小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

タラの芽を食す!:

2014年05月15日 | 社会戯評
タラの芽を食す!:
信州の春は、山菜がおいしい。とりわけ、てんぷらやおひたしなどは、実に季節感があって宜しい。敷地内にある昔から自生している棘のあるタラの芽は、毎年、食べられることがないせいだろうか、背丈ほども伸びてしまっている。今年は、GW前に先端に、芽吹きが生じていたが、あっという間に、葉っぱになってしまった。それでも、家族が天ぷらの材料にしたいというので、ひとつかみほど、やわらかいところを摘まんできた。ついでにといっては何だが、その他に、昼間に、散歩がてら摘んできた土筆とヨモギの葉っぱを天ぷらにして、料理して食べることにした。更に、こごみも、ワン・パック産直売り場で購入してきたので、これを熱湯で湯がいて、鰹節を掛けて食べる。なかなか、揚げたては、贅沢なものである。タラの芽、土筆、ヨモギの葉の天ぷら、こごみにタケノコの煮付けと、何とも、繊維質たっぶりの贅沢な料理である。昔の人は、きっと、季節、季節毎に、こんな風に、自然の恵みをたっぷりと味わいながら、自然に感謝したのであろうか?なかなか、味わい深いものがある。ほんの少し感じられる苦みも又、身体には、きっと、良いのではないかと、思えてこよう。これは、バーベキューとは別に、毎年、GWには、欠かせない料理となった。来年も愉しみたいものである。もっとも、たくさん食べるモノでもないが、、、、、少量を、季節の旬を感じながら食するのも又、宜しいのではないだろうか。田舎歌舞伎ではないが、何か、先人の気持ちが、少しでも、理解出来そうな気がしてならない。

和菓子屋と洋菓子屋:

2014年05月14日 | 社会戯評
和菓子屋と洋菓子屋:
都会では、全く、この二種類の菓子屋は、分業であろうが、地方では、なかなか、味のあるものである。女房殿が、小さな和菓子屋で、お団子を購入したいというので、初めて、その和菓子屋を捜しながら、車を進めて、多分この辺りであろうとおぼしき周辺で、眼を凝らしてみても、それらしき小さな和菓子屋は、見つからない。仕方なしに、Uターンをしようとして、ぐるっと廻ると、大きな看板の目指していた和菓子屋の屋号が飛び込んできた。小さな和菓子屋ではない。立派な大きな和菓子屋である。中に入ると、何とそこには、古道具屋や、江戸時代からであろうとおぼしき箪笥や様々な小道具が展示されているではないか、しかも、和菓子だけではなくて、洋菓子までもが、ショーケースに並んでいるではないか?成る程、店自体も、扉は、恐らく昔先人が使用していた木製の扉をそのまま、活用して、或いは、生活の中で使用していた旧い道具をインテリア・デザインとして、オーナメンテーションとして、活用し、更には、いつの頃からは知らぬが、店主が、きっと、和菓子から、ケーキやスイーツを創作して、時代に、応じて、その和菓子という伝統の味を守りながら、洋菓子にも、商売の幅を拡げて、きっと、今日に、至ってきたのであろうことは、想像に難くない。そう思うと、他の旧家の和菓子屋さんも、成る程、どういう訳か、洋菓子も同時に、提供していることを改めて、想い起こされる。胡桃菓子で有名な和菓子屋も、確かに、くるみのスイーツやケーキも売っていたし、一寸したギャラリーを併設していて、地方の文化活動を支援していることを想い起こした。串団子を3色購入して、食したところ、何と、中身の餡は、胡桃餡であった。なかなか、これは、東京ではお目に掛かれない一品である。むろん、ついでに、食べてはいけないリストの筆頭である洋菓子ケーキも、特別の許可の下、購入して貰った。これ又、和菓子に負けじとばかりに、大変、よろしい味わいであった。子供の頃に食べた一寸大人の味愛の洋酒がたっぷり含まれたサバラン、大変、美味しゅう御座いました。地方都市ならではの和菓子屋の古き良き雰囲気を併せて味わいことが出来ました。商品力もさることながら、やはり、店舗の雰囲気は、ネット通販とは、又、別のものがあるようである。

ボクシングのチャンプとは?:

