だーばぁの流儀

児童文学作家・岡田なおこブログです。
全身マヒ+オストメイト・作家・アラ還ならではの日々を気ままにつづっています。

パネルディスカッション 🐌 エピローグ

2018年06月25日 | 日記
パネルディスカッションの補足が長くなりました (´Д`)


6月の初めに障がい者団体でパネルディスカッションを行ないました。
障がい当事者やその親御さんがそれぞれの体験や悩みを語りました。
ワタクシメも「パネラー」をしましたが、語りつくせなかったモヤモヤをココに書いてきました。
ブログには「ワタクシメの今・日々のすったもんだ」をつづっていますが、
過去があるから「今に至る」わけですから、ココの読者の方にも多少は知っていただきたいと思ったのです。
大勢の方に読んでいただき、反響もあり嬉しかったです。

   ありがとうございました ♥

これからも折に触れ昔のことも書きますが、「パネルディスカッションのエピローグ」を持って、ひとまず≪おわり≫といたします 🙇


テーマは「老々介護+障がい者」


●母の病気
母はだいぶ前から手に持った物を落としたり足元がふらついたり・・・様子がへんでしたが、もともとそそっかしい性格なので、あまり心配していませんでした。
半年に一度MRIを撮っても何も出なかったので、「年のせい」にしていました。

15年くらい前に脳神経の病気で進行性、下肢からだんだんマヒして、言語障害とともに咀嚼もできなくなる等など告知されました。
その時、父の方がパニック状態になり、周囲は二重三重につらかったです。
当時まだ母方の祖母は健在で、父に病人と老人の世話がのしかかりました。
さすがにそれは無理ですから、祖母は施設に入ってもらいました。そこに追い打ちをかけて、弟の嫁が切迫早産しそうで入院。
第二子が生まれるまで第一子・4才を我が家で預かったりしました。

    私もヘルパーの時間を延ばし頑張りましたが、環境の変化が目まぐるしくて、苦しい時期でした。

それでも母が車いすで移動できる間は、年に一度は妹と弟の家族、ヘルパーさんも頼んで総勢10人位で旅行もしました。
母は病状が進んでも精神的には昔のままで、父に内緒で私に「美容師さんを呼んでくれ」とか「女子会をやろう」とかリクエストしてきました。
しまいには父が根負けして、母のしもべとなって動くようになり、おかしかったです。

●母がほぼ寝たきりになってから、
6年前に母は自力で尿が出なくなり、尿管をつけるため入院したので、ついでに胃ろうの手術もしました。
その後は午前中は毎日ヘルパーさんが来て、身の回りのことをしたり、リビングまで連れてきて筆談でおしゃべりとか、調子がいいと散歩して過ごしました。
その時間帯、私がそばにいると母のテンションが上がるから、なるべくそばにいてほしいとヘルパーさんに頼まれ、私は午前中だけ付き合いました。
午後は訪問リハビリや訪問ドクター・ナース、週二回は入浴。父は休む暇がありません。

   入れ代わり立ち代わり訪問者がいる生活はストレスでした。
   でも「慣れる」しかなく・・・その生活に慣れ、楽しめるようになってから、だいぶ楽になりました。

訪問介護のスタッフは女性が多いので、父にとってはある意味「ハーレム状態」 (笑)
皆さんによくしていただきました。

それなりに穏やかに暮らしていたある日、母の容態が急変。
一命を取り留めたものの人工呼吸器をつけることになり、そんな最中、私は利き手を骨折して、波乱の生活を送ることになりました。
あの何週間は生きた心地がしなかったけれど、母がことあるごとに「何事も経験よ」と言っていたので、私もそう思って乗り越えました。

●不幸中の幸い
母の病気は手の施しようがないのですが、「難病」と認定され医療費などの補助を受けられ、経済面では助かっています。
また家の近所の病院にも入ることができ、父は毎日見舞いに行くことができます。
   ※「病院」に関しては、あくまで推測ですが老老介護+障害者という家庭への配慮で、そこに入れたのかもしれません。

母が人工呼吸器を付けたら、なぜか尿か出るようになりました。弟と「お母さんの体についている管の数が+-0だね」と笑ったことがあります。

発病してから母はうれしい時しか涙を流さないので、家族もどんなことも「不幸中の幸い」ととらえることにしています。


●自分の今後
我が家にはまだまだ「案件」がありまして、悩みは尽きません。
ワタクシメは50代後半になり「障がい者の65才問題」を控えています。
このことは長ーくなるから今回は省きますが、その焦りは当事者しかわからない、家族も全然わかっていないので、一人で空回りしている状況です。

不安はたくさんありますが、これまでの経験を糧にして、社会とつなかることで「解決策」がみつけていこうと思っています。
周りにも「老々介護+障がい者」という家庭が多くなりました。
「社会保障」の在り方が抜本的に見直す時代になったと感じています。


   
  ↓ 写真のカエルは最上一平センパイがくれた「嫌がらせ蛙」です 🐸
    魔除けかな~?








