挿絵を描いている荒井良二の絵は、個人的には、「森の絵本」よりも、こちらの「空の絵本」の方が、雨のタッチや、暗い色合いや明るい色合いの色彩の使い方が、気に入っている。雨が降り出し、青色が、緑が、灰色に変化し、やがて、土砂降りになり、稲光とともに、雷鳴が轟き、いつしか、ひとしきり、土砂降り雨が、降り続いた後に、遠くへ、過ぎ去り、雨が止む。次第に、明るくなり、緑は色を増し、空の色は、再び、空色に戻り、空気が澄み渡って、葉っぱに溜まった雨の滴は、水晶色に、きらめき、パラパラと落ちてゆく。やがて、光は、金色に、水は、銀色に、美しい夕焼けから、山陰がくっきりと空に浮かび上がってくる。そして、白い月が顔を出し始め、一番星を見つけ、鳥たちが巣に戻り、大きな木の陰が、次第に、濃くなり、星達が、夜空一面に、きらめき始める。大雨の後の夜空は、満天の星達で溢れ、丸い大きなお月様が、夜空に、ぽっかりと浮かび出てくる。そして、やがて、だんだん、眠くなってゆき、更に、だんだん、だんだん、だんだんと、、、、、、、、、、と、そして、最後には、だん、、、、だ、、、、、ん、、、、、、眠くなってゆく。「森の絵本」が、「森の静けさを媒介」として、「悠久の時間の概念」を伝えようとしていたのに対して、「空の絵本」では、空と天気の移ろい、とりわけ、「風雨を通した天気の光の変化を媒介」にして、動的な天気や風景・景色の刻々とした変化を織り込んで、自然の逞しさ、変わらぬ強さのようなものを、子供達に、伝えているような気がする。確かに、子供は、雨や風が、大好きである。それを大自然の風景の変化との関係性に於いて、「時間の変化」とともに、理解させようとする詩人の一端が、垣間見られて、挿絵とともに、興味深い。字の読めない幼児でも、絵だけでも十分、想像力を養えるに足るものが、そこには、あるように思える。繰り返し、読んでも、見ても、飽きずに、又、楽しめる絵本である。
政治的閉塞状況下では、人間は、ある種の「非戦論」と、その反面、打開を何とはなしに漠然と期待する「開戦論」とを、心の底に、同時に有するモノである。とりわけ、非戦論は、閉塞状況の固定化とともに、或いは、事態の悪化とともに、戦端を開いて欲しくないという願望にも似たものになり、目前の現実から、結果として、最悪事態に対して、眼を背けてしまうことにもなりかねない。否、最悪事態を想像することすら、試行放棄しがちである。それは、まるで、大津波が刻々と迫っているのを知りながらも、自分のところには、まさか、来ないであろうという願望に変わり、次第に、避難行動を結果的に、遅らせてしまったように、、、、、。米国メディアは、当然、ユダヤ資本に、影響された産物であり、戦前から、蒋介石等の対米メディア工作の例を、引き合いに出すまでもなく、今日でも、一貫して、アメリカの国益は、シオニズムを擁護することにいささかの躊躇も、変化もみられない。そんなメディアの小さな記事に、イスラエルが、イラン各施設への単独攻撃も検討しているという報道があった。成る程、モサドや、その協力機関が、これまでにも、過去、イラクやシリアの核研究施設を爆撃したり、最近では、イランの核開発科学者が、不可思議な爆弾テロに倒れたり、核施設のコンピューター・制御システムに対して、DuQuとおぼしきマルウェアー・ウィルス攻撃を密かに忍ばせ、開発を遅延させようとしたことなど、少なくとも、解釈によっては、警告ともとれるような、否、むしろ、解釈如何では、既に、「前哨戦の戦端」は、切って落とされているような気さえしないではない。「ニイタカヤマノボレ」は、今日でも、常に、後追いであろう。アラブの民主化の渦の中で、中東戦争を軍事的に担えるような国は、今や、どこにも、見当たらない。リビヤのカダフィは亡く、エジプトのムバラクも失脚し、軍部も批判に晒され、シリアのアサドは、国内の反政府鎮圧で、手一杯である。米国も財政赤字に伴う軍事予算の削減から、或いは、サウジ他の国々も、イラン支援のシーア派の台頭には、頭を悩め、等々、どうみても、イラン経済制裁で、イラン国内経済が、疲弊してきたら、絶好のチャンス到来であると、イスラエル右派・軍部が、考えないと、決して言えなくはないであろう。将来起こりうる一連の流れの中で、東北アジアでは、今、まさにそこにある北朝鮮の核ミサイルの脅威が、改めて、これにより、問われかねない。やれ、富士山大爆発だ、M7以上の巨大地震の再発の可能性大だと、かまびすしく、週刊誌の大見出しが踊り、喧伝されているが、この国の防衛大臣が、15分も行方不明になり、コーヒーを飲んでいたのでは、くさばの陰から、山本権兵衛や、東郷平八郎や大山巌等が、きっと、嘆いていることであろう。余りに、予想不能な不確定要素が多すぎる今日、あらゆる予断を排して、来るべき将来の事態に、対処しなければならない。国連安全保障理事会での拒否権発動を見るにつけて、改めて、戦後ポツダム・ヤルタ体制が、依然として、変わっていないこと、朝鮮半島も戦争が終結していないこと、ソ連とも戦後処理が終結していないこと、等、再認識される。
