猛暑で引きこもりなんですが、昨年に引き続き、地元の目黒美術館に行ってきました💦
今回は「武井武夫 生誕130年展」
もう終了しましたが・・・ゆっくり鑑賞してきました。
ウィキペディアより抜粋。
武井 武雄(1894年〈明治27年〉~1983年〈昭和58年〉)
童画家、版画家、童話作家、造本作家として活躍。
長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)西堀の裕福な地主の家に生まれる。
武井家は諏訪藩で御中小姓を代々務め、藩の御用のかたわら、私塾を開き地域の子ども達の教育に熱心に取り組んだ。
武雄の父慶一郎も平野村長を務めるなど地域に貢献した人物であった。
その一人息子である武雄は、幼い頃は病弱で、多くの時間を家の中で過ごし、友達も少なかった。
そこで空想の中に「妖精ミト」という友達を創り出し、童話の世界で一緒に遊んでいた。
この経験は、生涯武井の中から消えることはなく、童画を描く原点になったのではないかといわれている。
1913年 - 長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。
1919年 - 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科卒業。
1922年 - 東京社が創刊した絵雑誌『コドモノクニ』創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当、
その後絵画部門の責任者(絵画主任)となる。
1923年 - 処女童話集『お伽の卵』出版。
1925年 - 初の個展を開催。このときに用いられた「童画」という言葉がのちに定着する。
1927年 - 日本童画家協会を結成。 後略。
以上のプロフィールを見ただけでも、武井武夫氏が現代の児童文化の礎を築いたことがわかります。
「裕福な旧家」「病弱な子」「妖精が友達」「地域貢献」・・・
ここまでは、ありがちなエピソードです。
ワタクシメも「旧家に生まれ」「病弱?」「妖精が友達」でした。
ただ一つ違うのは、なおちゃんはおバカさんだったのです🤣
冗談です (o*。_。)oペコッ
明治‐対象は、裕福な家に生まれ才能があれば「作品を創り楽しむ」というだけでも良かった時代だと思うんです。
しかし武井武夫氏は、
童話の添え物として軽視されていた子ども向けの絵を「童画」と命名し、芸術性を高めていきます。
そもそも当時は「子ども向けの文化」は軽んじられていましたから、
『コドモノクニ』をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、おもちゃの研究・創作などなど多岐多彩な分野に打ち込み道を切り拓いたバイタリティーは猛烈だったことでしょう。
原画や版木、創作過程などが展示されていましたが、大胆な構図や幾何学的な描線は、まったく古びていません。
現代なら「デジタル」で制作するようなモノを手作業で仕上げてありました!
時代の先の先を見越したような作品に、ワタクシメは魅了され、そういった作品を楽しみながら育った世代であることに感謝します。
黒柳徹子さんとのエピソード
1983年の1月、若かりし頃の徹子さんが、売れっ子で多忙の武井武夫氏に、
「先生、私、絵本を書こうと思っているんです。木が木にとまりたかった、というお話に、絵を描いてほしいんですけど」とお願いしたら、思いがけず「うん、いいよ」とご快諾。。
「キツツキとかリスとか、色々出るんですけど」
「ああ、いいよ、いいよ」
「ペンギンも出るんです」
「お安い御用」
そんなわくわくするお話しから2週間ぐらいで、武夫氏はあっという間に亡くなってしまいました。
残念がっている徹子さんが、武夫氏のお嬢さんの武井三春さんに「なんとかして絵本にできないかしら」と相談すると、
三春さんが「木や鳥や海ならたくさんある」と。
その時点では徹子さんは文章は描けていませんでしたが、急いで完成させ三春さんにFAXしました。
そうしたら、お話にあう絵が、大体全部あったそうです。
三春さんは、武井氏の描かれたものを整理して、徹子さんが書いた童話、それぞれのページにぴったりの絵を探し出してくださいました。
それが「木にとまりたかった木のはなし」です。
武夫氏と徹子さん、お二人の奇才が「奇跡」を起こした一冊です📖
