ナカナカピエロ おきらくごくらく

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私とイエス

2011-01-31 01:24:53 | 日記
私とイエス

最近、私は涙もろくなった。
テレビや映画を見ている時、悲しい場面や一生懸命頑張っている人の姿を見ると、泣き出してしまう。

しかし小説を読んで泣いたのは、これ一冊かもしれない。しかも慟哭だ。その本は、遠藤周作の「イエスの生涯」である。

読んだのは大学を卒業し、入社するまでの間だったと思う。そのころは、神の言葉と信じていた数学がゲーテルにより不完全とみなされたことを知り、二ーチェは「神は死んだ」と言って発狂し、道徳や正義よりも欲望と差異が価値を生み出す資本主義が横行する時代で、自分は何をよすがにすればよいか、迷っていた時だった。

ストーリーは遠藤周作の秀逸な語り口で進められる。読者は、最後に至ってイエスを裏切る使徒と交錯して、イエスの最後を見守る。死に至って使徒はイエスの呪いを恐れる。固唾を飲んで待っていると、十字架に張り付けられ、生死をさまよいながら、イエスは言う。

「主よ彼らを許したまえ。彼ら、その為すこと知らざればなり。」

そのくだりにきた時、私はあり得ないと思った。と同時にイエスが何を思って、これまで人と接してきたかが、全てが明らかとなった。それを知るや、使徒が慟哭したように、私も慟哭したのである。

病んだ老人の傍でたたずむイエス。多くの人が行きかう大通りで、病んだ女性がおそるおそるイエスの袖に触れ、一瞬にその女性の苦しみや悲しみを悟ってしまうイエス。イエスは人を愛し、人に優しさを与え、人の苦しみを全て背負い、自分が肩代わりをする。イエスはただ純粋に人を愛した。そのためにイエスは全てを尽くし、見返りを求めず、ただ人を愛し続けたのだ。

それから私はイエスのようになりたいと思うようになった。少しでもイエスに近づきたかった。難しいことではない。全てを受け入れ、全てを許し、全てに愛を持って誠実に生きれば良いのだ。しかしそれを実践するのは難しい。見返りを求めず、ただ人のために尽くすことを喜びと思う。無償の愛だ。

もちろん、今でもイエスを信じている。しかし、人の愛し方には様々な形があることも知った。私は一生をかけて、それを追い求めることになるだろう。

今もって、私は洗礼を受けていない。それでもいいと思う。私は隠れキリシタンと自称して、私の進むべき道を進む。ただ言うのは簡単だが、実践することは難しい。

私は未だに迷える子羊のようだ。
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冷たい熱帯魚

2011-01-30 02:17:06 | 日記
冷たい熱帯魚

1月29日(土) 13:20 テアトル新宿にて園子温監督の最新作「冷たい熱帯魚」を見ました。

初日なので舞台あいさつがあり、園子温監督や主演の吹越さん、でんでんさん、他出演者の方々が舞台に立って、撮影時のエピソードなどをお聞きしました。舞台あいさつなんて、初めてなので感無量でした。(生の吹越さん、かっこよかった。)

園子温監督は私の好きな監督の一人。何でか分かりませんが「部屋 THE ROOM」のDVDを持っていて、鮮烈な衝撃を受けたのを覚えています。「エクステ」を見た後、園子温が監督と知ってちょっと感動。

今回の最新作「冷たい熱帯魚」は園子温監督が120%、力を出し切った映画だと思います。

舞台あいさつで役者さんたちが今回の内容について「何も言えません」と言っていたので、私も何も言いません。賛否両論になると思いますが、私はこの映画がとても好きです。

園子温監督には、今後も園子温らしい個性的な独特感のある、意欲的な作品を作り続けてほしいと思っています。
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さぼりました

2011-01-29 01:40:09 | 日記
さぼりました

私は仕事で妥協しない。

調査に行き詰まった人を見つけると、「どうしたの?」と声をかけ、担当外の製品でも相談に乗るようにしている。私がプロジェクトのリーダーを任されたのも、そう言った背景があったのかもしれない。