A Forest Picture-Book 対訳本、(荒井良二絵、ピーター・ミルワード訳、上智大学名誉教授)簡単な英語で、大人でも、続けて2回、3回と読んでしまいたくなる不思議な本である。日本流に謂えば、眼には見えない「森の精霊」(Angels)が、森を歩く読者に、やさしく、問いかける。誰もいない森の中、どこかで、呼ぶ声がする。一緒に森に行こう、大事なものを探しに行こう、大切なものを探しに行こう、大事なものは何ですか? 大切なものは、何ですか? 水のかがやき、たくさんの花々の色、明るい笑い声を忘れてはいけない、クッキーの素敵な臭いを忘れてはいけない、絶対になくしていけないきみの想い出 絶対になくしていけない君の夢 手のぬくもり、その人の目の中にいる君、一番大切なものが、森にはある。静かな森の中 森の大きな木の後ろには、天使がいます。風の音ではありません 天使の羽音です 森が息をしているのは 「豊かな沈黙」です。 生きているのは「豊かな時間」です。朝が来て、昼が来て、夜が来て、春夏秋冬、100年が過ぎ、今日も静かな森の中 大事なものは、何ですか? 大切なものは、何ですか?と最後に、再び、又、問いかけられる。人間の五感、聞くもの、見るもの、臭うもの、触るものそして、「眼には見えない」心の想い出、夢、愛する人とのぬくもり、絆、そして、森の静けさ・沈黙へ、そして、時間の概念を経て、更に、豊かな永遠の時間の流れの中で、「人生」を、時の流れを、彷彿とさせるような展開で、最後に、再び、大事なものは何ですか? 大切なものは、何ですか?と問いかけられる。確かに、詩人、長田 弘が、この絵本の中には、現として、存在していることが、実感される。大人の絵本であると言われても、違和感はない。
抜粋・要約:英訳English Translation : By Peter Milward
I hear a voice calling in the forest
But besides the voice I can see no shape
Let’s go and look together
Let’s go and look for what you prize
Let’s go and look for what you treasure
What you prize is what ?
What you treasure is what ?
Look at the shining of that water
The colors of so many flowers
Those bright laughing voices you mustn’t ever forget !
That wonderful smell of cookies you mustn’t ever forget !
Your memories you mustn’t ever lose !
Your dreams you mustn’t ever lose !
Warmth of hand of the one I love
Look, you are there in the eyes of the one you love
What you most prize is in the Forest.
In the silent forest
Behind the large trees of the forest there are angels.
It isn’t the sound of a breeze, sound of angels’ wings
What gives breath to the forest is the rich silence
Rich flow of time
Time passes and a hundred years pass
Today, too, in the silent forest
What you prize is what ?
What you treasure is what ?
抜粋・要約:英訳English Translation : By Peter Milward
I hear a voice calling in the forest
But besides the voice I can see no shape
Let’s go and look together
Let’s go and look for what you prize
Let’s go and look for what you treasure
What you prize is what ?
What you treasure is what ?
Look at the shining of that water
The colors of so many flowers
Those bright laughing voices you mustn’t ever forget !
That wonderful smell of cookies you mustn’t ever forget !
Your memories you mustn’t ever lose !
Your dreams you mustn’t ever lose !
Warmth of hand of the one I love
Look, you are there in the eyes of the one you love
What you most prize is in the Forest.
In the silent forest
Behind the large trees of the forest there are angels.
It isn’t the sound of a breeze, sound of angels’ wings
What gives breath to the forest is the rich silence
Rich flow of time
Time passes and a hundred years pass
Today, too, in the silent forest
What you prize is what ?
What you treasure is what ?
