今日は福岡県人権研究所の定例研究会で「遊郭街跡 新柳町・清川の歴史と散策」と題して、戦中戦後の遊郭の仕組みや、娼妓さんたち暮らしぶりなどを話しました。昭和33年3月15日に売春禁止法が施行されて、今は町名も変わり消えてなくなった街です。私は資料を調べて書くのは好きですが、人様の前で喋るのは大の苦手ですから、一時はどうなることかと心配しましたが、何とか役目を果たすことができてほっとしています。講演の後、新柳町(現清川)を参加者と散策しました。会の終わりに「分かり易くて面白かった」と、おっしゃってくださった方がいらっしゃって嬉しかったです。
三光園 昭和元年創業、現在も営業している料亭
ゆには会館跡に建ったマンション。 かつてここは1階がゆにはデパート2階が福岡劇場という映画館でした。
新柳町入り口に建っていた石柱 ここからが遊郭街になりました。石柱には「春風緑柳飛鳳凰・夜雨青燈引鸚鵡」と彫られていました。この絵は当時の雰囲気をよく表していると思います。西島伊三雄画
翠糸学校 全国に芸娼妓学校のは3校しかありませんでしたが、その中の1校が新柳町にあった翠糸学校です。修業年限4年、午前9時から2時まで礼儀作法や裁縫、生け花、習字、算盤などを教えていたそうです。
遊郭 一楽 岐阜の浅野屋と二大妓楼と評判を取っていました。よくもこれだけの美人を揃えたものだというほど美人ばかりだったそうです。大正、昭和の洋画家、和田三造のデザイン。門の奥に太鼓橋が掛かっていて、極楽に通じる架け橋などと呼ばれていたそうですが、男性にはそうであっても、女性にとってはどうだったんでしょうね。