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叩けよ さらば開かれん

2018年06月24日 | 日記
何でも「縁」にしたいタイプなんです、ワタクシメ。

またしても「続き」でござーます。
ゲストティーチャーやらせていただいて「楽しいこと」の方が多かったし、
「ここで・・・やるんですか (ノ・ω・)ノオオオォォォ-」というスゴイ経験もしました(笑)
でも前回書いたような虚しいことも、たくさんありましてぇー😢
「こんなことしてて、いいのかー」と悩んでいた頃でした。


ワタクシメが電動車椅子を使い始めて一月目のこと(20年位まえになります)。
某自治体がバリアフリー教育のためにつくっている紙芝居の脚本の仕事が舞い込みました。
テーマは「車椅子」です。
紙芝居の脚本を書くのは初めてでしたが、車椅子を使い出したときにこんな依頼がくるのも何かの縁だと引き受けました。
絵は絵本作家の長野ヒデ子先生で、今にして思えば「おんぶにだっこ」で描かせていただいた作品です。

ヒデ子先生の絵を見て驚きましたよ、ワタクシメ。
打ち合わせたわけでもないのに、ヒデ子先生がかいた車椅子の色と私の電動車椅子の色が同じオレンジだったことです。

 縁だ・縁だ・縁としか思えない!
 「縁」にしちまえ (*^^)v

ワタクシメはその紙芝居「ともだちきねん日」に愛情を感じるようになりました。
そして「この紙芝居を使って何かできないかな」と考えるようになったのです。

悩んでいる時期に、そういう出来事が舞い込む…人生って、おもしろいですね ⤴⤴⤴


だーばぁ生誕の地に、児童館が❣

かれこれ30年近く経ちますが、祖父の相続で田畑などなど手放すときに(?)、区に買っていただいた土地があります。
我が家と地続きの場所です。
そこは、いわゆる「公民館」となりまして、児童館も併設されました。

ということは・・・ガキんちょたちが我が家の周りを駆け回るわけですわ。(たまに敷地内に入ってくる子もいるんです・爆)

子どもからするとワタクシメのような全身マヒの「障がい者」は、とても不思議な存在で、
じろじろ見たり「どうしたの? なんで、なんで???」と、けっこうめんどっちーんです。

公共施設が家の前にできたことは「ラッキー😊」ですが、お子様たちとどう接するか・・・
若き日のだーばぁの課題となったわけですわ。

でも当時「ゲストティーチャー」はかなりこなしていたので、お膳立てしてくれる人がいれば、家の周りに出没するカキんちょ(お子様方)と
仲良くなれるかなーと思ったんです。
「紙芝居」を作ったことで、童話作家@児童文学作家だぞーという自覚と自信も持てたんです。
自分が持っているパーソナリティーを活かして暮らしたいと強く願いました。


  ※ 「ガキんちょ・ガキんちょ」って書いてすみません。
     我が姪や甥も「児童館育ち」なので・・・いろんな意味でスミマセン <(_ _)> <(_ _)> <(_ _)>
     どうして児童館(特に学童保育クラブ)に来るお子様って、のびのびしちゃうんですかねwww
     絶滅危惧種の「ガキんちょ」が、ワタクシメの身近にこんなにたくさん生息しているのかと感動してます (V)o¥o(V)



「叩けよさらば開かれん」で、やってみればー


当時、障害者団体のボランティアリーダーの中に子だくさんの人がいたので、ワタクシメの家の事情も含め、
「これから、こんなふうに児童館・学童保育クラブとつながりを作りたい」と相談しました。
もう時効だから白状しますが、私はそのリーダーなら「子どもつながり」で児童館の職員とか親の会の役員を紹介してくれるとか、
「何ならお膳立てしてあげようか・・・とか👀」なーんて言葉を期待したんです。

しかし、そのリーダーはあっさり言いました。
「そこまで考えてるんなら、直接行ってみればー。誰か間に入ってもらってもいいけど~。家の前でしょ。やりたいと思ったら、やればいいじゃない」
「ワタクシメが行って・・・大丈夫かな?」
「だーばぁさんがやろうとしてること、いいことよ。断られる理由はないわ」
「そりゃそうだけど・・・。そしたら、どんな感じで行ったらいいかな?」
「職員室のドアを、トントン」
「はー? いきなり、ですか?」
「そんな堅苦しい所じゃないわよ」
「ワタクシメにとっては未知との遭遇」
「だって『やりたい』んでしょっ」
「うん」
「家の前でしょー」
「そう」
「だから、トントン、よ」
「わかりましたよ。行ってきますよ。『叩けよさらば開かれん』ですよ 👊」


