今を去ること二十年ほど前、平成3年前後のあるとき、私は例によって三ノ輪の辺りをウロウロしていた。都電を大塚から乗って、三ノ輪橋で降りた。
三ノ輪というともっとシメシメした情緒のある下町だと思っていたのに、目の前にすごい道幅の五差路があって、私はちょっとたじろいだ。右に行けば吉原で投げ込み寺と言われている淨閑寺。まっすぐいけば、日光街道を北上することになる。
はら~~~。これって、「将軍江戸を去る」のルートじゃないかしら…。そう思って、ちょっと私は泣きそうになった。大政奉還したあと、上野寛永寺にこもっていた最後の将軍・慶喜公が、江戸を離れ水戸へ去るときに通った、真山青果の芝居でものすごく泣ける、千住大橋へ続く道だ。
平成ひとケタ時代、メリハリのある口跡で、新歌舞伎ものを得意にしていた今の中村梅玉が、徳川慶喜を演じていた。
つい昨年、前進座が八十周年記念公演で、「江戸城総攻」と、松本清張の「無宿人別帳~左の腕」をかけた。客席はみな、世話物の「左の腕」で中村梅之助にしみじみとしていたが、私は一人、「将軍江戸を去る」で目を真っ赤にしていた。…もう、堪えきれずに、泣けたのだった。こういうテーマが胸に迫って泣き腫らしてるワタシって、もはや前々世紀の遺物なのか…。
そうだ、ここら辺には、あのお師匠さんが住んでらしたな、と日光街道の車の往き来の激しいのを横目で見ながらふと思った。三ノ輪橋に当時、流派を超えた勉強会でご一緒していた、三味線方のお師匠さんの家がその辺りにあった。
大正生まれの、丹下キヨ子を可愛くしたような感じのおしさんで、楽屋で三味線の支度を一緒にしていたら、そのおしさんの箱のいたるところから、やたらと糸が出てくる。北見マキみたいなおしさんやなーと自分の三味線を立てながら思っていたら、「あら、あたしったら、糸大尽だワ…」と無邪気におっしゃった。大正ロマン乙女そのままのおしさんだった。
このおしさんも、二十一世紀の声を聞かぬうちに黄泉へ旅立たれた。
何となくぼんやりと、その街道を北へ向かったら、左手に、なんだかずいぶん特徴のある堂塔が建っているお寺の前に来た。お釈迦様が九輪を背負われたような形で屹立している。何の気なしにお参りしょうと、寺内に入って驚いた。
学校の校庭の柵のようなグリーンの金網で仕切られた向こうに、黒光りのする、立派な、しかし、やや朽ちたような門柱が見えた。近寄ってみると、立札の説明書きに、「上野の黒門」とあるではないか…!
なんと、これが戊辰戦争で上野の山にこもった彰義隊が守っていた、黒門の本物だったのである。…まだ現存していたのだ。先ほどまで十五代将軍でしんみりしていた私は、あまりといえばあんまりの偶然に、ちょっと肌が粟立った。
そう思って見てみれば、柱のいたるところに銃弾の痛々しい穴が空いている。
時代のついたその、なんともいえぬ存在感に、なんだかうっかり門の中を覗いたら、頭を結綿にして前垂をかけた小娘が、ペタペタと草履をつっかけて走ってくるような気がして、私はそっとそばを離れた。
裏門から西へ抜けるとまたお寺があり、その前庭の観音様の立像のわきに、黄金色の大きな夏蜜柑をたわわにつけた樹が、茂っていた。
上野のお山の戦争は、慶応四年、もちろん旧暦の五月十五日。壊滅状態だった彰義隊戦死者の遺体は放置され、酸鼻を極めたという。弔うと官軍にとがめられたらしい。
その年の四月は閏月で、今でいえば7月ぐらいの気候になっていた。あまりにもあんまりな状態だったのを圓通寺のご住職が不憫に思い、自分のお寺に葬ったのが縁で、いつからかこのお寺に、黒門が移築されたのだそうである。
それからしばらくして、レプリカの黒門に会いに行った。まさか、まだ本物が残っていたとは思わなかったから、そんなにしみじみと上野の黒門を見たことがなかった。
清水堂の下にある黒門ダッシュは、藪の中にぼうっと佇んでいた。やはりご本尊よりも影が薄く、銃痕もつけられてはいたが、薄いあばたのような痕でしかないのだった。
…しかし、君には君の、役割がある。
さて、黒門町といえば、落語好きには先代の桂文楽。
テレビで時代劇を観て育った昭和の子どもには、伝七親分。小学校の友人と、よく「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイヨイ、めでてえなぁ」…と締めて遊んでいたものだった。
…そうだ、伝七親分は、私たちの世代には梅之助だった。
バラバラに点在していた符合が、時を超えてあるときピタリと巡り合う。不思議な事象だけれど、そんな偶然に遭遇すると、生きて在ることの僥倖を深く感じるのだ。
