夕方、ひめちゃんは、タバサねーちゃんのお支度が出来るまで、ミニドッグランの側で待ちます。
ひめちゃんを、長時間この状態に置いておくことは危険です
器用にハーネスやリードを食いちぎってしまうからです
タバサねーちゃんの準備も出来て、堀之内を南に出ます
今日ちょっと遅かったかな?
誰にも会いませんでした
西に浅間山を見ながら帰ります。
明日も晴れだね
先日、ふと思いついて、鏑木の虚空蔵菩薩を尋ねました。
かなり前に訪問しています。
新川(桐生市新里町新川)の安養寺裏の細い道を記憶をたよりに、無事辿り着きました。
目立つ石造物がいっぱいです。
なかなか凄い青面金剛です
でも、残念ながらお顔が削られています
隣は如意輪観音かな?
やはりお顔が削られています
こちらは、新しそうな観音様です。
観音様の後ろには、古い墓石が集められています。
あの建物に、新里村指定重要文化財(桐生市指定重要文化財)の鏑木の木像虚空蔵菩薩坐像&木像大日如来坐像がありそうです。
残念ながら、お姿は見えません
桐生市のHPには、写真があります。
坐像は案外小さいもののようです。
とりあえず合掌
りっぱな石造物がまだまだあります。
右の像もお顔がない
下で支えているのは、龍の子供・贔屓(ひいき)かな?
かなり古い六地蔵です
実はここには、鏑宝院という修験者がいたと思われます
常広寺の和尚さんの宝箱の中にある文書に、大峰派権大僧都鏑木武七正保の署名があります。
鏑は、鏑木の鏑ですね。
江戸時代には、一つの村に1人と言っていいほどの修験者が存在したと言います
そしてできるだけよう由緒を持っていたいということで、この人物は、山上氏に繋がろうと考えたようです
『新里村誌』には、100名ほどの山上氏家臣団の名簿がありますけど、もともとはこの人物が自家のステイタスを上げるために創作したもののようです
山上ろまん(山上氏家臣団の創作)
鏑木家が山上氏の正当な子孫であるという最初の部分と、正応余年の文書を天保三年に鏑木武七正保が写すたのだという部分がカットされて、村誌に掲載されたのです
明治になって修験道が禁止されて、鏑宝院は廃業し、修験関係の文書は散逸したようです。
その一部が、常広寺に辿り着いたのでしょう。
修験者・鏑木武七正保の法力は偉大で、山上氏家臣団の一覧に、いまだに酔いしれている人もいます。
もしかしたら、文才もあって、何か物語を創作したかも知れませんね