ナデシコ・ジャパンによる女子ワールド・カップの優勝で、これまで、日の目を余り見られなかった女子サッカーも、今では、男子サッカーよりも、注目されるようになってきた。決して、悪いことではない。何はともあれ、、、、。一時しのぎの流行で終わって欲しくないモノである。クラシック・バレーなどは、娘が、未だ、幼い頃に、バレーの発表会でもなければ、ビデオを廻すことも、バレーなどを鑑賞すること自体がないであろう程に、実生活の中から、残念ながら、私にとっては、無縁な存在である。女子サッカー同様、全くのド素人、門外漢である。たまたま、ローザンヌ国際バレー・コンクールで、日本人の高校2年生の菅井円加(Madoka Sugai)さんが、優勝したというニュースを知らなければ、(恐らく、これまでも、ずっと、そうだったのであるが、、、、、、)多少は、国際的バレー・ダンサーである熊川哲也氏や、コンテンポラリー・ダンスで、後に、暗黒舞踏で、BUTOとしても、国際的に有名になった土方巽氏程度の名前は、知ってはいるものの、クラシック・バレーや、コンテポラリー舞踏などを、愉しもうなどとは、若いときには、露程も思わなかったものである。驚くべきことに、コンクールの模様が、インターネット中継で、配信されていたようで、You Tube で、各国のファイナリストの演技や、練習風景、授賞式の前半・受賞の瞬間までもが、興味深く観られるとは、、、、。(むろん、後追いですが、、、)他にも日本人の参加者(藤井・田代・早乙女さん等)が、多数いることにビックリしたが、中国人も、日本人と並んで、ファイナリストに、選ばれている。これまでの日本人の肉体的なハンディを乗り越えて、吉田 都氏や、熊川哲也氏らの先達により切り開かれた路を、金賞受賞という快挙で、一里塚を築けたことは、大いに、賞賛に値するものであろうし、後から続く若いダンサー志望者にも、大いに励みになるであろう。それにしても、名だたるコーチの直接指導による練習風景の中で、見られるその手首、指先、足先、足指のしなやかさ、足首、股関節、上半身、下半身の柔軟性、背筋のピンと真っ直ぐに立つ後ろ姿、体幹の軸がぶれないこと、練習によって培われたであろうと思われる無駄のない筋肉美の美しさ、これらには、クラシックでも、コンテンポラリーでも、舌を巻いてしまう。まるで、難しいヨガや太極拳の極意のように私の眼には、映って仕方ない。現代舞踏部門でも金賞受賞であるからには、クラシックのみならず、将来は、現代舞踏でも、大成してもらいたいものである。そして、これまで、あまり、こうした分野に、門外漢を自認している多くの潜在的な観客を魅了させる舞台を、一日でも早く、踏んで魅せてもらいたいところである。それにしても、まだまだ、日本人の若い人には、期待してもよいのではないだろうか?クラシック音楽でも、絵画でも、どんな分野にせよ、、、、、、、。それにしても、東北被災地で、先般、ボレロを踊ったフランス人ダンサーのシルヴィ・ギエムや、ディアナ・ヴィシニョーワという人達の踊りは何と表現したらよいのであろうか? 言葉による、音による、絵による、写真による、そして、肉体による、「表現とは、何か」を考えさせられる。私も、ヨガやティラピスに、負けじとばかり、それこそ、60過ぎの手習いで、精を出すことにすることにしよう。今や、年齢とともに、失われし「肉体による自由な自己表現」を、取り戻すために、今からでも遅くはない、いざ、柔軟体操を、早速、開始してみよう。皆さんも、どうぞ、ご一緒に、、、、、。ヨガの先生の口癖ではないが、無理をなさらずに、適当に手抜きで、他人と比較せずに、、、、、、、。
児童図書や絵本に、はまってしまった訳ではないが、図書館で、簡単に、検索・予約が可能なので、試しに実行してみた。ミシェル・ヌードセン原作、ケビン・ホークス絵、福本友美子訳の絵本である。小さな子供が、本を読むときに、大きなライオンのお腹を背もたれにして、まるで、ソファーのようにして、もたれかかりながら、図書館で、読書出来たら、さぞかし、本当に楽しいだろうなあと大人でも、一寸、そういう願望をそそられてしまうものである。規則の厳格な図書館であると思いがちであるが、規則さえ、キチンと守れば、ライオンですら、静かに、お話し読み聞かせの時間にも、ちゃんと、差別されることなく、参加を許され、本の埃を払うお手伝いも、高いところにある本棚の本を取るお手伝いも、問題ないそうである。そんな自由な雰囲気の図書館で、怪我をした館長を救うべく、助けを呼びに行き、やむを得ず、思わず、ガオーと大声を唸り、その館内規則を破ってしまったライオン。その掟破りのライオンも、結局、みんなの暖かい理解と寛容で、「ちゃんとした訳があるときには、決まりを守れないことだってあるんだ。いくら、図書館の規則でも、、、、」ということで、再び、図書館に舞い戻れたというストーリーである。小さな子供には、文字を一字一句読み聞かせる必要はなく、ひたすら、「絵だけ」を凝視させていれば、自ずと、ストーリーが、理解出来るという構成になっている。確かに、2度目に読むときには、試しに、文字を飛ばしても、絵を観ているだけで、十分、筋書きも楽しめる工夫がある。成る程、「絵本」とは、そういうものなのであろう。原題は、Library Lion であるから、英文を次回は、読んでも、それ程、難しいモノではないであろうと想像される。中学生程度なら、英語の教材にも、良いかもしれない。そう言えば、挿絵にあるように、アメリカの図書館は、確かに、博物館や図書館の入り口には、ライオンの像のようなものがあったのを想い出す。挿絵の中に描かれたその像は、少し、誇らしげに、温かな目で、又、少し、微笑んでいるように、思えるのだが、、、、、。気のせいだろうか?だから、「絵本」を見るのは、愉しいのかも知れない。