2014年05月13日 | スポーツ
ボクシングのチャンプとは?:
どうも、ボクシングというスポーツは、客観的な実力の評価とか、戦前の情報戦も含めて、えこ贔屓過ぎるスポーツではないだろうか?それは、丁度、自らの願望やら、期待がいつも一人歩きして、いつしか、それが、勝利という毒のような悪夢すらも、忘れてしまうところがあるようである。それは、ファンのみならず、スポンサーや放映権を有するテレビ局をも、その毒に犯されてしまうかのようである。井岡の三階級制覇への挑戦などは、その最たるモノではないだろうか?素人が、どんなに贔屓目に観ても、懐に入り込めない以上、有効なパンチなどは、そのリーチ差からも歴然ではあろう。ましてや、年齢差とその老練なキャリアから、そのハングリー精神から拳ひとつで、タイの刑務所から這い上がってきたそのチャンプは、当然、失うべきものが大きく違っていたのかも知れない。技術的には、明らかに、圧倒的に挑戦者井岡の負けは、歴然であろう。綺麗なノック・アウトも、試合的には、或いは、興行的にも、望ましいのであろうが、実際、もっと、こうした一種のドロドロした、やや、汚らしい、いやらしい試合も、何か、日本人の生き方や、世界の中での日本人の在り方を見せつけられたようで、実に、面白いではないか?社会の底辺から、のし上がってきたタイのチャンプに、挑戦者の天才、井岡は、もっと、学ばなければならないのかも知れない。汚い面白くない試合、チャンプが逃げ惑うばかりの試合といってしまえば、それまでであるが、私には、どうしてどうして、日本人の有していない、むしろ、忌み嫌うような要素を観られて、実に面白い試合であったと云って良かろう。もう、何でも金満で、金にものを云わせて、世界戦も自国興行権もすべて有無を言わさずに、思うがままに、行おうとするボクシング業界は、逆説的に、ある種の人間像を投影しているかのようである。ボクシングも、そんな風に、観ていると面白いものである。

カセット・テープ復活の怪?

2014年05月12日 | 社会戯評
カセット・テープ復活の怪?
今、再び、カセット・テープが売れているそうである。しかも、それに伴い、ラジカセまでもが???何も、年寄りの習い事や、CDが使いこなせないと言うことではないらしい。むしろ、1発選曲が出来ないと云うことから、ミュージシャンには、結局、全部聞いて貰えるので、トータルな音楽性やメッセージ性が伝えやすいということもあるそうである。こうなると、まさに、弱みが、強みに転化してしまうマーケティングの理屈にピッタリではないか?しかも、震災以降、電源が途絶えても、データ・バックアップが、ブルーレイ・ディスクよりも、170枚相当が、1本のテープに納まり、改めて、磁気テープの大容量保管に適するとかで、NASAやGoogleで、再注目され始めているそうである。いやはや、こうなると、全く皮肉なことである。こうなると、ソニーのウォークマンや昔のアイワのカセット・レコーダーも各様の可能性があるのであろうか?すり切れた音楽テープももう一度、再復刻する可能性があるかも知れないが、もう、レコード屋がないので、何処で買えば良いのであろうか?1週遅れのマーケティングという言葉が、昔は使われたが、2週でも3週でも遅れても、陽の目を見ることがあるのかも知れない。世の中、捨てる神あれば、拾う神ありで、面白い。こうなると、断・捨・離などに、やはり、乗せられて、みんな処分出来ない人々には、これは、朗報かも知れない、、、、、、、、、。実に皮肉な出来事である。

いよいよ、今年最後のお花見か?:

2014年05月11日 | 自然・植物・昆虫
いよいよ、今年最後のお花見か?:
今年も何度か、色々な所で、お花見をしてきたが、いよいよ、今年もGW明け頃には、終盤が、とりわけ、山桜の後は、最後の八重桜の花見で、終了である。高遠城趾の桜を、一度は、観たいと思うが、余りの交通渋滞や人混みでは、なかなか、二の足を踏んでしまうものである。それよりも、地場の誰も観ようとしない桜並木や、人知れず密かに咲き誇る山桜を観賞する方が、ずっと、何か、マイ桜のようで、情緒があって良さそうではないか?今年も、いよいよ、最後の花見で、といっても、花の下で、飲めや歌えの宴席ではない。ただ、見上げて、その花の美しさを味わうだけのことである。もう、この最後の時期になると、レンギョウや、山吹などの花達も咲き誇り、あるものは、既に盛りを過ぎていたり、花を落とそうかとするころであるものの、まだ、その黄色の色合いと緑の葉と、そして、桜の淡いピンクの花と、山桜の花びらが、風に舞いながら、ハラハラと落ちて行く様は、毎年、それを愉しみに観ているとは云いながらも、実に、春の情緒を表すようでいて、素敵な光景である。長いどんよりとした冬の情景から、やっと、暖かな冬を迎える北国の春という情景が、まさに、現れる一時である。又、1年後も同じように、愉しみたいものである。愛犬の盛り土の上にも、やがて、八重桜の花房が、落ちてこようか、、、、、、、。

