イスラム勉強会に考える:
考えてみれば、もう、随分と長い間の付き合いである。半世紀ほどにもなろうか、親しい友人達との誠に、内々の茶話会(?)もっとも、冷たいビールを結局、戴きながらに、なってしまったので、途中で、眼が泳ぐようなことになってしまったが、、、、、。まぁ、気の許せる仲間達との肩肘張らない一種の勉強会のようなものである割には、なかなか、考えさせられる内容になった。とりわけ、一神教と多神教の問題とか、奴隷という言葉の定義とか、今日的なインテリジェンス、情報収集の在り方とか、石油価格の予想とか、それにしても、次から次へと、考えさせられる課題が、浮き彫りになるものである。新聞やマスメディアには、書かれていないサウジの裏話や、なかなか、興味が尽きないモノである。もう、みんな第一線を退いた年寄り連中であるから、それぞれ、一家言は有しているものの、人間には、やはり、知的な好奇心が、どこかで、くすぐられないと、生涯現役で、勉強をしようとする内的な、或いは、積極的な意欲とでもいうか、そういうムーチべーションが、人間には、とりわけ、年寄りには、どこかで、沸いてこないと駄目なのかも知れない。昔は、実存を問われるように、口汚く(?)刺々しく、ののしり合った(?)仲間でも、みんな昔のふさふさの黒かった長髪も、グレーになったり、ほとんど、透けて見えるような状態になってしまったが、気持ちは、若い頃と変わらないのは、面白い。たまには、こういう類の会合を主宰して、出たとこ勝負で、集まるのも、宜しいのかも知れない。別に、もう、ギラギラした、利害関係もあるわけではないし、生き方や実存を問われるわけでもないから、気軽と云えば、気軽である。しかしながら、そんな中でも、根源的に、考えさせられる問題というモノが、結構、存在しているものであうことに、気づかされる。昔、読んだ本も、再び、読み返してみようかとも、考え始めた。それにしても、都会の地下鉄の駅と言う奴は、簡単に、迷うし、おまけに、長い距離を歩かされるモノである。電車に乗っている時間よりも、ひょっとしたら、体感では、乗り換え時間のほうが、長いのではないかと疑ってしまうほどである。