何と言っても、天ぷらは、揚げたてを食べるのが一番である。志摩の新鮮な海産物を売りにしている近所の小さな天ぷら屋で、何でも、刺身付きで天ぷら定食が、安く、食べられるというではないか。税務署の確定申告の予約相談会に、例年通り、女房殿に、ご足労戴き、無事、提出も完了したので、ささやかながら、そのお礼にということで、昼食をご馳走することにあいなった次第である。天ぷらには、いくつかの想い出がある。昔、子供だった頃、近所に、「藪伊豆」という老舗の蕎麦屋があり、そこの出前の天丼は、何とも海老の大きいこと、衣のサクサク感、出し汁が、(恐らく、今にして思えば、揚げたての天ぷらを、出し汁に、丸ごと、漬けていたのではないだろうか?)何とも、衣に、しみ込んで、柔らかく、丁度ほどよく、蓋を開けると、ブヨッとしていて、海老の白い肉と外側の赤身との甘みと相俟って、実に美味しかったものである。今では、甲殻類アレルギーで、流石に、天丼は、食べられないが、、、、、、。外人の接待には、昔は、決まって、ステーキ・ハウスか、天ぷら屋と相場が、決まっていた。中でも、水天宮、日本橋浜町の「花長」は、カウンター席の向側の天ぷらを揚げる席が、半月形で、絡繰り人形ではないが、三島雅夫似の禿頭の店主が、座布団の上に座って、ぐるりと、顔を出して、当時、7-8人だっただろうか、カウンター席の人に、揚げたての天ぷらのコースを振る舞い、一段落して、終了すると、今度は、有り難う御座いましたと、お礼を述べて、ぐるりと反転して、裏の席に、とんぼ返りする仕掛けで、とても、外人には、受けたモノである。又、別の有名な天ぷら屋では、海老の生きが大変良いので、決まって、海老の天ぷらは、頭をみそ丸毎、カラッと、揚げて、更に、海老の尻尾までも、これまた、食べることを、勧められた。それからというもの、決まって、天ぷら屋の車エビの海老天は、尻尾まで食べることにしている。別に通ぶるわけではないが、、、、、。所詮、寿司も天ぷらも、その昔は、立ち食いの江戸前のファースト・フードだったが、、、、そんなことを英語で、外人に、説明すると、喜ばれたモノである。懐かしい良き時代の接待の頃の想い出である。それにしても、小エビのかき揚げも、やはり、殻ごと、まるごと、揚げると、美味しいモノである。本当に、海老が、美味しいと感じられた。今日は、じんま疹が出ないことを祈ろう。今日は、久しぶりに、車エビの海老天ぷらとかき揚げを食べたので、アレルギーの薬を多目に、飲んでおくとしよう。
「明治は遠くなりにけり」という言葉があったが、今や、昭和までもが、既に、同じ範疇で、語られようとしている。況んや、江戸時代や、幕末の時代、明治という時代をやであろうか?著者にとって、「重要なのは、在りし日のこの文明が、人間の生存をできうる限り気持ちの良いモノにしようとする合意とそれに基づく工夫によって成り立っていたという事実である。」と、近代文明、或いは、西洋文明という怪物に、翻弄された幕末から、明治初頭に掛けての「日本人の矜恃」を、外国人という視点から、客観的に、一つの文明・文化・生活様式を、数々の異邦人による滞在記や見聞録の翻訳書を通じて、近代知識人論ともとれるような展開を、「ある文明の幻影、「陽気な人々」、「簡素とゆたかさ」、「親和と礼節」、「雑多と充溢」、「労働と身体」、「自由と身分」、「裸体と性」、「女の位相」、「子供の楽園」、「風景とコスモス」、「生類とコスモス」、「信仰と祭」、「心の垣根」、という各省毎の短い簡潔を得た題で、纏めている。「文明開化」と言う言葉や、「西洋化」、「近代化」という言葉は、当時の日本人、とりわけ、知識人にとっては、旧弊の文化の全否定を伴った痛みの上にしか、築けなかったモノなのであろうか?明治期のこれでもかという程、容赦のない、苛烈なまでの様々な制度改革は、やはり、「封建制度は、親の仇」くらい、心の奧底から、憎い程の全否定の対象以外のなにものでもなかったのか?異邦人の眼のみならずとも、当時の日本人の本当の気持ちを知りたくなる。城郭の打ち壊しにしても、今にして思えば、そんな貴重な文化遺産を、こともなげに、打ち壊したのも、単なる政治的な思惑以外に、どんな本音と背景があったのかと、、、、、。「滅び去った旧い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、皮肉にも、異邦人の証言に頼らなければならない」と、著者は言う。まるで、滅び去った古代文明の遺跡が、大英博物館やルーブル美術館に、保管されて、かろうじて、生き延びているのに似ている。そうしたレンズを通してしか、今や、失われてしまった逝きし世の面影は、観られなくなってしまった。「和魂洋才」とは、良く言ったモノであるが、その時代を結局生きてきた人々は、果たして、本当に、どのように、映っていたのであろうか、福澤諭吉にでも、この本の感想を聞いてみたいと思ったのは、私の戯言だろうか?強烈な表情というものが、日本人には、欠けていると言われているが、果たして、豊かな表情を獲得することが、逆に、当時は、幸せだったのか、異邦人の眼で撮られた今や貴重な写真やスケッチや挿絵を見ると、考えさせられる。福澤や明治期の知識人達が目指した、確固たる「個の自覚と独立」は、国家の独立や、国体の護持という前では、戦後民主主義の中でも、否、今日でも、変わらぬ課題であることは、どうやら間違いなさそうである。幕末から明治に掛けて生きた人々は、今ではほとんど失われてしまった美徳を如何に、自然に身につけていたかを、ありありと知ることが出来ると、日本人として、大きく胸を張りたいところであるが、果たして、そんな感傷だけで、良いのだろうか?大切な課題を、脇腹に、グッと、ドスを突きつけられた思いが、再読して、感じられてならない。失われた10年も、今の時代も、又、やがては、逝きし世の面影として、忘れ去れようとするのであろうか?その時は、誰の眼を通して、残してくれるのであろうか、それとも、「残すに値する何物か」が、まだ、残っているのであろうか?それとも、我々は、それを創り出す努力を怠っているのだろうか?