結局それが仇となり、私は全てを抱え込み、ついに発狂してしまったが。。。部長との面談の際には、時として、突き離すことも必要と指導された。

しかし私がもっとも逆鱗に触れたのが、年上だが同じ職務等級のやつが、期限がすぎても仕事をやっておらず、理由を問いただした時の回答だった。

「さぼりました。」

それを聞いた瞬間、「おまえ、ふざけんなっ!」と心内で思ったが、その場では何も言えなかった。後で、やさしくフォローしてみたが、逆切れして帰られてしまった。以前から、仕事をしない人で有名だったが、ここまでひどいと思わなかった。

その時、こんなやつが給料を貰っていること自体おかしいと思い、絶対つぶしてやる!と心の中で誓った。結局、つぶれたのは、私の方だったが、部長に洗いざらい報告して、チクってやった。

私が復帰した時、そいつは山のように仕事を振られ、こわい課長から、徹底的にフォローされていた。私は、ざまあみろっ!と思いながらも、ちょっと可哀想なことをしたかなあと少し罪悪感を感じた。

とある日、急用があると言って有給休暇を取らしてもらった。理由は混雑が予想される映画のチケットを前もって購入したいがためだ。

これは「さぼりました」の内に入るのかなっと思いながら、一応、お仕事はきっちりやってるからいいよね、と自分に言い訳をしているのであった。

私も人間だ。人間は往々にして自分に甘い。
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腕相撲

2011-01-28 01:34:27 | 日記
腕相撲

腕相撲はどちらかといえば強い方だ。

自論としては、頭を鍛える前に身体を鍛えろっと言いたい。
社会へ出た時にどうしても力ずくで進めないといけない場面が出てくる。使うのは頭だが、根性と腕力に余裕があれば、大抵のことは乗り越えられると思っている。若者からすれば、古臭い考え方で、ナンセンスと思われるかもしれない。でもそういうやつに限って、根性がなかったり、すぐにあきらめたり、無責任だったり、言い訳ばかりする。ガタイのデカイやつは、早々泣き事は言わない。

高校生になった時、父と腕相撲をやったことがある。父は50歳を過ぎていたが、まだまだ負けないぞといった余裕を見せていた。しかし、いざやってみると、私が手首をクッとひねったところで筋を痛めたのか、イテテテテと言ってやめてしまい、勝負にならなかった。

今、甥っ子は高校一年生だ。私は、高校に在籍している間に私に腕相撲で勝つようにと言ってある。私を負かしたら、大人として認めてやるぞと言っているのだが、「一生、勝てないかも。」と弱腰なことを言ったので、私は「だめじゃねえか!」と一喝した。

私は老いさらばえて負けるまで、甥っ子と腕相撲を取ってやろうと思っている。
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相撲

2011-01-27 02:15:26 | 日記
相撲

父は相撲が好きだった。
私と姉は父とよくテレビで相撲を見た。

今では、段々と高揚し緊張感が高まっていく独特な間が好きだが、当時落ち着きのない私は、のろのろとして、なかなか試合が始まらない相撲にいつも苛立ちを感じていた。

それでも大一番になると、家族皆、画面に釘つけになった。姉や私は、「ほら、押せ!」とか「あっ!あっ!よしっ!」とか叫びながら、勝負の行く末を見守った。父はいつも一枚板でできた座卓の端と端を回しのように両手で握りながら、自分も一緒になって、座卓と相撲を取っていた。そして座卓をガタガタと揺らしては、卓上の湯飲みを倒して、よく母に叱られていた。

一回でいいから、父に国技館へ連れて行って、相撲を見せてやりたかった。私は、事あるごとに姉といつも父を偲んでいる。
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教育テレビ 高校生数学講座

2011-01-26 01:11:52 | 日記
教育テレビ 高校生数学講座

大学生の時、とある日のお昼頃、私と姉と父は居間でくつろいでテレビを見ていた。母は台所に立ってご飯の用意をしていた。

たまたま、何故だか忘れたが、教育テレビの高校生数学講座を皆で見ていた。そこでは幾何だか、代数だか、ある定理の証明を説明していた。講師は淡々としゃべって証明を進めていく。もちろん、私は全て理解していたのだが、父と姉はまるで分からず、しかしながら何とか理解しようと必死に画面に食い入りながら、講師の説明を聞いていた。

