余震が続くので、私にはもはや、自分が揺れているのか、大地が揺れているのか、さっぱり分からなくなっていた。
その違いを判別しようと、室内に、何か揺れているものをさがす。昭和のころなら電燈の紐を見ればよかった。しかし平成の調度は、リモコンで操作するものばかりで、中空にぶら下がっているものを見つけるのが難しい。
3.11の折、CD雪崩に巻き込まれたパソコンに無意識に目をやると、宙吊りになっている物体に気がついた。……これだ!
以来、何か揺れているような気がするときは、決まって、稽古場内のパソコンデスクのわきに括りつけられている、ひこにゃんの姿をさがすようになったのだった。
彼は、赤備えの天衝きの脇立てが二本、ぬっと伸びた兜のてっぺんから付いている鎖で、棚の支柱にぶら下がっている。そして、しっぽの代わりに商標のタグがついている。そこからさらに風鈴の札のように下がっている「ひこねのよいにゃんこのおはなし」という由来書きの折紙が、揺れていれば地震、揺れていなければ自身の気のせい、というように察知できるのだ。
彦根藩二代藩主・井伊直孝が、豪徳寺門前の招き猫によって災厄を免れたが如く、迷える私を導く白い猫が、当家にも現れたのだった。
そも、このひこにゃんは、江州に在する戦友のお土産である。
かつて、いくさ場のように慌ただしい急ぎ働きをした仲間なので、戦友といって差し支えなかろう。
思えば、思春期の私は、かたくなな硬派…いや、面白いもの、美しいものを求めてやまぬ硬派だったので、中学生以降、可愛らしいぬいぐるみなど、求めたことがなかった。
かわいらしい、ということは、他人の保護・助力を必要とするものが持つ、ひとつの特質で、たとえば武士道によく言われる「潔い」美しさとは、相反する概念である。
ローティーンの小娘は、潔癖で武骨だったりもするので、どうも可愛いものに相親しむことが苦手なのだった。さらに私は、そこからなかなか脱皮できなかった。
社会人になってはじめて自力で銀行口座をもったとき、駅前の銀行のお姉さんが「今なら、ミッキーの通帳にも出来ますョ」と、うれしそうに言ってくれたのだ。たしか、浦安にディズニーランドができた年だった。
しかし私は、ぶるぶる、とんでもない、銀行の通帳に軟弱なキャラクター商品などもってのほか!と思って、いえいえ、普通ので結構です、と答えて、窓口のお姉さんを悲しい気持ちにさせたのだった。
そのあと、やっぱりミッキーにしてもらえばよかったのかも…と、しばらくの間、思い悩んだ。
小学生のときは人並みな嗜好だったはずなのに、どういうきっかけでそうなったのだろう。
中学何年生のときだか忘れた。たまたま誕生日に高熱を出して学校を休み、寝込んでいた私に、誕生日プレゼントが届いた。それは、常日頃、気の置けない弟分だと思っていたN君からのものだった。昭和50年代の中学生は、砕け果てたいまと違って、まったくオープンではなかったので、我が家に来る勇気がなかった本人は、全権大使を立てた。因果を含まれたのは、わがご近所の幼なじみ・かずみちゃん。お使者役として放課後、うちに寄ってくれたのだった。
ああ、とんでもない、そんなプレゼント結構です、もらうわけにはいかないから…と固辞する私に、かずみちゃんは諄々と説いた。N君はもう一生懸命、あなたに喜んでもらえるプレゼントを選びに選んで探してきたのだそうだから…それに、仰せつかった私としてもこのまま持ち帰るわけにはいかない、と、押し問答のようになった。
…昭和版「井戸の茶碗」である。
結局、私は仕方なしに受け取った。やたらと大きい包みを開けてみたら、その当時流行っていたまさにポップな70年代調の、体長70センチはあろうかと思われるフェルト製のネコの、壁飾りにも出来るマスコット人形なのだった。
申し訳ないが、私はその時分、大河ドラマの「風と雲と虹と」に出てきた草刈正雄演じる傀儡師に恋をしていた。彼は土手に座り、遠い空を眺めながら、篠笛を吹いているのだった。欲しいものといったら、その篠笛だ。
十代の女の子というものは、男子が思うほどキュート志向ではない。むしろ雄々しく、傲慢で残酷なものなのだ。
N君が考えた私が喜ぶものって、こ、これ?……恋愛感情ではない、友情による仲良しだとばかり思っていたN君の予想外の好意もうとましく、ぶらぶらと揺れる巨大なネコは、怒りに拍車をかけた。
そんなわけで以来、私は、室内にぬいぐるみを飾る、という衝動に駆られたことはただの一度もなかった。二十代以降、室内の装飾は主に絵画で、しかも人物画である場合、すべての絵が、髷のある人物だった。(つづく)
その違いを判別しようと、室内に、何か揺れているものをさがす。昭和のころなら電燈の紐を見ればよかった。しかし平成の調度は、リモコンで操作するものばかりで、中空にぶら下がっているものを見つけるのが難しい。
3.11の折、CD雪崩に巻き込まれたパソコンに無意識に目をやると、宙吊りになっている物体に気がついた。……これだ!