枝豆を夏場には、それこそ、毎日、枝付きで、緑色の豆を、蒸して、その青草っぽい香りとともに、食べたが、冬に、立ち枯れした大豆のさや割りをするとは、思ってもみなかった。都会人は、面の皮は、存外、分厚く出来ているものの、その手指の皮は、何とも、心許ないモノである。分厚い手袋でもしてなければ、手の平も、指先も、全く、傷だらけになってしまいそうである。昔の人は、大豆の豆出しは、竹で出来た「めぐり棒」で、乾燥させた大豆の殻を叩いて、落として、「とおみ」という風を利用した機械で、夾雑物と大豆を選別したそうである。もっとも、夜、囲炉裏で、日本酒を酌み交わしながら、手の方は、大豆の丸い粒を、さやを剥いて、出していたそうである。確かに、冬場の夜なべの仕事には、打って付けかもしれない。取り出した黄金色の大豆の粒は、麹いらずの味噌作りではないが、今流行の無農薬、御手製のマイ味噌には、もってこいかも知れません。昔、タイのチェンライで、枝豆の栽培を試みたが、熱帯特有のひどいスコールで、雨期には、苗が、全て流され、大失敗したことを今でも、枝豆を食べる度に想い出さずにはいられない。ブランチ替わりと、メンバーの一人の誕生日祝いを兼ねた私的なサプライズで、御牧ヶ原にある茶房「読書の森」に、お邪魔した。場所や活動は、昔から、知っていたが、初めて、訪問させてもらった。「茨海小学校跡地」という字がかすかに判読できる樹の標榜が、宮沢賢治の狐の学校の参観の童話に、関係して、建てられていたとは、メンバーに教えられるまで、分からなかった。成る程、宮沢賢治のこの童話を知らないと、実際に、廃校になった小学校の跡地と錯覚しても、分からない位である。又、今では死語になってしまったというエジプト象形文字に関する分厚い翻訳辞書や、様々な絵画の作品、染織工房の作品や、子供図書館や、数多くの古本が、所狭しと、古びた本棚に並べられていて、里山の雰囲気の中、お茶を飲みながら、薪ストーブにあたりながら、好きなだけ読書が出来る茶房である。ガンを患っている愛犬(のんちゃん)の展覧会が、開設もされていた。未だ、雪の残る広場には、ロバや山羊が飼われていて、パオの大きなテントとともに、宮沢賢治のメルヘンを具現したような世界が、御牧ヶ原の里山の中に、童心を持った大きな大人達や小さな子供達の訪問を待ち受けている。又、暖かくなってから、落ち着いて、ゆっくり、再訪したいものである。外に出ると、雄大な浅間山が、御牧ヶ原から、眺望できる。夏の蛍観賞が、楽しみである。
茶房 読書の森HP:
http://www.ne.jp/asahi/dokusyonomori/shinsyu/
茶房 読書の森HP:
http://www.ne.jp/asahi/dokusyonomori/shinsyu/
こもなみ倶楽部の野焼きと麦踏みに、参加するために、小諸へ、前日の昼頃に、入ったものの、部屋の温度計が、マイナス6度で、折角、不凍液を、各ドレインに、注いでおいたのに、蛇口など、凍り付いていた。以前、夜中に到着して、不自由な思いをした経験から、昼間に、冬場は、昼間に入ることにしていたが、それでも、この有様である。今年は、何とも、寒い!外の蛇口から、水を汲み、ガス・コンロに掛けて、お湯を沸かして、そろそろと、蛇口に掛けてから、頃合いを見計らって、水道の栓を開けたところ、どうも、様子がおかしい、変である。水が、チョロチョロとしか出てこない。少し間があり、出始めたので、良々と思っていたところ、蛇口の左手の温度調節部分が、ドスンという破裂音とともに、すっぽ抜けて、同時に、勢いよく、水しぶきが、もろに、出てきて、靴下から、ズボンの膝下部分が、したたか、びしょ濡れになり、慌てて、元栓を締めに、外へと飛び出した。脚が冷たいことと言ったら仕方がない。後で、聞いたところでは、他のメンバー達は、部屋の水洗トイレのレバーが凍結していたり、やはり、水が出なかったり、ドレインが凍っていたりと、同じく、散々だったらしい。翌日の野焼きは、今度は、なかなか、火が草につかず、燃える草と、燃えにくい草があり、おまけに、秋口に、一度、草刈りをして、枯れさせて、堆肥にしていたから、草自身が短く、これも、うまく、火が付かない原因だったらしい。そんなこんだで、まだら模様で、水も準備していたのに、チョロチョロと、たまに、風が吹くと、少し火勢が、良くなる程度だったが、隣の古タイヤに、土手の火が燃え移り、急に、火勢が大きくなり、急遽、これを、退避・避難させて、一応、事なきを得た。枯れ草をもう少し、効率よく、かき集めるべく、家へ戻り、金属製の熊手を、持ってくると、どうも、様子が、これまでと一変している。