2017年到来。平成二十九年とかや。
街にお正月気分が無い。クリスマスの電飾で力尽きたのか、注連飾りや松、繭玉の装飾が見当たらない。日本人たるもの、正月をニューイヤーではなく、正月として祝わずしてどうする。
お正月の街を彩る、そこはかとない邦楽の調べも、ついぞ聞かなくなって久しい。
新年早々耳にしたのは、現代邦楽の調べであった。
21世紀になってからの邦楽は、洋楽を邦楽の楽器で演奏しているだけで、音色にしみじみとした要素がない。それはそれで、伝統邦楽とは目指すところが違うので、それでいいとは思うけれども、伝統的な楽器を使っているだけで、伝統文化としての邦楽を広め存続させていることにはならない。
古典音楽としての邦楽の演奏にもその影響は出ていて、しみじみとした音色に心揺さぶられる機会が少なくなった。
日本独自の文化を昇華させた伝統音楽の魅力が潰えつつあるのだ。
そんなことを常々考えて、「しみじみの研究」(九鬼周造の『いきの構造』を引いてドイルの『緋色の研究』を捩ってもみた)というタイトルの下、3年前の秋に記事を書き始めてみたものの…四度目の初春を迎えても下書き中なのである。
これではいけない。
しかし、邦楽に携わるものとして「魅力が潰えつつある」状況を余所事として看過できようはずもないので、日々精進し、そうならないよう実践できる演奏家に自らを育てなくてはならない。
構想は絶えずとうとうたらり…と湧きいずるのであるが、掬うすべを知らぬ無力な猿が私なのだった。
干支も申から酉にバトンタッチした。
鳥が鳴く 鳥が鳴く…そのけたたましさは前世紀に倍加してうるさい。
携帯するコンピュータが普及し、DTMのチャカチャカした音が巷にあふれ、アナログの柔らかい音に囲まれて育った者はどうも落ち着かない。
昭和のころ、邦楽のピッチはA=440ヘルツだった。
しかし当節は、443ピッチ以上に合わせるのがカッコいいらしいのだ。
ピッチが上がると、人間は気分が高揚し、攻撃的・戦闘的になるそうである。
演奏する本人たちはいいかもしれないが、聴かされるほうはシンパでもない限り置いてけぼりにされやしないか。なごみや癒しを求めているとしたら、充足されないだろう。
まぁ、それも聞く側が音楽に何を求めるかにもよるのだけれども。
何が美味しいかという舌、味覚もそうだが、音も…自分の耳に慣れ親しんだ音が、本人にとっては一番よく感じられるものらしい。
ちょうど二十年ほど前、自分の中の古典音楽の要素と、現行の洋楽理論とのはざまで、いろいろ感じ悩んでいたころ読んだ、一冊の本があった。
芥川也寸志『音楽の基礎』岩波新書。
久しぶりにペラペラとページを捲ったら…ぉぉ、名著というのはいつの時代にも朽ちることなく要点をズバリと表出しているものである。
以下に引用させていただく。
……私が音楽学校の受験用に覚えた標準音の周波数は、A=四三五ヘルツであった。…(中略)ピッチを高くすれば音に張りがでて、楽器では強い大きな音が出せるので狭い部屋で聞くのには適さないが大会場には向く。(中略)
……ピッチの上昇化をはじめとするこのような傾向が、今後も際限なくつづくとすれば、音楽の商業主義化に役立ちこそすれ、けっして音楽自身にとって幸福なこととは思われない。 現にバロック音楽の演奏では、現代の標準ピッチをもってしても、やや不自然の感をまぬがれえないのである。……
以前ご紹介した「長唄絵合せ」を企画したのも、作曲された時代を映し、写した絵とともに在った長唄の世界を、表出したかったからである。
街にお正月気分が無い。クリスマスの電飾で力尽きたのか、注連飾りや松、繭玉の装飾が見当たらない。日本人たるもの、正月をニューイヤーではなく、正月として祝わずしてどうする。
お正月の街を彩る、そこはかとない邦楽の調べも、ついぞ聞かなくなって久しい。
新年早々耳にしたのは、現代邦楽の調べであった。
21世紀になってからの邦楽は、洋楽を邦楽の楽器で演奏しているだけで、音色にしみじみとした要素がない。それはそれで、伝統邦楽とは目指すところが違うので、それでいいとは思うけれども、伝統的な楽器を使っているだけで、伝統文化としての邦楽を広め存続させていることにはならない。
古典音楽としての邦楽の演奏にもその影響は出ていて、しみじみとした音色に心揺さぶられる機会が少なくなった。
日本独自の文化を昇華させた伝統音楽の魅力が潰えつつあるのだ。
そんなことを常々考えて、「しみじみの研究」(九鬼周造の『いきの構造』を引いてドイルの『緋色の研究』を捩ってもみた)というタイトルの下、3年前の秋に記事を書き始めてみたものの…四度目の初春を迎えても下書き中なのである。
これではいけない。
しかし、邦楽に携わるものとして「魅力が潰えつつある」状況を余所事として看過できようはずもないので、日々精進し、そうならないよう実践できる演奏家に自らを育てなくてはならない。
構想は絶えずとうとうたらり…と湧きいずるのであるが、掬うすべを知らぬ無力な猿が私なのだった。
干支も申から酉にバトンタッチした。
鳥が鳴く 鳥が鳴く…そのけたたましさは前世紀に倍加してうるさい。
携帯するコンピュータが普及し、DTMのチャカチャカした音が巷にあふれ、アナログの柔らかい音に囲まれて育った者はどうも落ち着かない。
昭和のころ、邦楽のピッチはA=440ヘルツだった。
しかし当節は、443ピッチ以上に合わせるのがカッコいいらしいのだ。
ピッチが上がると、人間は気分が高揚し、攻撃的・戦闘的になるそうである。
演奏する本人たちはいいかもしれないが、聴かされるほうはシンパでもない限り置いてけぼりにされやしないか。なごみや癒しを求めているとしたら、充足されないだろう。
まぁ、それも聞く側が音楽に何を求めるかにもよるのだけれども。
何が美味しいかという舌、味覚もそうだが、音も…自分の耳に慣れ親しんだ音が、本人にとっては一番よく感じられるものらしい。
ちょうど二十年ほど前、自分の中の古典音楽の要素と、現行の洋楽理論とのはざまで、いろいろ感じ悩んでいたころ読んだ、一冊の本があった。
芥川也寸志『音楽の基礎』岩波新書。
久しぶりにペラペラとページを捲ったら…ぉぉ、名著というのはいつの時代にも朽ちることなく要点をズバリと表出しているものである。
以下に引用させていただく。
……私が音楽学校の受験用に覚えた標準音の周波数は、A=四三五ヘルツであった。…(中略)ピッチを高くすれば音に張りがでて、楽器では強い大きな音が出せるので狭い部屋で聞くのには適さないが大会場には向く。(中略)
……ピッチの上昇化をはじめとするこのような傾向が、今後も際限なくつづくとすれば、音楽の商業主義化に役立ちこそすれ、けっして音楽自身にとって幸福なこととは思われない。 現にバロック音楽の演奏では、現代の標準ピッチをもってしても、やや不自然の感をまぬがれえないのである。……
以前ご紹介した「長唄絵合せ」を企画したのも、作曲された時代を映し、写した絵とともに在った長唄の世界を、表出したかったからである。
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