三ノ輪というともっとシメシメした情緒のある下町だと思っていたのに、目の前にすごい道幅の五差路があって、私はちょっとたじろいだ。右に行けば吉原で投げ込み寺と言われている淨閑寺。まっすぐいけば、日光街道を北上することになる。
はら~~~。これって、「将軍江戸を去る」のルートじゃないかしら…。そう思って、ちょっと私は泣きそうになった。大政奉還したあと、上野寛永寺にこもっていた最後の将軍・慶喜公が、江戸を離れ水戸へ去るときに通った、真山青果の芝居でものすごく泣ける、千住大橋へ続く道だ。
平成ひとケタ時代、メリハリのある口跡で、新歌舞伎ものを得意にしていた今の中村梅玉が、徳川慶喜を演じていた。
つい昨年、前進座が八十周年記念公演で、「江戸城総攻」と、松本清張の「無宿人別帳~左の腕」をかけた。客席はみな、世話物の「左の腕」で中村梅之助にしみじみとしていたが、私は一人、「将軍江戸を去る」で目を真っ赤にしていた。…もう、堪えきれずに、泣けたのだった。こういうテーマが胸に迫って泣き腫らしてるワタシって、もはや前々世紀の遺物なのか…。
そうだ、ここら辺には、あのお師匠さんが住んでらしたな、と日光街道の車の往き来の激しいのを横目で見ながらふと思った。三ノ輪橋に当時、流派を超えた勉強会でご一緒していた、三味線方のお師匠さんの家がその辺りにあった。
大正生まれの、丹下キヨ子を可愛くしたような感じのおしさんで、楽屋で三味線の支度を一緒にしていたら、そのおしさんの箱のいたるところから、やたらと糸が出てくる。北見マキみたいなおしさんやなーと自分の三味線を立てながら思っていたら、「あら、あたしったら、糸大尽だワ…」と無邪気におっしゃった。大正ロマン乙女そのままのおしさんだった。
このおしさんも、二十一世紀の声を聞かぬうちに黄泉へ旅立たれた。
何となくぼんやりと、その街道を北へ向かったら、左手に、なんだかずいぶん特徴のある堂塔が建っているお寺の前に来た。お釈迦様が九輪を背負われたような形で屹立している。何の気なしにお参りしょうと、寺内に入って驚いた。
学校の校庭の柵のようなグリーンの金網で仕切られた向こうに、黒光りのする、立派な、しかし、やや朽ちたような門柱が見えた。近寄ってみると、立札の説明書きに、「上野の黒門」とあるではないか…!
なんと、これが戊辰戦争で上野の山にこもった彰義隊が守っていた、黒門の本物だったのである。…まだ現存していたのだ。先ほどまで十五代将軍でしんみりしていた私は、あまりといえばあんまりの偶然に、ちょっと肌が粟立った。
そう思って見てみれば、柱のいたるところに銃弾の痛々しい穴が空いている。
時代のついたその、なんともいえぬ存在感に、なんだかうっかり門の中を覗いたら、頭を結綿にして前垂をかけた小娘が、ペタペタと草履をつっかけて走ってくるような気がして、私はそっとそばを離れた。
裏門から西へ抜けるとまたお寺があり、その前庭の観音様の立像のわきに、黄金色の大きな夏蜜柑をたわわにつけた樹が、茂っていた。
上野のお山の戦争は、慶応四年、もちろん旧暦の五月十五日。壊滅状態だった彰義隊戦死者の遺体は放置され、酸鼻を極めたという。弔うと官軍にとがめられたらしい。
その年の四月は閏月で、今でいえば7月ぐらいの気候になっていた。あまりにもあんまりな状態だったのを圓通寺のご住職が不憫に思い、自分のお寺に葬ったのが縁で、いつからかこのお寺に、黒門が移築されたのだそうである。
それからしばらくして、レプリカの黒門に会いに行った。まさか、まだ本物が残っていたとは思わなかったから、そんなにしみじみと上野の黒門を見たことがなかった。
清水堂の下にある黒門ダッシュは、藪の中にぼうっと佇んでいた。やはりご本尊よりも影が薄く、銃痕もつけられてはいたが、薄いあばたのような痕でしかないのだった。
…しかし、君には君の、役割がある。
さて、黒門町といえば、落語好きには先代の桂文楽。
テレビで時代劇を観て育った昭和の子どもには、伝七親分。小学校の友人と、よく「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイヨイ、めでてえなぁ」…と締めて遊んでいたものだった。
…そうだ、伝七親分は、私たちの世代には梅之助だった。
バラバラに点在していた符合が、時を超えてあるときピタリと巡り合う。不思議な事象だけれど、そんな偶然に遭遇すると、生きて在ることの僥倖を深く感じるのだ。