隣接する隣の畑付近から、もくもくと、勢いよく、白い煙を上げて、おまけに、チラチラと赤い炎が見え、成る程、これが、本格的な焼き畑農法だと、感心していたら、何やら、パチンコ屋の女店員らしき女性が、金切り声を上げて、「消防の応援を呼びましょうか」、と必死の形相で、炎の向側で、叫んでいる。そのうちに、サイレンの音がし出して、ポンプ車や、消防団も駆けつけ、結局、後から、数えてみたら、40-50人の動員体制だった。それにしても、火の勢いとは、すさまじいモノである。確かに、大規模な野焼きで、焼死者が出るのも、わかる。それも、毎年経験しているベテランですらである。こちらは、況んや、素人をやである。道を隔てたところには、民家が点在していたが、幸い、風向きの加減で、被害はなかったが、今にして思えば、ゾッとする。それにしても、雑草は、枯れ草になると、ほんとに、一寸した火種でも、風により、飛び散り、あっという間に、燎原の火の如く、燃え広がるモノである。ここでも、皮肉にも、耕作地の放棄の実態に遭遇することになった。もうひとつの隣接する土地の所有者の名前も消防・警察では、分からず、消失した土地の持ち主も、老夫婦で、滅多に、田んぼにも、来ないと、責任者が詫びに行ったときに、大きな屋敷で、説明があったそうである。関連する土地の区長や、消防・警察に、こちらの耕作放棄地の再生活動が、皮肉にも、伝わり、ご親切にも、消防関係者からは、最後に、「有毒ガスなど、吸いませんでしたか?」と暖かな言葉を掛けて戴き、恐縮した次第である。結局、麦踏みどころではなかったし、皮肉にも、当方の畑は、黒い斑で、隣の畑は、見事に、真っ黒に、一面丸焼けだった。何はともあれ、大きな事故と損害を出さずに済んだことは、教訓としなければならない。夏に、収穫した野菜を、地元の消防団にも、配らなければ、申し訳ないと思う。今後、野菜作り、田植え、夏の蛍観賞、秋の稲刈り、小麦のうどん作りなど、予定されている。禍転じて、福となることを、、、、、。
室内に、置いてある何種類かの小さな鉢の蘭が、その白い花を咲き始めたり、つぼみを大きくさせ始めた。花の真ん中にある黄色い花弁に、鼻を押し当てると、かすかに、ほのかな品の良い香りを嗅ぐことが出来る。冬の庭は、草花が、枯れ果てて、ポットに、植え付けられたビオラやパンジーも、今や、花がしぼんでしまい、この厳しい寒波のせいか、元気なく、しおれ始めた。今一、避寒対策も、効を奏することがなかったようである。それにしても、新潟などの日本海側の豪雪のニュースを見るたびに、これは、ただ事ではないと感じる。都会では、一寸、雪が降っただけで、都市機能も、日常生活も、とりわけ、通勤・通学の脚が、混乱し、麻痺してしまう。困ったことである。ちょっとした坂道でも、スリップして、交通網も寸断され、舗道を歩くことすら、難儀する始末である。雪国の人々は、それに比べると、実に、我慢強く、逞しいものである。亡くなった母は、雪深い新潟県高田の出身だったから、「雁木」(がんぎ)や、「かんじき」等の話を、冬になると、私の小さいときには、よく、話題にしていた。「厳しい冬と寒い雪が、北国の人を強くするのだ」と、いつも、口癖に、誇らしげに、言っていたことを想い起こす。暖かい室内で、ぬくぬくと、蘭の花の開花を観ながら、ふと、そんなことを想い出した。北国の春は、未だ、遠そうである。
何とも、惨憺たる有様である。どこを見渡しても、著名な大手製造業の会社が、赤字である。とりわけ、これまでリードしてきた家電業界は、厳しい。ソニー、パナソニック、シャープ、NEC,等、ついこの間まで、亀山モデルだとか、プレイステーションだとか、言っていたものが、有機ELテレビも、太陽電池もそうである。ファースト・ランナーだったのに、いつの間にか、創業者利益は、どこかへ、消え去り、サムスンや、中国企業にも、追い抜かれてしまい、今や、後塵を拝する始末である。選択と集中とかという言葉に、体よく、弄ばれ、結局、設備投資のタイミングも決断できない体力に陥ってしまった。確かに、為替レートをみただけでも、ビックリする程の短期間での超円高であるし、それに比べて、韓国ウォンの超安いレートは、黙っていても、国際競争力の強化を加速させているのは確かである。それにしてもである、、、、、、、。それらを差し引いても、、、、、、、。ひどい状況であることに変わりはない。ソニーを例にとっても、ニーズなり、シーズなり、それなりに、その昔は、画期的な新しい製品を、作り出すために、市場調査、マーケティング分析し、革新的な技術開発へと、ハード面でも、ソフト面でも、新商品という形で、具現化させていったものである。トランジスタ・ラジオも、ウォークマンも、VTRレコーダーも、CDレコードも、ゲーム機も、液晶テレビも、単なる技術革新だけではないプロジェクトXの「夢への意気込み」や、「新しい未来の技術への挑戦」とかいうものが、技術者による「夢への果てしない挑戦」があったように思えるが、、、、、。今や、工場を持たないファブレス企業のアップルに取って代わられてしまった。まるで、捕鯨産業ではないが、一度、途絶えると、再び、復活させることは、至難の業と同じである。産業、或いは、国の栄枯盛衰・興亡は、世の習いであるが、そんなことも、言っていられない状況である。コンテンツを、商品やネットワークに接続するために、映画やビデオやゲームに、注力した割には、その買収価格に見合った利益が、十分に、生かされていないのが、現状である。どこかの球団を買収したゲーム会社ではないが、「実業の物作りの精神」が失われて、メーカーを踏み台にした、訳の分からぬ、無料と称した詐欺紛いの「虚業のコンテンツ産業」ばかりが、いつのまにか、巨額の利益を貪り、隆盛を極める世の中になるとは、何とも皮肉である。果たして、これが、理想的な成熟社会に向かう途上であると、断言出来るのか?何とも、心許ない限りである。自分の手で、ものつくりをしなくなった人間が、マニュアルを、システムを、果たして、構築できるのであろうか?「ファブレス」という言葉が、一時期、もてはやされたが、本当に、この国は、ファブレスで、やっていけるのだろうか?何やら、イリュージョンに、魅せられたような奇妙奇天烈な時代に、入ってきたような気がしてならない。
シリーズ、3作目の1964年の東京オリンピックが開催された年のことである。弟が、聖火リレーの走者の一団の一人として、青梅街道を、走ったのを覚えている。又、住み慣れた旧い家を、新しく建て替えたこと、ステレオやカラー・テレビやクーラーを、父が、それに合わせて、購入したこと、半年間に亘る建て替えの合間に、誰かから戴いた江戸川でつり上げた大きな鯉が、たらいに入れられていたこと、それを祖母が料理してくれて家族一同で食べたこと、西日の暑い2階の部屋、夜、窓ガラスの裸電球を通して、群がる小さな虫を、捕食するヤモリを初めて見たこと、何故か、その四肢の小さな丸い吸盤が、ガラス越しに、印象的だったこと、後年、ベトナムで、部屋の中で、ヤモリが、ケケケと鳴きながら、這いずり回っても、何となく、懐かしく想えたことを思い起こす。もう、50年弱も前の昔のことである。既に、世代は、代わりつつある。祖父母から、父母の代へ、そして、私の代へ、更には、子供達の代へ、更には、今度は、孫の代へと、移ろい代わってゆく。映画の中でも、そうである。売れない小説家、茶川竜之介が、勘当された父から受けた本当の気持ちを、その死後に知り、里子に対して、同様に、小説家としての気概を伝える場面、集団就職してきた住み込みの女工さん(堀北真希演じる六子)から、東京の両親として、結婚式当日、お礼の挨拶を受け、送り出す場面、どちらも、「世代の交代」を印象づけるものである。むろん、幸福度を推し量る指数等は、そこには、どこにもないが、「本当のささやかな幸せ」とか、「若い人の夢」とか、「希望」、「夫婦愛・家族愛」が、少なからず、垣間見られる。時代考証的には、風景、様々な看板、映画のポスター、商品の広告、ベーゴマの台、赤いコカ・コーラの自動販売機、それを見張っている主人(ピエール瀧演じる氷屋)、町並みのゴミ箱、エレキギター、銀座のみゆき族、手塚治虫とおぼしき赤いベレー帽を被った漫画家、等、細かな服装、建築、意匠、もみじや、すすき、赤とんぼも含めて、できる限り忠実に、フォローされている。3Dだと、ご飯粒や、赤とんぼの群れ飛ぶ場面なども、きっと、目前に、迫ってくるのであろうが、2Dでも、十分、VFXや時代背景は、楽しめる脚本である。「世代の交代」と「時間の移ろい」に合わせて、今後、鈴木オートの社長家族や、茶川竜之介の家族達が、どのように、年取ってゆき、世代交代が、続くのだろうかと、その50年後が、楽しみになるところである。50年後の「ALWAYS 3丁目の夕日 2114」は、どうなっているのであろうか?50年も前に確かにあったものが、50年後も、確かに、あるのであろうか?それとも、失ってしまうのであろうか?「今、現にそこにある確かなモノ」は、時間の経過とともに、後年、懐かしさという言葉とともに、「失われてしまうモノ」なのであろうか?オリンピックという高度成長の宴の終了とともに、構造不況の足音が、既に、近寄っていたことは、むろん、この映画には、出てこないし、飽くまでも、未だ、「いつも、3丁目の夕日」は、残光を放ちながら、沈み行く真っ赤な夕陽は、まだ、人々の「希望」の象徴として、明日へと繋がる想いで、暖かく、描かれている。それにしても、大きな映画館が、満席だったとは、驚きである。
