長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

岸田森と森川信

2018年07月27日 07時00分55秒 | やたらと映画
 岸田森が亡くなったのは、私が二十歳の年の暮れだった。TVニュースで知った時は本当にショックで悲しかった。訃報を伝える画面を今でも覚えている。
 子ども時分から「怪奇大作戦」は欠かさず見ていたし、中学生の時、掃除当番をさぼって男子が早く下校したがるのは「傷だらけの天使」の再放送を見たいがためであった。高校生だった時ラジオドラマで我がヒーロー、ブラック・ジャックを演じた。狂喜の配役であった。これまた欠かさず聞いていた。

 勉強をしながらラジオを聴くのは昭和の中・高生の常であった。ラジオドラマの全盛だった。朗読ではなく、ラジオドラマなのだ。
 深夜ともなると、ささきいさおのセイ!ヤングとか那智チャコパックとか、スネークマンショーとか、城達也のジェットストリームとか、もぅぉ、枚挙にいとまがない…というのはこういう時に使う言葉なのだと、今知った。
 テーマ曲はもとより、西国に去った方々の息遣い、喋り方の特徴など、耳からの記憶は今でも鮮やかに、耳のうちに蘇ってくるのだった。

 淀長氏の熱意の賜物か、萩尾望都の「ポーの一族」ゆえか…いえいえ、ここで申しましょう、山本廸夫監督と組んだ岸田森ゆえか、吸血鬼は昭和の少女たちには永遠の憧れだった。
 岸田森にシャーロック・ホームズを演じてほしかった。鹿打帽とトンビマントがこの上もなく似合うはずであった。

 時々、ひどく岸田森が居た時代に戻りたくなることがある。リアルタイムで見なかったことを悔やんだ「近頃なぜかチャールストン」を中野の名画座で観たのは、もう20年も前のことになってしまった。同じ劇場で観た「哥」もかなりなエキセントリックさだった。岸田森が存在する世界に失望させられたことは、一度たりとてなかった。
 
 寅さんのおいちゃんは森川信でなくてはつまらない。
 森川信は、私にとっては「おくさまは18歳」の校長先生である。
 同作の主役を勤めた岡崎友紀は、昭和40年代少女の永遠のアイドルだった。相手役の男の子のことはどうでもいいのだ。岡崎友紀のコメディエンヌっぷりが小学生の私のハートに火をつけたのだ。
「なんたって18歳」は長いこと私のカラオケの持ち歌だったし、「だから大好き!」の南洋の島の王子さまは、なんてったって沖雅也なのだった。ファンでなくとも沖雅也が王子さまであることに疑いないのは、昭和の定石であった。

 さて、森川信の得難い芸達者ぶり、そのことに改めて気がついたのは、もう25年以前、映画に大層詳しいとある落語家の師匠から、寅さん映画再見すべしとの御説を伺って後のことである。
 昭和末期の映画少年たちは、メジャーな大衆邦画シリーズである、寅さんを観に行くなんて、ベタなことはできないのだった。オタクの沽券にかかわるのである。三百人劇場でルイス・ブニュエル監督の映画を見たりするのが、映画ファンを自負する青少年の正しい在り方である、と信じて疑わなかった。
 それから4,5年が経ったやはり20年も前のことだけれど、昭和の終わりごろに上杉鷹山など、歴史上の人物を経済小説風な切り口で描いて名を上げたD先生が、書斎兼事務所の書棚に「男はつらいよ」シリーズのビデオ全作を揃えていると聞いて、なるほど、と感じたものだった。
 50歳になったら私にもあの映画の良さがわかるのかもしれない…と、当時30歳代後半だった私は思ったが、案の定。数年前から寅さん映画をこっそり見て心の平衡を保つという、私の中の映画に対する愛情が新しい時代を迎えた。

 昭和50年代のディスカバリージャパン。銀幕の中のロケ地の風景の美しさが切なくて、胸がざわざわっとして泣きたくなるのだった。
 その景色があったあの時代に、自分自身がいた場所をまざまざと感じ取ることのおののき。記憶でしかないのに肌にまとわる空気感はどうしたことだろう。フィクションである物語映画は、実はノンフィクションの記録映画でもあったのだ。

 失ってしまったものたちへの郷愁、挽歌というおぼろげな感傷ではなく、自分がフィルムの中に取り込まれてしまうような実感を伴う錯覚があまりに怖くて…そして、完パケされている昭和時代が懐かしくて…ついついのついのついつい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする