私とイエス
最近、私は涙もろくなった。
テレビや映画を見ている時、悲しい場面や一生懸命頑張っている人の姿を見ると、泣き出してしまう。
しかし小説を読んで泣いたのは、これ一冊かもしれない。しかも慟哭だ。その本は、遠藤周作の「イエスの生涯」である。
読んだのは大学を卒業し、入社するまでの間だったと思う。そのころは、神の言葉と信じていた数学がゲーテルにより不完全とみなされたことを知り、二ーチェは「神は死んだ」と言って発狂し、道徳や正義よりも欲望と差異が価値を生み出す資本主義が横行する時代で、自分は何をよすがにすればよいか、迷っていた時だった。
ストーリーは遠藤周作の秀逸な語り口で進められる。読者は、最後に至ってイエスを裏切る使徒と交錯して、イエスの最後を見守る。死に至って使徒はイエスの呪いを恐れる。固唾を飲んで待っていると、十字架に張り付けられ、生死をさまよいながら、イエスは言う。
「主よ彼らを許したまえ。彼ら、その為すこと知らざればなり。」
そのくだりにきた時、私はあり得ないと思った。と同時にイエスが何を思って、これまで人と接してきたかが、全てが明らかとなった。それを知るや、使徒が慟哭したように、私も慟哭したのである。
病んだ老人の傍でたたずむイエス。多くの人が行きかう大通りで、病んだ女性がおそるおそるイエスの袖に触れ、一瞬にその女性の苦しみや悲しみを悟ってしまうイエス。イエスは人を愛し、人に優しさを与え、人の苦しみを全て背負い、自分が肩代わりをする。イエスはただ純粋に人を愛した。そのためにイエスは全てを尽くし、見返りを求めず、ただ人を愛し続けたのだ。
それから私はイエスのようになりたいと思うようになった。少しでもイエスに近づきたかった。難しいことではない。全てを受け入れ、全てを許し、全てに愛を持って誠実に生きれば良いのだ。しかしそれを実践するのは難しい。見返りを求めず、ただ人のために尽くすことを喜びと思う。無償の愛だ。
もちろん、今でもイエスを信じている。しかし、人の愛し方には様々な形があることも知った。私は一生をかけて、それを追い求めることになるだろう。
今もって、私は洗礼を受けていない。それでもいいと思う。私は隠れキリシタンと自称して、私の進むべき道を進む。ただ言うのは簡単だが、実践することは難しい。
私は未だに迷える子羊のようだ。
最近、私は涙もろくなった。
テレビや映画を見ている時、悲しい場面や一生懸命頑張っている人の姿を見ると、泣き出してしまう。
しかし小説を読んで泣いたのは、これ一冊かもしれない。しかも慟哭だ。その本は、遠藤周作の「イエスの生涯」である。
読んだのは大学を卒業し、入社するまでの間だったと思う。そのころは、神の言葉と信じていた数学がゲーテルにより不完全とみなされたことを知り、二ーチェは「神は死んだ」と言って発狂し、道徳や正義よりも欲望と差異が価値を生み出す資本主義が横行する時代で、自分は何をよすがにすればよいか、迷っていた時だった。
ストーリーは遠藤周作の秀逸な語り口で進められる。読者は、最後に至ってイエスを裏切る使徒と交錯して、イエスの最後を見守る。死に至って使徒はイエスの呪いを恐れる。固唾を飲んで待っていると、十字架に張り付けられ、生死をさまよいながら、イエスは言う。
「主よ彼らを許したまえ。彼ら、その為すこと知らざればなり。」
そのくだりにきた時、私はあり得ないと思った。と同時にイエスが何を思って、これまで人と接してきたかが、全てが明らかとなった。それを知るや、使徒が慟哭したように、私も慟哭したのである。
病んだ老人の傍でたたずむイエス。多くの人が行きかう大通りで、病んだ女性がおそるおそるイエスの袖に触れ、一瞬にその女性の苦しみや悲しみを悟ってしまうイエス。イエスは人を愛し、人に優しさを与え、人の苦しみを全て背負い、自分が肩代わりをする。イエスはただ純粋に人を愛した。そのためにイエスは全てを尽くし、見返りを求めず、ただ人を愛し続けたのだ。
それから私はイエスのようになりたいと思うようになった。少しでもイエスに近づきたかった。難しいことではない。全てを受け入れ、全てを許し、全てに愛を持って誠実に生きれば良いのだ。しかしそれを実践するのは難しい。見返りを求めず、ただ人のために尽くすことを喜びと思う。無償の愛だ。
もちろん、今でもイエスを信じている。しかし、人の愛し方には様々な形があることも知った。私は一生をかけて、それを追い求めることになるだろう。
今もって、私は洗礼を受けていない。それでもいいと思う。私は隠れキリシタンと自称して、私の進むべき道を進む。ただ言うのは簡単だが、実践することは難しい。
私は未だに迷える子羊のようだ。