6月6日付の記事を書き直したら、流れで口三味線に話が至ってしまった。
それで思い出したのだが、先日、独眼竜…いや違った、独学で三味線をやっていたのだが、我流でとうとう行き詰まってしまった、という方がいらして、基本からきっちりやり直したい、ということなのだった。その方は、手ほどきはちゃんと教わったのだが、お師匠さんがご高齢になって、教えてもらえなくなってしまったらしい。
それで、調子を合わせるのに、ドッピンカンと合わせなさい、と教わったそうで、「よくわからないんですけどね…」と、困ったような顔で言った。
いやいや、しかし、これは言い得て妙というか、たしかに、そんな感じに合わせると言えばそうなのだ。これは本職さんのセンスというか、職人の本能のようなものに基づく表現で、長嶋茂雄カントクの「スッと来たのをバァッと行ってガーンと打つ」という名言に相通ずるものがあると思った。
これはプロゴルファー猿の「チャーシューメーン」、NHK朝のテレビ小説の「雲のじゅうたん」の浅茅陽子が、お辞儀の仕方を仕込まれていた「チントンシャン」などなどにもみられるものである(類例を、記憶のみで列挙しているので、違う物語のだったら、ごめんなさい)。
物事の真髄を、何も知らない人に言葉で伝えるということは難しい。マニュアル化すると、文化…というか、技術は低下する。優れているものというのは、微妙なニュアンスが大切で、ほんのちょっとしたことで全然違うのだ。これは芸事のみならず、お料理にも、すべての人間社会の生活や仕事全般にいえることだと思う。
すべての人に分かり易く、やり易い方法に汎用化すると、伝えづらく、体得しにくいトップレベルの技術は、置き去りにせざるを得ない。
それで想い出したのは、ごく最近体験した、こんな話である。
差し障りがあるといけないので、具体的な固有名詞は出さないが、知人が演奏会で、ある現代邦楽の名曲をかけた。昭和の現代邦楽の第一人者の作品で、三味線一棹と尺八一管で演奏する、深山幽谷の水面に月影が映っている…というような曲想の名曲である。洋物でいえばドビュッシーの「月の光」かなぁ…いやいや、あんなにロマンチックではなくて、もっと禅的精神にあふれた毅然とした曲ではある。波に反映する光を表すような、揺らぎの表現がすばらしい。
演奏後、知人が、前回同じ曲をかけたときは、○×流の尺八の方にやっていただいたのだが、今回は×△流の先生にやっていただいたけれど、この曲は○×流の方にやっていただいたほうがいいような気がする、と語った。
その曲を、知人とはまた別の、三味線の種類が違う異なる演者で聴いたときのことを思い浮かべた私は、たしかに、同じ曲でもだいぶ印象が違う…と感じた。間合いとか抑揚とか、そういったものの違いかなぁ…と考えてみたが、まだ手掛けたことのない作品だったので、実感がつかめない。どうもそれだけじゃないように思ったので、わが家元・杵屋徳衛に伺ってみた。
家元のおっしゃるには、×△流は、西洋式に譜面も整理されていて、音程もきちんとしているのだけれども、それだったら別にフルートで演奏しても構わないんじゃないか、ことさら尺八で演奏する必要性がまったく感じられない、というような演奏になってしまうところがある、ただし、そういうわけで教え方がマニュアル化されているので、圧倒的に×△流のほうをやっている人数が多いのであるけれども…、ということだった。
…邦楽の面白さと難しさを、実に的確に表している事例だと思う。
ところで、蛇足になるが、誤解があるといけないので補足する。くだんの独眼竜さんのおしさんが伝えたかったドッピンカンは擬音である。それはおっしゃったおしさんご本人もそう意図して表現なさったことである。三味線の調子合わせは、唄う人の声の高低で基音となる一の糸の高さをきめるので、必ず何の音、ということではないのだ。三筋の糸の音程の関係性は決まっているのであるが。
口三味線はそれとはまた別の話で、演奏するにあたり、音の呼称を糸ごとに押える音色で区別したものである。
独眼竜さんをたびたび例にたとえて恐縮だが、ちょうど口三味線を説明しやすいエピソードがある。自分は同じ音を弾いているから間違っていないつもりなのに、おしさんから、「違うわョッ」と指摘された部分の手があるという。
それは、おしさんが正しい。
つまり、こういうことだ。たとえば同じ高さの音でも、三の糸の開放絃テンと、二の糸を押えて出した音ツンとは、明るい感じの開放絃と、くぐもった感じの指で押えた音と、音質が違う。糸の太さも違うから当然音色が変わる。だから違う音なのだ。
ちなみに、よくいわれる「チントンシャン」は口三味線である。
チンは三の糸を押えたときの口三味線。トンは前記したように二の開放絃。シャンは二と三の糸を二本一緒に弾いたとき。…ね、すぐに弾けたでしょう?
