小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画、『オマールの壁』を観る:

2016年05月15日 | 映画・テレビ批評

映画、『オマールの壁』を観る:

大都会の便利なところと云えば、演劇や映画の好きな人々には、インディー系の施設が、選り取り見取りで、そういう所が、堪らない魅力であるかも知れない。観よう観ようと思いながら、結局、一月ばかりが経過してしまい、新宿の角川では、夜の部しか、上映していないので、渋谷のアップリンクという30人ほどが入れば、満員になってしまうような小さな映画館で、観ることにして、トコトコと、スマホ片手に、徒歩で、行くことにした。もっとも、年寄りの性で、地図アプリをいつも使ってはいないので、GPSで、自分の位置が、確認出来ても、目指す地点とは、どんどん離れて行くではないか!?結局、交番の前で、操作していても、埒が明かないので、訪ねたところ、どうやら、地図で場所を確認していたにも関わらず、道元坂と公園通りとを、年寄りの思い込みで、勘違いしていたらしく、危うく、上映時間に、遅れるところであった。それにしても、映画監督とか、脚本家というモノは、主人公達を、自分の好き勝手な結果へと、導くモノである。もっとも、題名の通り、巨大な壁に分離されたヨルダン川西岸のイスラエルによるパレスチナ被占領地域での話であるから、ハッピー・エンドに終わることはないとは予想しつつも、このアサド監督は、最期のどんでん返しを、よくもまぁ、観客を見事に、裏切ってくれたモノである。ストーリーは、兎に角、ネタばらしをしてしまう必要も無いので、是非、ご覧ください。冒頭の画面の左方隅に、小さい字で、監修:重信メイという名前を発見した。確か、重信は、あの元赤軍派の重信房子の娘で、現在は、パレスチナ問題などで、三カ国語で、ジャーナリストとして、活躍している人物であることを、ふと、想い出した。成る程、この映画の主人公達とも共通する気持ちを理解出来る立場なのかも知れない。それにしても、占領という余りにも、厳然とした展望の見えないインテファーダの絶望と無慈悲な現実の中でも、人間は、働き、食事をし、毎日、生活し、生きなければならないし、それは、自分自身でも、味方でも、或いは、敵側でも、家族がいて、お金を稼ぎながら、生きて行かなければならない、決して、例外のない人間の宿命のようなものなのであろう。若い頃に、『影の軍隊』というフランス映画で、ナチス占領下のフランス・レジスタンス運動を題材にした映画を観たことをふと、想い出す。レジスタンス組織の維持の為に、自らの命を助けて貰った恩義のある仲間を、やむなく粛正したり、結局、そこに、登場したすべての人物は、何らかの形で、全員、生き抜くことが叶わなかったのであるが、この『オマールの壁』にも、最期のシーンは、とりわけ、エンディング・ロールは、音声が、意図的に、かき消されている。ただ、左側の英語と右側のアラブ文字が、まるで、イスラエルとパレスチナの決して、交わることのない永遠の対立を象徴しているかのように、静かに流れ去って行く。それは、恐らく、観る観客の側に、一種の想像力を掻き立てざるをえないほどの『ある種の力』を有しているかのようである。つまり、この主人公、オマールは、結局、どうなってしまったのであろうか?逃げ延びて、逃げ延びて、助かったのであろうか?それとも、協力者という汚名をそそぎ、パレスチナ抵抗運動の戦士に、変貌していったのであろうか?それとも、自らの命を絶ってしまったのであろうか?そして、幼なじみだった友人は、裏切り者、協力者という新たな汚名の下で、果たして、家庭を守れたのであろうか?それとも、組織の仲間から、密かに、粛正されてしまったのであろうか?7人の独身の姉たちは、、、、、、、或いは、元カノは、どうなってしまったのであろうか?そのふたりの赤ん坊達の未来は、どうなってしまうのであろうか?モサドの側の家族は、どうなったのであろうか?帰りの電車では、そんな『想像力』が、頭の中をグルグルと駆け巡って仕方なかった。『人権』とは、何か、『生存権』とは、何か、『被占領地域の現実』とは、何か、そして、そこでの、敵味方・双方の側での『生きるという』意味とは、『裏切り者・協力者』というレッテルとは、?『自白をしないと宣言することが、犯罪になる現実』とは、?上映後、パンフレットをみていたら、See This Brilliant Film ! ―マドンナと、推薦文を寄せているのが、眼に入ってきた。是非、映画館へ、脚を運んで、観てもらいたい映画である。結局、『さざなみ』の方は、まだ、観れずにいる。