photo:振り向けば残んの月 令和三年長月廿二日
「俺たちは天使じゃない」という1980年代に旧作をリメイクしたアメリカ映画がありまして、この四半世紀来、お話のオチが腑に落ちなかった、英語に堪能ではない者の未解決の悩み。
脱獄した囚人がつくり神父様に身をやつしての逃避行(未見の方にはゴメンナサイ)、ラストで、自分の身を明かす肝心のシーンで、明かされた相手が勘違いをするというキーワード、日本語字幕では“脱獄囚”を"異教徒"と聞き違える、というものでした。
…えっ、それはどんな英語だったのだろう…日本語ネイティブの私にはスクリーンの字幕だけで、一瞬のうちに通り過ぎて行った言葉。
???掛けることの無限のループが、頭の中に残ったのでした。
映画鑑賞後、自分の中で暗中模索したシロウト探偵の答えは、プリズナー(囚人)とピュリズナー(清教徒)を聞き間違えたのではなかろうか…という英語ネイティヴではない者の苦肉の解答。
さて、本当のところは何だったのだろう…もう一度その映画を観て、音声を確かめればいいのですが…どうしたものかなぁ…
21世紀になって20年も過ぎますと、もはや、日本文化は廃れており、伝聞と空想でしか伝わっていないという現実に直面します。
直球で言うしかない…と本稿を始めてみたところが、最初から寄り道してしまいました。スミマセン。
三味線の体験授業に中学校へ伺うようになってから、もう30年近くになります。
そんな短いような長いような(どっち⁉)スパンでも、学校教育というものは時代の趨勢に翻弄されるものだなと…ひしひしと人の心と社会の変化を感じます。
そしてまた、世代交替に伴い、物事に対する基礎知識、概念も変わっており、説明が必要になる事柄も変わるので、敢えてここで申し上げます。
近年…ここ20年ちょっとぐらい、三味線というと津軽を連想する方が多いようですが、
(戦後民謡が流行し、その影響での高橋竹山ブームから時を経て、洋楽と合奏できるようモダンにテイストを変えた、若手スター諸氏の出現で、津軽三味線界は新しい時代を迎え、大人気を博し、20世紀末に一時代を築いたわけですが)
昭和の頃は、三味線というと、一般的には長唄でした。
長唄で用いますのは細棹の三味線で、子どもでも扱い易い大きさと重さです。
(近年流行の和楽器バンドなどで、ベースのように活躍する三味線は津軽か太棹です)
長唄は劇場音楽ですので、幅広い曲種と趣向、洗練された汎用的な音色onnsyokuが持ち味です。
劇場で演奏する形態、姿勢と同じように正座して構えます。
ですので、三味線の胴が、手のひら分ぐらい、腿から右わきにはみ出します。
天神部分は肩の高さぐらいです。
これは、椅子に座っても変わらない構え方です。
三味線の構えを、津軽と混同して、図解している音楽の授業用の小冊子を見掛けましたが、長唄はその構えでは弾けません。
ご用意して下さったものにかえって申し訳ないのですが、最初から誤解されますとお伝えしにくくなりますので、どうぞ正しい情報を、よろしくお願い致します。
(そして津軽は本来、袴で演奏する芸能ではありませんでした。袴着用にて膝頭を横にガバッと広げる着い方・所作は日本の伝統には無いものです)
また、バチも、小唄・端唄・民謡、義太夫の太棹、筝曲の地唄、それぞれ撥の材質や形が違いますので、持ち方も異なります。
さらに、バチというからには三味線の皮に当てて音を出すことが重要ですから、
初めての体験授業、しかも一年にたった一時間という限られた中で、本来の音色では無い、五線譜に著されたメロディーを、一音ずつ奏でるという西洋音楽に準ずる教材では、三味線音楽の魅力を半減させるものですので、私はお勧めしません。
記号と音を結び付けるだけの演奏を指導することは、三味線楽器にとって無意味だし、音を奏でる楽しさを体験できない生徒さんにとっても不幸だとも感じます。
貴重な学校の授業で、苦役を課すようなトラウマの種を蒔くつもりはありません。
とはいえ、人から物を教わるときは、礼儀を失することがあってはなりません。
子供達には最低限、人間としての礼儀作法・行儀を、教師たるものが率先してお手本になるよう、日頃から自分の行状を顧みるのは当然のことであります(…と、父が教員であった昭和の家庭に育った私は考えます)。
日本の伝統音楽を体験することは、情操教育の一環で、IQではなくEQを育むことだと思います。
このところの日本の教育は、日本伝統文化の美質、長所を捨て去る方向に舵を切っているようで心配です。
漢文が必修から外れたと何年か前に聞きましたが、漢語…つまり中国の言葉を日本語にかみ砕いてしかも美しいスタイル・読み方で自分たちの文化として創り出した先人の、教養の高さから何も学ばないのでしょうか…
また、小説が国語の読解力の試験から取り除かれるとのうわさも聞きましたが、御冗談を。
実用文を読むだけに長けた人間とは…ロボット教育ではないでしょうか。自国の言葉で組み立てられた美しい文章を読み味わうという訓練なくして、情緒が育まれるものでしょうか…
現場からは以上です。