今から2年前に、乳がんを宣言して、逝去した作者の佐野洋子(3人目の妻)の元夫が、詩人の谷川俊太郎だったとは、知らなかった。七生報国(七度生まれ変わって、報国する)ではないが、主人公の猫は、100万回も、輪廻転生し、生まれ変わったのである。そして、死ぬたびに、主人は、悲しがったが、何故か、猫は、ちっとも、悲しくはなかったと、、、、。何故なら、猫は、それぞれの主人達が、王様であれ、泥棒であれ、小さな女の子であれ、みんな、嫌いだったから、、、、、自分だけがすきだったから、、、、、。しかし、やがて、野良猫に、生まれ変わり、自分のことを全く気にも止めない白い猫と出会い、恋をし、結婚をして、たくさんの子供達を作り、そして、育児し、自立させて、愛する白い猫が、歳をとり、老いてゆき、やがて、死んでしまった時に、100万回泣き続けた末に、とうとう、本当の意味で、主人公のトラねこも、死んでしまい、決して、再び、生き返ることはなかったのである。自己愛から、利他愛への理解、或いは、死ぬということの本当の意味、「他人を愛すること」の真の意味、「死ぬことの真の喜び」、如何様にも、それぞれ、読者の年齢や、経験・世代によって、解釈は、様々、異なるであろうが、子供だけではなくて、大人にとっても、既に、輪廻転生の粗筋は、事前に、表題から、分かっていても、改めて、「死ぬということの本当の意味」を、考えさせられるものが、この絵本には、あるような気がする。むろん、それは、逆説的に、「生きることの意義」にも、繋がることは、言を俟たないが、、、、、。介護で、疲れたときや、育児に悩むときには、是非、そういう人達にも、読んでもらいたいとお勧めしたくなる一冊の絵本である。各ページのイラストの絵も、武蔵野美術大卒らしく、味がある。我が老犬にも、読み聞かせたいと思った。ところで、何故、題名は、100万回生きたねこであって、100万回死んだねこではないのだろうか?。死ぬ喜びを初めて知った猫には、きっと、それが、「生きたということの証し」だったのかもしれない。何とも、難しい問題を含んでいるような気がする。大人にも、むろん、子供にも、考えてもらいたいものである。又、読み返してみたくなる絵本である。
http://booklog.jp/users/nkmrimc
http://booklog.jp/users/nkmrimc
まだ、冷房が家庭に、普及する昔、夏の暑いときには、友達と図書館で、勉強したりしたが、独立してから、経費で、新聞や本代を書籍・図書費で、経費処理出来るようになってからは、図書館の利用の必要性など、あまり、痛切に、これまでは、実感してこなかった。友人ではないが、経費処理が、難しくなってくると、図書館で、本を借りて読むようになったよと言われたが、まさか、自分も、事業の整理とともに、そうなるとは全く、思ってもみなかったものである。もっとも、実際に、利用してみると、何故、もっと、早くから、この「知の宝庫」と呼ばれている公立図書館を利用しなかったのかと、反省しきりである。今や、PCとパスワード登録で、簡単に、探している本の題名も容易く、検索でき、且つ、リクエストも可能であるとは、、、、、。これまで、本屋や、古本屋や、ネットの本の検索・注文は、何だったんだろうかと思う始末である。大人が読んでも面白い絵本などは、読みたいものも、ページ数が、少ない割には、結構、小売価格が高く、立ち読みでもすむくらいであるが、何せ、間欠性跛行の歩行弱者の身では、じっと、長い間、立ち読みもままならないのが現実である。子供の児童図書や、高価な美術本は、図書館を利用しない手はないことが分かった。子供にも、小さい頃から、夫婦揃って、休みには、図書館で、一緒に、本でも読み聞かせたら、電車の中で、我が儘し放題のガキ等には、きっと、ならないであろう。今日は、鳥やフクロウの生態に関する本と茄子の料理本、美術本を書棚コーナーの小さな椅子に座って、読み終えた。何とも充実した本の品揃えである。おまけに、書店で、買えなかった高価な絵本も、リクエストしてしまったが、、、、、。ネット検索、新聞検索、等、何とも、充実しているのには、驚かされる。それにしても、結構、席が一杯だったのには、更に、驚かされたが、、、、、、。
PS) 取り寄せのリクエストをネットでしたところ、翌日には、返事がメールで、取り置き済みの知らせが、確認出来るとは、驚くべきスピードである。何はともあれ、早速、読むことにしよう。
PS) 取り寄せのリクエストをネットでしたところ、翌日には、返事がメールで、取り置き済みの知らせが、確認出来るとは、驚くべきスピードである。何はともあれ、早速、読むことにしよう。