ナカナカピエロ的”存在論”
BOOK OFFで購入したハイデガーの解説本がつまらなかったので、ナカナカピエロ的”存在論”をちょっと書いてみることにした。まず始めに、私のコメントは刹那的であり、時にくるくる変わるので、その辺りはご容赦を。
「存在」というものは、全てに先行する。なぜなら、ありとあらゆるものが、「存在する」という述語で絡めとられてしまうからである。私が存在する、魂が存在する、神が存在する、時間が存在する。無が存在する...... 「存在」は、まるでブラックホールのように、全てを押し並べて吸い込んでしまう。我々は「存在」から逃れられない。しかし、私たちは「存在」を揺り動かし、危うくすることはできる。
危うい状況は色々とあると思うが、それは主観でしか捉えられない。各々で違う。しかし存在を脅かせるものは他のものからでもかまわない。それは知覚、感覚で感じる。まだ未分化のものである。それらは「存在」からこぼれ落ちる。我々は「存在化」しつつある何らかのものを得ることができる。つまり「存在化しつつあるもの」を動的に生み出す可能性をもっている。そうやってありとあらゆる「存在」を生産することができるのではないか。つまり我々は「存在の可能性」を持っているのである。
まあ、こんなこと、どうでもいいちゃ、どうでもいいんすけど。。。
後記
ちなみに大学生だった頃、筒井康隆のハイデガーの解説を聞いて、とても面白かった記憶がある。「誰にでもわかるハイデガー」(新潮カセット講演)です。おすすめ。
BOOK OFFで購入したハイデガーの解説本がつまらなかったので、ナカナカピエロ的”存在論”をちょっと書いてみることにした。まず始めに、私のコメントは刹那的であり、時にくるくる変わるので、その辺りはご容赦を。
「存在」というものは、全てに先行する。なぜなら、ありとあらゆるものが、「存在する」という述語で絡めとられてしまうからである。私が存在する、魂が存在する、神が存在する、時間が存在する。無が存在する...... 「存在」は、まるでブラックホールのように、全てを押し並べて吸い込んでしまう。我々は「存在」から逃れられない。しかし、私たちは「存在」を揺り動かし、危うくすることはできる。
危うい状況は色々とあると思うが、それは主観でしか捉えられない。各々で違う。しかし存在を脅かせるものは他のものからでもかまわない。それは知覚、感覚で感じる。まだ未分化のものである。それらは「存在」からこぼれ落ちる。我々は「存在化」しつつある何らかのものを得ることができる。つまり「存在化しつつあるもの」を動的に生み出す可能性をもっている。そうやってありとあらゆる「存在」を生産することができるのではないか。つまり我々は「存在の可能性」を持っているのである。
まあ、こんなこと、どうでもいいちゃ、どうでもいいんすけど。。。
後記
ちなみに大学生だった頃、筒井康隆のハイデガーの解説を聞いて、とても面白かった記憶がある。「誰にでもわかるハイデガー」(新潮カセット講演)です。おすすめ。