「俺たちは天使じゃない」という1980年代に旧作をリメイクしたアメリカ映画がありまして、この四半世紀来、お話のオチが腑に落ちなかった、英語に堪能ではない者の未解決の悩み。
脱獄した囚人がつくり神父様に身をやつしての逃避行(未見の方にはゴメンナサイ)、ラストで、自分の身を明かす肝心のシーンで、明かされた相手が勘違いをするというキーワード、日本語字幕では“脱獄囚”を"異教徒"と聞き違える、というものでした。
…えっ、それはどんな英語だったのだろう…日本語ネイティブの私にはスクリーンの字幕だけで、一瞬のうちに通り過ぎて行った言葉。
???掛けることの無限のループが、頭の中に残ったのでした。
映画鑑賞後、自分の中で暗中模索したシロウト探偵の答えは、プリズナー(囚人)とピュリズナー(清教徒)を聞き間違えたのではなかろうか…という英語ネイティヴではない者の苦肉の解答。
さて、本当のところは何だったのだろう…もう一度その映画を観て、音声を確かめればいいのですが…どうしたものかなぁ…
21世紀になって20年も過ぎますと、もはや、日本文化は廃れており、伝聞と空想でしか伝わっていないという現実に直面します。
直球で言うしかない…と本稿を始めてみたところが、最初から寄り道してしまいました。スミマセン。
三味線の体験授業に中学校へ伺うようになってから、もう30年近くになります。
そんな短いような長いような(どっち⁉)スパンでも、学校教育というものは時代の趨勢に翻弄されるものだなと…ひしひしと人の心と社会の変化を感じます。
そしてまた、世代交替に伴い、物事に対する基礎知識、概念も変わっており、説明が必要になる事柄も変わるので、敢えてここで申し上げます。
近年…ここ20年ちょっとぐらい、三味線というと津軽を連想する方が多いようですが、
(戦後民謡が流行し、その影響での高橋竹山ブームから時を経て、洋楽と合奏できるようモダンにテイストを変えた、若手スター諸氏の出現で、津軽三味線界は新しい時代を迎え、大人気を博し、20世紀末に一時代を築いたわけですが)
昭和の頃は、三味線というと、一般的には長唄でした。
長唄で用いますのは細棹の三味線で、子どもでも扱い易い大きさと重さです。
(近年流行の和楽器バンドなどで、ベースのように活躍する三味線は津軽か太棹です)
長唄は劇場音楽ですので、幅広い曲種と趣向、洗練された汎用的な音色onnsyokuが持ち味です。
劇場で演奏する形態、姿勢と同じように正座して構えます。
ですので、三味線の胴が、手のひら分ぐらい、腿から右わきにはみ出します。
天神部分は肩の高さぐらいです。
これは、椅子に座っても変わらない構え方です。
三味線の構えを、津軽と混同して、図解している音楽の授業用の小冊子を見掛けましたが、長唄はその構えでは弾けません。
ご用意して下さったものにかえって申し訳ないのですが、最初から誤解されますとお伝えしにくくなりますので、どうぞ正しい情報を、よろしくお願い致します。
(そして津軽は本来、袴で演奏する芸能ではありませんでした。袴着用にて膝頭を横にガバッと広げる着い方・所作は日本の伝統には無いものです)
また、バチも、小唄・端唄・民謡、義太夫の太棹、筝曲の地唄、それぞれ撥の材質や形が違いますので、持ち方も異なります。
さらに、バチというからには三味線の皮に当てて音を出すことが重要ですから、
初めての体験授業、しかも一年にたった一時間という限られた中で、本来の音色では無い、五線譜に著されたメロディーを、一音ずつ奏でるという西洋音楽に準ずる教材では、三味線音楽の魅力を半減させるものですので、私はお勧めしません。
記号と音を結び付けるだけの演奏を指導することは、三味線楽器にとって無意味だし、音を奏でる楽しさを体験できない生徒さんにとっても不幸だとも感じます。
貴重な学校の授業で、苦役を課すようなトラウマの種を蒔くつもりはありません。
とはいえ、人から物を教わるときは、礼儀を失することがあってはなりません。
子供達には最低限、人間としての礼儀作法・行儀を、教師たるものが率先してお手本になるよう、日頃から自分の行状を顧みるのは当然のことであります(…と、父が教員であった昭和の家庭に育った私は考えます)。
日本の伝統音楽を体験することは、情操教育の一環で、IQではなくEQを育むことだと思います。
このところの日本の教育は、日本伝統文化の美質、長所を捨て去る方向に舵を切っているようで心配です。
漢文が必修から外れたと何年か前に聞きましたが、漢語…つまり中国の言葉を日本語にかみ砕いてしかも美しいスタイル・読み方で自分たちの文化として創り出した先人の、教養の高さから何も学ばないのでしょうか…
また、小説が国語の読解力の試験から取り除かれるとのうわさも聞きましたが、御冗談を。
実用文を読むだけに長けた人間とは…ロボット教育ではないでしょうか。自国の言葉で組み立てられた美しい文章を読み味わうという訓練なくして、情緒が育まれるものでしょうか…
現場からは以上です。
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