説明が終わりにさしかかったところで、姉が
  「あー!あたし全然理解できなかった!」
と嘆いたところ、父は笑いながら、
  「何言ってんだ!
   これから始まるんじゃないか!これから!」
と反論した。しかしテレビは非情である。講師は
  「これで終わりです。また来週。」
と言って、終了のテロップが流れた。

父は半分口をあげたまま、ポカンとして、私を見た。
私はおかしくて仕方がなく、笑いを堪えていた。
父は私が理解していると知るや、何とも言えない顔をしていた。
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少年水泳

2011-01-25 00:20:29 | 日記
少年水泳

私は水泳が苦手だった。

小学校二年生まで泳ぐことができず、足をつけたまま、手だけで泳いでる真似をして、同じ同級生から、「泳げてないじゃん!」とからかわれていた。

その夏休みにYMCAの夏季水泳コースに通った。そこでとりあえず、息つぎなしのバタ足だけマスターした。そのうち息つぎができるようになり、25メートル泳げるようになった。気がつくと平泳ぎができるようになり、潜水で25メートル潜ることもできるようになった。

中学生になると筋肉が付き、校内で行われた水泳大会で平泳ぎを泳ぎ、同年生の中で一位を取れるようになった。
しかしながらクロールだけは泳げなかった。

大学生になり、暇ができると、毎日のように近くの県立体育館のプールに通い、そこでクロールをマスターしようと思った。私は、泳ぎのうまい人が水の中で、どのように手を動かしているのか、水中から観察した。そしてクロールをマスターすると、毎日50メートルのプールをクロールと平泳ぎをおり混ぜ、1000メートル泳いだ。

大人になって、甥っ子が小学生の時、水泳を教えてくれと姉から頼まれた。何回かクロールのコツを教え、とりあえず何とか息つぎをしながら、クロールを25メートル泳げるようになった。次に平泳ぎを教えてくれと頼まれたが、どう教えていいか分からなかった。平泳ぎは知らない間に身についていたからだ。

苦労して身につけた物ほど、より多くの恩を得ることができる。私は痛切に感じた。
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少年柔道

2011-01-24 01:52:22 | 日記
少年柔道

私は柔道をしたことがない。

ただ、高校時代、二人の柔道部の同窓生と懇意だった。

一年の時、一人の同窓生と柔道の取り組みをして遊んでいた時、帯の取り合いみたいになり、私はそれを阻止すべく防御の体制をとった。その時、同窓生が驚いて「なんで受け身知ってんの?」と聞いてきた。私にとっては当たり前の動作だっただけに不思議だった。

二年の時、もう一人の同窓生からふざけて、一本背負いをかけられそうになった。その同窓生は柔道部の主将だった。私は即座に体制を落とし、相手の腿の後ろにひざを当てて動けないようにし、それを防いだ。その同窓生からも「なんで受け身知ってんの?」と聞かれた。私は、「そんなの当たり前じゃん。」と答えた。その後、不意をつくように、また一本背負いをかけられそうになった。もう一度、確かめたかったようだ。私は本能的にまた受け身をとった。その時、その同窓生は、「うーん」と唸った。

そう言えば、私が小学生の時、よくサッカー部の友達の家にいき、柔道の真似事をしてよく遊んでいた。その友達は血の気が多く、悪がきだったが、豪快ではっきりした気持ちのいいやつだった。暇さえあれば、年中、取っ組合いをして遊んでいた。もちろんその友達も柔道なんか知らなかった。そういった遊びの中でいつの間にか身のこなし方を覚えたのだと思う。

そうやって、私は遊びの中で身につけることが多かった。
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少年ゲートボール

2011-01-23 00:41:32 | 日記
少年ゲートボール

中学生の時、一回だけ体育の授業でゲートボールをやったことがある。なかなか難しかったが最初のゲートをクリアすると面白くなってくる。

相手のボールに当てると、その玉の傍に置き、叩いて相手のボールを外に出すことができる。しかし、実際に相手のボールを外に出そうとすると、「なんで俺のボール出すんだよ!」とクレームを言われる。でも、反則はしてはいないし、勝ちたいから、外に出してしまう。やっている内に皆、段々とストレスが溜まり、険悪な雰囲気に。。。