一つの道に精進を重ねた本職さんの、直感に基づく言葉というのは、端的に真実を伝えていることがある。千に一つも無駄がないのだ。
追記:ある現代邦楽の名曲とは、杵屋正邦先生の「明鏡」です。
それで思い出したのだが、先日、独眼竜…いや違った、独学で三味線をやっていたのだが、我流でとうとう行き詰まってしまった、という方がいらして、基本からきっちりやり直したい、ということなのだった。その方は、手ほどきはちゃんと教わったのだが、お師匠さんがご高齢になって、教えてもらえなくなってしまったらしい。
それで、調子を合わせるのに、ドッピンカンと合わせなさい、と教わったそうで、「よくわからないんですけどね…」と、困ったような顔で言った。
いやいや、しかし、これは言い得て妙というか、たしかに、そんな感じに合わせると言えばそうなのだ。これは本職さんのセンスというか、職人の本能のようなものに基づく表現で、長嶋茂雄カントクの「スッと来たのをバァッと行ってガーンと打つ」という名言に相通ずるものがあると思った。
これはプロゴルファー猿の「チャーシューメーン」、NHK朝のテレビ小説の「雲のじゅうたん」の浅茅陽子が、お辞儀の仕方を仕込まれていた「チントンシャン」などなどにもみられるものである(類例を、記憶のみで列挙しているので、違う物語のだったら、ごめんなさい)。
物事の真髄を、何も知らない人に言葉で伝えるということは難しい。マニュアル化すると、文化…というか、技術は低下する。優れているものというのは、微妙なニュアンスが大切で、ほんのちょっとしたことで全然違うのだ。これは芸事のみならず、お料理にも、すべての人間社会の生活や仕事全般にいえることだと思う。
すべての人に分かり易く、やり易い方法に汎用化すると、伝えづらく、体得しにくいトップレベルの技術は、置き去りにせざるを得ない。
それで想い出したのは、ごく最近体験した、こんな話である。
差し障りがあるといけないので、具体的な固有名詞は出さないが、知人が演奏会で、ある現代邦楽の名曲をかけた。昭和の現代邦楽の第一人者の作品で、三味線一棹と尺八一管で演奏する、深山幽谷の水面に月影が映っている…というような曲想の名曲である。洋物でいえばドビュッシーの「月の光」かなぁ…いやいや、あんなにロマンチックではなくて、もっと禅的精神にあふれた毅然とした曲ではある。波に反映する光を表すような、揺らぎの表現がすばらしい。
演奏後、知人が、前回同じ曲をかけたときは、○×流の尺八の方にやっていただいたのだが、今回は×△流の先生にやっていただいたけれど、この曲は○×流の方にやっていただいたほうがいいような気がする、と語った。
その曲を、知人とはまた別の、三味線の種類が違う異なる演者で聴いたときのことを思い浮かべた私は、たしかに、同じ曲でもだいぶ印象が違う…と感じた。間合いとか抑揚とか、そういったものの違いかなぁ…と考えてみたが、まだ手掛けたことのない作品だったので、実感がつかめない。どうもそれだけじゃないように思ったので、わが家元・杵屋徳衛に伺ってみた。
家元のおっしゃるには、×△流は、西洋式に譜面も整理されていて、音程もきちんとしているのだけれども、それだったら別にフルートで演奏しても構わないんじゃないか、ことさら尺八で演奏する必要性がまったく感じられない、というような演奏になってしまうところがある、ただし、そういうわけで教え方がマニュアル化されているので、圧倒的に×△流のほうをやっている人数が多いのであるけれども…、ということだった。
…邦楽の面白さと難しさを、実に的確に表している事例だと思う。
ところで、蛇足になるが、誤解があるといけないので補足する。くだんの独眼竜さんのおしさんが伝えたかったドッピンカンは擬音である。それはおっしゃったおしさんご本人もそう意図して表現なさったことである。三味線の調子合わせは、唄う人の声の高低で基音となる一の糸の高さをきめるので、必ず何の音、ということではないのだ。三筋の糸の音程の関係性は決まっているのであるが。
口三味線はそれとはまた別の話で、演奏するにあたり、音の呼称を糸ごとに押える音色で区別したものである。
独眼竜さんをたびたび例にたとえて恐縮だが、ちょうど口三味線を説明しやすいエピソードがある。自分は同じ音を弾いているから間違っていないつもりなのに、おしさんから、「違うわョッ」と指摘された部分の手があるという。
それは、おしさんが正しい。
つまり、こういうことだ。たとえば同じ高さの音でも、三の糸の開放絃テンと、二の糸を押えて出した音ツンとは、明るい感じの開放絃と、くぐもった感じの指で押えた音と、音質が違う。糸の太さも違うから当然音色が変わる。だから違う音なのだ。
ちなみに、よくいわれる「チントンシャン」は口三味線である。
チンは三の糸を押えたときの口三味線。トンは前記したように二の開放絃。シャンは二と三の糸を二本一緒に弾いたとき。…ね、すぐに弾けたでしょう?
一つの道に精進を重ねた本職さんの、直感に基づく言葉というのは、端的に真実を伝えていることがある。千に一つも無駄がないのだ。
追記:ある現代邦楽の名曲とは、杵屋正邦先生の「明鏡」です。