ミャンマーという国で考える:その3

2014年05月10日 | 社会戯評
ミャンマーという国で考える:その3
ヤンゴンでは、この1年くらいの間に、日本食レストランが、2倍に増えて、60軒以上も営業しているそうである。まだ、日本人や韓国人が主体らしいが、恐らく、タイヤベトナムをみても、間違いなく、生活の向上と、外国人観光客の増加に伴って、恐らく、100軒程度に、後数年もすれば、達することは間違いないであろうか?では、食材の調達は、どうしているのであろうか?やはり、ほとんどは、自前の運び屋でのバンコクや築地からの持ち込みだそうである。ここでも、この国は、二重経済である。表向きの正規ルートの鎖国化と、裏の顔である、運び屋や、山岳地帯の国境越えによる密貿易による輸出入である。何とも、コンプライアンスという言葉が、馬鹿馬鹿しいほどに、空虚に聞こえてくる。これが現実なのであろう。経済がオープン化するまでには、どうやら、こうした二重構造が常に、併存・共存するか、当局は、現状を知りつつも眼をつぶっているというのが、現実なのかも知れない。良いか、悪いかという価値判断を下している限りは、無理であって、現実というものは、実際には、こういうものなのかも知れない。その意味では、大きな組織に属していないやる気のある人には、とても、面白い国であり、ビジネス・チャンス、とりわけ、ニッチのマーケットで、カネがなくても、身体一つで、頭を使えば、チャンスをいくらでも掴むことが可能な日本華僑にとっては、面白い国であるのかも知れない。何も、狭小な堅苦しい日本に住んで、鬱病に悩まされるよりも、こうした無限の可能性のある国で、勝負した方が、確率的には、良いのではないかとも思うが、そういう若者は、出てこないのであろうか?今更、自分は、そんなことをする気はないが、人間やる気さえあれば、何でもチャレンジできるような気がしてならない。現地の人が余り食べないカレイを唐揚げにした料理が、居酒屋で出てきたが、いくらでも、頭を使えば、チャンスがそこここに、転がっている。頭は、生きている間に使うべきである!もう一度、人生にやり直しが可能であれば、ベトナム同様に、チャレンジしてみたくなってしまったが、、、、、、、、、。勿体ない話である.無限の可能性にまだ富む数少ない残されたアジアの国のひとつであろうか、ミャンマーという国は、、、、、、、。これから、若い旅行者が、きっと、ベトナムやカンボジアやインドネシアに旅行した人達が、ミャンマーにも出掛けてくることは、容易に想像がつく。