以来、何か揺れているような気がするときは、決まって、稽古場内のパソコンデスクのわきに括りつけられている、ひこにゃんの姿をさがすようになったのだった。
彼は、赤備えの天衝きの脇立てが二本、ぬっと伸びた兜のてっぺんから付いている鎖で、棚の支柱にぶら下がっている。そして、しっぽの代わりに商標のタグがついている。そこからさらに風鈴の札のように下がっている「ひこねのよいにゃんこのおはなし」という由来書きの折紙が、揺れていれば地震、揺れていなければ自身の気のせい、というように察知できるのだ。
彦根藩二代藩主・井伊直孝が、豪徳寺門前の招き猫によって災厄を免れたが如く、迷える私を導く白い猫が、当家にも現れたのだった。
そも、このひこにゃんは、江州に在する戦友のお土産である。
かつて、いくさ場のように慌ただしい急ぎ働きをした仲間なので、戦友といって差し支えなかろう。
思えば、思春期の私は、かたくなな硬派…いや、面白いもの、美しいものを求めてやまぬ硬派だったので、中学生以降、可愛らしいぬいぐるみなど、求めたことがなかった。
かわいらしい、ということは、他人の保護・助力を必要とするものが持つ、ひとつの特質で、たとえば武士道によく言われる「潔い」美しさとは、相反する概念である。
ローティーンの小娘は、潔癖で武骨だったりもするので、どうも可愛いものに相親しむことが苦手なのだった。さらに私は、そこからなかなか脱皮できなかった。
社会人になってはじめて自力で銀行口座をもったとき、駅前の銀行のお姉さんが「今なら、ミッキーの通帳にも出来ますョ」と、うれしそうに言ってくれたのだ。たしか、浦安にディズニーランドができた年だった。
しかし私は、ぶるぶる、とんでもない、銀行の通帳に軟弱なキャラクター商品などもってのほか!と思って、いえいえ、普通ので結構です、と答えて、窓口のお姉さんを悲しい気持ちにさせたのだった。
そのあと、やっぱりミッキーにしてもらえばよかったのかも…と、しばらくの間、思い悩んだ。
小学生のときは人並みな嗜好だったはずなのに、どういうきっかけでそうなったのだろう。
中学何年生のときだか忘れた。たまたま誕生日に高熱を出して学校を休み、寝込んでいた私に、誕生日プレゼントが届いた。それは、常日頃、気の置けない弟分だと思っていたN君からのものだった。昭和50年代の中学生は、砕け果てたいまと違って、まったくオープンではなかったので、我が家に来る勇気がなかった本人は、全権大使を立てた。因果を含まれたのは、わがご近所の幼なじみ・かずみちゃん。お使者役として放課後、うちに寄ってくれたのだった。
ああ、とんでもない、そんなプレゼント結構です、もらうわけにはいかないから…と固辞する私に、かずみちゃんは諄々と説いた。N君はもう一生懸命、あなたに喜んでもらえるプレゼントを選びに選んで探してきたのだそうだから…それに、仰せつかった私としてもこのまま持ち帰るわけにはいかない、と、押し問答のようになった。
…昭和版「井戸の茶碗」である。
結局、私は仕方なしに受け取った。やたらと大きい包みを開けてみたら、その当時流行っていたまさにポップな70年代調の、体長70センチはあろうかと思われるフェルト製のネコの、壁飾りにも出来るマスコット人形なのだった。
申し訳ないが、私はその時分、大河ドラマの「風と雲と虹と」に出てきた草刈正雄演じる傀儡師に恋をしていた。彼は土手に座り、遠い空を眺めながら、篠笛を吹いているのだった。欲しいものといったら、その篠笛だ。
十代の女の子というものは、男子が思うほどキュート志向ではない。むしろ雄々しく、傲慢で残酷なものなのだ。
N君が考えた私が喜ぶものって、こ、これ?……恋愛感情ではない、友情による仲良しだとばかり思っていたN君の予想外の好意もうとましく、ぶらぶらと揺れる巨大なネコは、怒りに拍車をかけた。
そんなわけで以来、私は、室内にぬいぐるみを飾る、という衝動に駆られたことはただの一度もなかった。二十代以降、室内の装飾は主に絵画で、しかも人物画である場合、すべての絵が、髷のある人物だった。(つづく)