続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

三ッ橋伝説と栗庵似鳩の記憶

2024-02-15 16:27:15 | 日光例幣使街道

ひめちゃんは、堀之内の南西・塚越を歩いてきました。

塚越の塚は、庚申塚古墳です。

草も刈ってあるし、頂上へ登って見よう

りっぱな庚申塔です。

あれ、倒れてるのは、青面金剛です。

手も6本、2鶏3猿のフル装備の青面金剛です

庚申塔の下部に人名が見えます。

現在もこの辺にある名字がほとんどかな

そろそろ、降りましょうでふよ

アタチは歩きにくくはないけれど、おかあたんは気をつけてね

庚申塚古墳、庚申塔がいっぱいです。

石はどこから持ってきたんだろう

 

 

 

2月12日、日光例幣使街道の県道142号線を走ります。

31の三ッ橋伝説の地を探します。

日光例幣使街道沿いと言うことですけど、史跡としての説明板があったのは、道の北側です

 

まず説明板が目に付きます。

微妙に路上駐車できます

合掌

 

説明板を確認です。

世良田長楽寺の開山・栄朝禅師が通りかかって、経文を唱えてハシカの子を救ったのです。

栄朝禅師は、牛に乗ってやって来たのです。

世良田長楽寺は、この日光例幣使街道の先(だいぶ先ですけど)にあります。

 

 

少し東に、栄朝禅師が牛を打った松をさしたら根付いて、大きな松になったという牛打の松跡があるはずです。

案内番や説明板はありませんけど、群馬銀行・豊受支店の向かい側に、それらしき史跡がみえます

松の跡は見当たりません

碑が3基です。

 

向松庵創立二百年記念碑です。

一部は隠れてしまってます。

でも、大体は読み取れます。

寛政初期に牛打の松に向かって庵が建てられたのです。

創立者の二翁は栗庵似鳩(りつあんじきゅう)の門人だったのです

そしてその後、全国を訪ねたり俳歷を残したり、門人を育てたりしたのです。

ここにも、栗庵似鳩の記憶です

 

この碑は、よく見えません

「松の威容に・・・」の文字は見えます。

牛打の松は、威容を誇ったのです。

 

こちらは全く見えません

いずれにしても、この辺りは徘徊が盛んだったのです

そして栗庵似の存在も大きかったのです

 

ふと、文久2年生まれの実家の曾祖父が俳諧を楽しんでいたと聞いた事を思い出しました。

彼は長寿で、私が生まれた時はまだ存命でした。

ちょっとだけ接点のある曾祖父、もっと一緒に生きて欲しかった

 

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