ミャンマーという国で考える:その2

2014年05月09日 | 社会戯評
ミャンマーという国で考える:その2
自国の銀行を信用しないと云うこととは、どういうことなのか?何とも、不可思議な国である。決済方法が、すべて、シンガポールにある自社の銀行口座でのドル決済である。これでは、世界銀行の資料にも表の数字等は、全く当てにならない。まさに地下経済以外の何ものでもない。しかも、土地持ちは、皆、一様に、不動産地価の高騰で、金持ちになっている。貧乏人は、ますます、土地は買えない、一生、労働者から抜け出せないのであろうか?まずは、土地活用の話が先行する。まるで、自国の国債を絶対に買わないというのに等しいではないか?いやはや、話を聞けば聞くほど、実に、狂気深い面白い国である。中国人は、鎖国の間に、経済制裁下を利用して、資源を簒奪したい放題にして、ミャンマーを食い物にして、タイ人は、歴史的な対立のせいだろうか、ミャンマーを常に、見下し、鎖国で貧乏な状態にしておくことを意図して、海上の国境を超えて、常に、水産資源を自国へと無断で、持ち去っていると、面白い話に、ミャンマーの海上警備艇は、タイの漁船にすら、そのスピードで追いつけないと、又、マレーシアの漁船は、警備艇に、ドラム缶1本の重油をプレゼントして、それで、無罪放免だそうである。もうこうなると、まるで、幕末の日本へタイム・スリップしてきたような錯覚に陥る。成る程、これでは、知識のある人間が、裏経済で、ブラック・マーケットで、巨大な甘い汁を吸いたい放題であろう。シンガポールという国も、実は、ケイマン諸島同様に、こうして、金融で成り立っていることに、思いを巡らせることになった。もうシンガポールには、観光でも行くつもりがなくなってしまった。あの高層ビルのてっぺんに浮かび上がる巨大な観光名物のプールも、こうして成り立っているのかと思いを巡らせると感慨深いものである。観光という表の顔と国債や地下経済という裏の二重の顔が一皮剥けば現実の顔なのであろうか?厚化粧の裏の顔を、実はミャンマーという国で垣間見ることになる。うすうす、知っていたものの、改めて、現地の複数の人達から、話を聞いてみて、実感すると考えさせられてしまう。日本人とは、一体、何ものなのであろうか?そして、江戸時代の鎖国という政策は、300年もの長きに亘って、本当に、続けられていたのか?長崎の出島は、その意味で、世界へ開かれたインテリジェンス情報と世界貿易の経済特区だったのであろうか?そう考えると江戸幕府というものも、実は、単なる封建制度に乗っかったものだけとは云えないかも知れない。ミャンマーという国は、常に軍事政権が、あるときは、国を開いたり、突然閉ざしたり、自分の都合の意のままに、それを繰り返してきた歴史を有する国のようである。その中で、企業家は、どのように、生き抜き、利益を確保してきたら良いのかを考えた末に、一番安全で、且つ、高利回りの海外資産という二重経済の道を選び、これにより、外貨の交換レートというマジックを使用することで、海外に、或いは、国内で、巨万の富を築くことになったのであろう。成る程、これでは、キム・ジョンウンの北朝鮮の経済と同じではないか?成る程、そういうことなのであろう。日本という国も、戦前では、多かれ少なかれ、同じとは云わぬが、似たようなことを一部の人間は、軍部や特権階級と結託して、やっていたのかも知れぬし、同様のことは、確かに、ロシアでも中国でも、何処でも、未だに、まさに現在進行形なのかも知れない。ロンジーを腰に巻き付けて、ワイシャツ姿のビジネスマン達をみていると、幕末のちょんまげ姿で、背広を着ていた武士の姿が、二重写しに目に浮かぶのは、皮肉である。アジアの成長を日本も自国の成長に取り込まなければならないのは分かるが、何とも、複雑な思いがする。所詮、経済成長するときは、そんなことをすべて、糞も味噌も、すべて、ごちゃ混ぜになって、押し流されて行くものなのであろうか?バスに乗り遅れるな式の発想しか、残されていないのだろうか?そういう矛盾の中でしか、所詮、我々は、生きてゆかなければならないのであろうか?そんなことを考えているよりも、土地の有効活用を考えている人間の方が、結局は、ますます、富むことになるのであろうか?それが、現代社会の自明の理のような気がしないでもない。このミャンマーという国では、、、、、、、、。それでも、この国の人々は、必死に、生き抜いて行かなければならないのである。日本人には、果たして、何が出来るのであろうか?自問自答してしまうが、、、、、、、。

