠璃化されて、18世紀初頭には、大ヒットしたという事実までは、知らなかった。それにしても、彼を日本と台湾の融合の典型的な事例として日本統治に意図的に利用(?)したかどうかは分からぬが、蒋介石にしても、日本にとっても、互いに、ある種の都合が良かったことは、間違いない。ご都合主義によるそんな政治的な利用や血筋や血脈とは別にして、台湾の人々は、台湾統一の始祖として、今でも、大切に、祀っていることのほうが興味深い。赤篏楼の中に、小さな資料であるが、細かな文字で、ぎっしり書かれた「科挙」の書物があったが、こんな小さな文字をまだ、コピー機も無い時代に、どのようにして、勉強でもしたのだろうか?古くは、隋の時代から、唐の時代、宋の時代、更には、20世紀初頭の清朝期末まで、連綿として、士太夫の創出の為に、元来は、世襲制とは別に、優秀な人材を集めるために、出来た制度が、逆に、教育の近代化を遅らせてしまう元凶になるとは、誠に皮肉なことである。更には、試験制度にまつわる様々な逸話や、経済的な理由から途中で断念するなど、一族を上げて、一身に期待を背負って受験したにも拘わらず、失敗する者など、今日でも、中国や韓国等にみられる、或いは、日本の幼児教育にも垣間見られるような熾烈な受験勉強にも、更には、太子党などの既得権益者子弟の派閥にもみられるような弊害を今日までも連綿と続いていることに驚かざるを得ない。私立の幼稚園に子供達を車で迎えに来ている親たちをバスの中からみていると、未だに、科挙の制度的な流れが、受け継がれているのかも知れないとも思わずにはいられない。それにしても、いつになったら、経済的な理由で断念したり、熾烈な試験という競争が、無くなるのであろうか?そう言えば、旧い台湾の友人は、子供達を、順番に、まずは、アメリカで、英語と経営学を学ばせてから、日本で、日本語学校に入学後、調理師学校で、料理の免許を取らせて、台湾に戻って、友人が経営する食品会社の工場に入社させて、一から、生産と販売・マーケティングを教育実習させたことを想い起こす。しかも、3人兄弟、すべてに、同じコースを歩ませて、今、中堅人ありつつある。これからの若い日本人は、大変である。こうした人達と海外市場で、競わなければならないのであるから、、、、、、、。我々の時には、教え立場で在ったが、私達の子供の代には、逆に、ひょっとすると、教わる立場に逆転するかも知れない。それ程、教育という制度は、使いようによっては、微妙なものである。次は、歴史認識について、触れてみることにしたい。
台湾の歴史というものは、なかなか、面白いものである。元々、17世紀頃には、北部をスペインが、南部をオランダ人が統治していたのであるが、これを、オランダ人が、スペインを駆逐する形で、統治していたものを、明朝の滅亡と清の勃興に伴い、ある種の反清朝との内戦に伴い、「鄭成功」が、台湾の台南をオランダ人から制圧して、台湾全土の統一に成功するという、謂わば、蒋介石の国民党による大陸反攻思想とそっくりの構図が、17世紀の半ばには、繰り広げられたわけである。もっとも、鄭成功なる人物の名前くらいは、歴史書の中で、耳の残ってはいたものの、その人物の母が、田川松という日本人で、おまけに、長崎の平戸で生まれたとは、更に、国姓を賜った大身という意味から、その俗称の「国姓爺」という名前から、後の世に、近松門左衛門によって、人形浄瑠璃化されて、18世紀初頭には、大ヒットしたという事実までは、知らなかった。それにしても、彼を日本と台湾の融合の典型的な事例として日本統治に意図的に利用(?)したかどうかは分からぬが、蒋介石にしても、日本にとっても、互いに、ある種の都合が良かったことは、間違いない。ご都合主義によるそんな政治的な利用や血筋や血脈とは別にして、台湾の人々は、台湾統一の始祖として、今でも、大切に、祀っていることのほうが興味深い。赤篏楼の中に、小さな資料であるが、細かな文字で、ぎっしり書かれた「科挙」の書物があったが、こんな小さな文字をまだ、コピー機も無い時代に、どのようにして、勉強でもしたのだろうか?古くは、隋の時代から、唐の時代、宋の時代、更には、20世紀初頭の清朝期末まで、連綿として、士太夫の創出の為に、元来は、世襲制とは別に、優秀な人材を集めるために、出来た制度が、逆に、教育の近代化を遅らせてしまう元凶になるとは、誠に皮肉なことである。更には、試験制度にまつわる様々な逸話や、経済的な理由から途中で断念するなど、一族を上げて、一身に期待を背負って受験したにも拘わらず、失敗する者など、今日でも、中国や韓国等にみられる、或いは、日本の幼児教育にも垣間見られるような熾烈な受験勉強にも、更には、太子党などの既得権益者子弟の派閥にもみられるような弊害を今日までも連綿と続いていることに驚かざるを得ない。私立の幼稚園に子供達を車で迎えに来ている親たちをバスの中からみていると、未だに、科挙の制度的な流れが、受け継がれているのかも知れないとも思わずにはいられない。それにしても、いつになったら、経済的な理由で断念したり、熾烈な試験という競争が、無くなるのであろうか?そう言えば、旧い台湾の友人は、子供達を、順番に、まずは、アメリカで、英語と経営学を学ばせてから、日本で、日本語学校に入学後、調理師学校で、料理の免許を取らせて、台湾に戻って、友人が経営する食品会社の工場に入社させて、一から、生産と販売・マーケティングを教育実習させたことを想い起こす。しかも、3人兄弟、すべてに、同じコースを歩ませて、今、中堅人ありつつある。これからの若い日本人は、大変である。こうした人達と海外市場で、競わなければならないのであるから、、、、、、、。我々の時には、教え立場で在ったが、私達の子供の代には、逆に、ひょっとすると、教わる立場に逆転するかも知れない。それ程、教育という制度は、使いようによっては、微妙なものである。次は、歴史認識について、触れてみることにしたい。