そういえば昔、ゲートボール中、いさかいになり、ステックで頭を叩いて傷害事件を起こし、逮捕された老人がニュースで放映されていたことがあった。

その時、ゲートボールって、一見楽しそうに見えるけど、実は、普段、心の奥底にしまっている人間の醜さや憎悪を呼び醒ます、醜悪なゲームなのではないかと思った。確かにゲームが終わっても疲労感だけが溜まり、爽快感がまるで感じられなかった。

高齢者が楽しくゲートボールをしているのは、多かれ少なかれ、あらゆる経験を乗り越え、人徳を積んでいるからではないだろうか。

少なくとも若者のスポーツではない。
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就活

2011-01-22 01:45:51 | 日記
就活

今日は少年シリーズを少しお休みさせて頂き、就活の話をしようと思う。まだ少年ネタはたくさんあるので、期待(?)していてください。

雇用崩壊という言葉を最近よく聞くようになった。社会問題にまで発展して、テレビで何度も取り上げられている。大変な時代になっているなあと思う。

これからお話する私の就活は、皆さんが逆上する内容かもしれない。「てめえ、ふざけんな!」と言われるのを覚悟して、私の時代の私の就活を語ろう。

某私立大学、理学部数学科に在籍していた私は、大学4年になっても就職活動に無関心だった。毎日、「数学の基礎」という分厚い本と竹内外史先生が書いた数学基礎論の本を読んで、ゲーテルの不完全性定理について勉強していた。

就職活動はこれから夏になろうという時、そろそろやばいと感じ始め、まずはスーツを購入するところから始まる。
最初は某大手電気メーカーの会社。電話をかけて、人事課の人と会い、大まかな仕事の内容と入社後の研修制度や希望の職場に配属されるまでの過程を教えてもらった。
当時、私は人口知能に興味を持っていたので、そっち方面の仕事をしてみたいと、コンピュータについて何も知らないくせに大口をたたいていた。
研究所も見学したが、私にはハードルが高いと感じ、希望しなかった。

その後、就職支援を担当している教授から、別の某大手電気メーカーの子会社を紹介された。
説明会の当日、10名程の就職希望者が集まり、その中で私も説明会に参加していた。一通り説明が終わり、解散となった時、私だけ残された。なんだろうと思ったら、今度は別室へ案内された。そこで私はふかふかのソファに坐らされ、話を聞くことになった。さっきは鉄パイプの椅子だったのに。。。。そして

「いやー、君みたいな人材が欲しかったんだよ。」

と言われ、仕事の内容をさらに詳しく説明してくれ、夕ご飯までご馳走になった。いわゆる接待というやつ。。。

しかし私は自分だけ特別扱いされたことで、とても怖くなり、最初に訪問した会社に電話して、内定をもらってしまった。

結局、まわったのは、その二社だけ。

一応、形式的ではあるが面接テストもあった。面接官は二人。そこで、大学では何を勉強してきたのか、説明させられた。その説明が分かりづらかったのか、ちょっとむっとされ、写像の全射と単射について説明を求められた。簡単なテストだ。
その当時、私は面接官とはとても優秀な人だろうと思いこんでいたので、その定義を全て論理記号で書き、自信を持って答えた。
「これが全射と単射の定義です。」
そうしたら急に面接官が慌てだし、模範回答のあんちょこを取り出して、二人で確認し始めた。私も慌てて、「いや、これは分かりやすく言うとこういうことなんです。」と説明を付け加えた。結局、私の答えが正しいと理解されたようで、私は、ほっとした。面接官からは、「ぜひ、うちの事業所に来ませんか?」と誘われたが、私は希望を曲げず、丁重にお断りをした。

その後、身体検査があると通知が来て、本社に呼ばれた。しかしそれはただの身体検査ではなかった。検査が終わった後、抜き打ちテストがあったのだ。検査されるのは身体だけではなかった。

その後は何事もなく、入社式を迎えた。

地獄はその後にあるということを私は知るよしもなかった
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