ミャンマーという国で考える:その1

2014年05月08日 | 社会戯評
ミャンマーという国で考える:その1
この鎖国に等しかったこの国は、未だに、入国ビザの申請許可がなければ入国は出来ない。何とも、年寄りには、億劫な国である。しかも、ベトナムやタイよりも更に、1時間余り西に、飛ばなければならない。7時間余りの空の旅は、何とも、腰の悪い老人には、結構、長旅である。圧倒的に、入国手続きは、自国民よりも外人が多く、飛行機が、重なり合ったら、どうなるのかと思われるほど、列が長い。しかも、特権階級は、訳の分からぬスタッフが、お出迎えで、簡単に、イミグレは、通過できるのも何とも、この国の現状を暗示しているようでいて、興味深いものがある。それにしても、8年ぶりの割には、車の混雑は、ターミナルでも相変わらずのものである。街中は、バイクが通行禁止のようで、車社会である。電力事情の逼迫で、町全体が街路灯も含めて、そんな余裕はないので、全体的に、暗いので、こちらの眼もそれに連られてか、目がよく見えないなる錯覚に落ちることになる。交通信号の仕組みもよく分からない。やたらと、ある箇所では、猛烈な渋滞に陥るかと思えば、スムースに、スイスイ走り出す道路といい、なかなか、事情が飲み込めない町である。イギリスの植民地主義の趣を残した住宅や、庭園は、歴史の重みを感じられる。ロンジという腰巻きを巻き付けて、男性もゴム・スリッパで、民族文化と上は、ワイシャツというなかなかのアンバランスでも、結構、身分の高い人でも、そんな出で立ちで、現れるのには、少々こちらの方が、面食らってしまう。まるで、ちょんまげ姿で、背広をきているような感覚と云えば、分かりやすいのかも知れない。それにしても、この国は、他の東南アジアの国に漏れず、やはり、地下経済のお金が、鎖国のせいなのか、どうなのか分からぬが、表に、出てこず、それが、ここ3年くらい前からの軍事政権による民政・改革下の流の中で、徐々に、表に出始めてきたようなそんな感じがする。しかも、土地を所有する人間には、地価の上昇という傾向から、結局、それが、事業投資やら、不動産投資という形で、お金が形を変えて、今後は、証券市場とか、債券市場とかに、流れてゆくことになるのかも知れない。そんな段階である。だから、どうも、潜在的な富裕層の人々は、軍人も含めて、何に、投資したら良いのかを模索しているものの、専門的な知識とテクニカル・ノウハウに欠如しているように思えてならない。思うがママに、これまでは、その潜在的な資源や地下経済の資金が、地下水脈のように、国境を超えて、中国に、中国人経由で、吸い取られていたようである。逆説的に言えば、この流が、いまや、逆流のように、西洋、欧州、日本やアメリカを含めて、激流のように、ぶつかり合っているように思えてならない。私には、仮に、日本の若い人で、お金はないが、ある種のノウハウを有する人には、もの凄く、魅力と可能性を秘めている国に思えてならない。丁度、私が、ベトナムのドイモイが始まった頃に仕事をし始めた状況に酷似しているのかも知れない。お金がなかったら、身体を使うか、脳みそを使うしかない。知恵を編み出すしかない。そうすれば、自ずと道は開かれるようにも思えてならない。水産でも農業でも、宝石でも、今回、様々な分野の人達と意見交換し、アドバイスをしてきたが、すべてに共通することは、ノウハウがないと云うことである。とりわけ、ソフトウェアー的なノウハウが無ければ、どんなハードウェアーを導入したり、買い付けても、猫に小判のような物なのかも知れない。それは、あらゆる事業に云えるのかも知れない。接客業でも小売業でも、何でも、可能性に溢れているのかも知れない。何故、若い日本人は、日本国内に拘るのであろうか?人生に、何度でも、やることが可能であれば、これは、海外で、試してみても決して、無駄ではないであろう。8年前に、訪問したときに感じたことが、未だに、可能性があるということは、一体、どういうことであろうか?60軒以上にも及ぶ大小の日本食レストランは、もう、これだけで、ビジネス・チャンス以外のモノはない。野菜の栽培でも、可能性はあるであろう。それにしても、格差社会の前兆がそこここで、垣間見られる。それは、次に書くことにしよう。

便利すぎる(?)航空券:

2014年05月07日 | 社会戯評
便利すぎる(?)航空券:
何ともその昔には、海外出張時には、分厚く束ねた航空券を、その都度、発券後には、チェックして、間違って切り取られていないかを再確認したものであるが、一度だけ、同行していたお客さんと冗談で、結構、メキシコでは、間違うことがあるので、注意して下さいねと云っていたところ、本当に、誤って切り取られていて、事なきを得たことがあったことを懐かしく想い起こす。最近では、マイレージ・サービスを事前登録したせいだろうか、全日空で、二次元バーコードで、勝手に(?)携帯電話に、メールで、ボーディング・パスが、送られてきたのには、驚いてしまう。いやはや、ペーパーレスも、ここまでくると、戸惑ってしまうものである。まず、チェックインの時に、荷物を預けようとすると、、搭乗券を拝見とばかりに、そして、カウンターで、又、もう一度、そして、手荷物検査所で、もう一度、これで、もう3回目である。更に、今度は、イミグレで、パスポートと一緒に、もう一度、4回目、更に、搭乗時に、もう一度、何と5度目である。もうその都度、携帯電話の画面を探し出し、おたおたを繰り返し、後ろの客に、何をしているのだと覗かれる始末である。これが、本当に、「カスタマー・フレンドリー」なのであろうか?困った便利すぎるサービスである。おまけに、帰りの搭乗券も現地で、メールが、来るので、それを提示して下さいと、、、、、、。本当に、来るのであろうか?何かの不具合で、来なかったら、どうするのかと、、、、、、、全く、心配である。もう、年寄りは、流石の私も、これには、参ってしまった。一体どこまで、顧客を置き去りにして、「便利すぎるサービス」は、進化するのであろうか?