とても可愛らしい作品ですよ🌳
今回は「武井武夫 生誕130年展」
もう終了しましたが・・・ゆっくり鑑賞してきました。
ウィキペディアより抜粋。
武井 武雄(1894年〈明治27年〉~1983年〈昭和58年〉)
童画家、版画家、童話作家、造本作家として活躍。
長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)西堀の裕福な地主の家に生まれる。
武井家は諏訪藩で御中小姓を代々務め、藩の御用のかたわら、私塾を開き地域の子ども達の教育に熱心に取り組んだ。
武雄の父慶一郎も平野村長を務めるなど地域に貢献した人物であった。
その一人息子である武雄は、幼い頃は病弱で、多くの時間を家の中で過ごし、友達も少なかった。
そこで空想の中に「妖精ミト」という友達を創り出し、童話の世界で一緒に遊んでいた。
この経験は、生涯武井の中から消えることはなく、童画を描く原点になったのではないかといわれている。
1913年 - 長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。
1919年 - 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科卒業。
1922年 - 東京社が創刊した絵雑誌『コドモノクニ』創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当、
その後絵画部門の責任者(絵画主任)となる。
1923年 - 処女童話集『お伽の卵』出版。
1925年 - 初の個展を開催。このときに用いられた「童画」という言葉がのちに定着する。
1927年 - 日本童画家協会を結成。 後略。
以上のプロフィールを見ただけでも、武井武夫氏が現代の児童文化の礎を築いたことがわかります。
「裕福な旧家」「病弱な子」「妖精が友達」「地域貢献」・・・
ここまでは、ありがちなエピソードです。
ワタクシメも「旧家に生まれ」「病弱?」「妖精が友達」でした。
ただ一つ違うのは、なおちゃんはおバカさんだったのです🤣
冗談です (o*。_。)oペコッ
明治‐対象は、裕福な家に生まれ才能があれば「作品を創り楽しむ」というだけでも良かった時代だと思うんです。
しかし武井武夫氏は、
童話の添え物として軽視されていた子ども向けの絵を「童画」と命名し、芸術性を高めていきます。
そもそも当時は「子ども向けの文化」は軽んじられていましたから、
『コドモノクニ』をはじめとした児童雑誌の挿画、版画、おもちゃの研究・創作などなど多岐多彩な分野に打ち込み道を切り拓いたバイタリティーは猛烈だったことでしょう。
原画や版木、創作過程などが展示されていましたが、大胆な構図や幾何学的な描線は、まったく古びていません。
現代なら「デジタル」で制作するようなモノを手作業で仕上げてありました!
時代の先の先を見越したような作品に、ワタクシメは魅了され、そういった作品を楽しみながら育った世代であることに感謝します。
黒柳徹子さんとのエピソード
1983年の1月、若かりし頃の徹子さんが、売れっ子で多忙の武井武夫氏に、
「先生、私、絵本を書こうと思っているんです。木が木にとまりたかった、というお話に、絵を描いてほしいんですけど」とお願いしたら、思いがけず「うん、いいよ」とご快諾。。
「キツツキとかリスとか、色々出るんですけど」
「ああ、いいよ、いいよ」
「ペンギンも出るんです」
「お安い御用」
そんなわくわくするお話しから2週間ぐらいで、武夫氏はあっという間に亡くなってしまいました。
残念がっている徹子さんが、武夫氏のお嬢さんの武井三春さんに「なんとかして絵本にできないかしら」と相談すると、
三春さんが「木や鳥や海ならたくさんある」と。
その時点では徹子さんは文章は描けていませんでしたが、急いで完成させ三春さんにFAXしました。
そうしたら、お話にあう絵が、大体全部あったそうです。
三春さんは、武井氏の描かれたものを整理して、徹子さんが書いた童話、それぞれのページにぴったりの絵を探し出してくださいました。
それが「木にとまりたかった木のはなし」です。
武夫氏と徹子さん、お二人の奇才が「奇跡」を起こした一冊です📖
とても可愛らしい作品ですよ🌳
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