ワタクシメは意を決して「トントン」しました。
自作の絵本や紙芝居、インタビュー記事のコピーなど「作家・岡田なおこ」に関する資料を持って、ドキドキでしたよ。

   ここでは近所のおばさんとして子どもたちと接したいんです。
   私を見て笑ったりする子もいますが、それは知らないからでしょう。
   自然に接していくことで『バリアフリー』ってぇものを、感じてもらえたらいいと思うんです 云々

ちょうどその学童保育クラブには障害児が何人か通ってきているので、ワタクシメの申し入れはグッドタイミングだったようですが、
まだ地域の人にボランティアとして関わってもらう前例も少なく、まして「障がい者だしー」みたいな、お役所的なムードもありました。
そのころの若手指導員がワタクシメの気持ちを理解してくれて、骨折って「ルール」を作ってくれました。

あっちこっちに迷惑かけていますが、「叩けよさらば開かれん」は本当だなーと思っています。


子どもたちとの交流から始まって・・・

ワタクシメにペタペタひっついてくる子もいれば、相変わらず見て笑う子、シカトする子、いろんな子がいます。
ただ交流する前と違うことは、ワタクシメを馬鹿にする子がいると仲間同志で叱ったりたしなめ合うようになったことです。
またワタクシメの言葉をよく聞き取ってくれる子は「だーばぁさんが○○と言ってるよ」と通訳をしてくれたりします。
ワタクシメが車椅子を使わず歩いていると「今日は頑張ってますね。気をつけて下さいよ」とほめてくれることもあります。
 
その年度によって、子どもたちも職員も変わりますが、大きなルーティンはかわらないんです。

ゴールデンウイークを過ぎた頃からお子様方は”ガキんちょ“へと変貌します(笑)
梅雨が明けると、ドバーッと本領発揮 ●~*

小学生の頃、児童館で遊んでいた子が「アルバイト」でスタッフをしてくれたり、
学生アルバイトだった人が「指導員」になって来てくれるケースも増えました。
ワタクシメ、完ぺきにオバサンで、
「●●くーん、立派になったねー」なんて・・・マジで泣きそうなときもありますよ (T_T)

子どもたちは大人になり、ワタクシメは年取るから「交流のカタチ」は変わりますが、最初に「トントン」したお陰で、
自分のコミュニティを持つことができました。

高齢者などなど、コミュニティが持てない人のために、周囲が「エンヤコラ」することも多いらしいけど、
持てない人は「持ちたくない」んじゃないのかなー?

「縁を紡いでいこうとする気持ち」と、「叩けよさらば開かれんの精神」がなければ、幸せは獲得できいと思っています。
失敗は恐れずに、まずは「トントン」
それが「だーばぁの流儀」かも  (^_-)



   ↓  こんなカッコウで徘徊してます♿











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足が悪い・悪い方の手・・・

2018年06月21日 | 日記
「ゲストティーチャー」をさせてもらったことも、転機でした 🐾

前回ココに「ゲストティーチャーをすることもある 云々」と書きましたが、それもワタクシメの「人生の転機」になったと思います。
友人・知人が教師だったりPTA等の役員をしていて、
「だーばぁさん、講師やってみない・・・」と声をかけてくれて、もろもろのサポートをしてくれたのです。
全身麻痺だし言語障害のあるワタクシメが「ゲストティーチャー」をできるのは、たくさんの応援団のお陰です。

その友人の一人(現・公立小学校の副校長)に、
「あのさー、『○○が悪い』って言ったり書いたりしないでくれるかな。いろんな子どもがいるからね。配慮してね」と注意され、気が付きました。
彼はいとこみたいに親しくしていて(笑)、何でも話せる仲で、授業のことではケンカもしました。
だからこそ、彼の立場での率直な意見をワタクシメは受け入れて、それ以来「言葉の改善」に努めています。

具体的に書くと、彼に注意される前、ワタクシメは下記のような表現で子ども向けの講演をしていました。

皆さんは「障害」ってなんだと思いますか?
 体の障害(病気)だけでなく、社会がつくっている障害もあります。障害(病気)は治らなくても、社会が変れば「障害がなくなる」こともあるんですよ。
 これから、パズルみたいに言葉を埋め込んでみましょう。
〔××が悪いと〕→〔○○ができない〕 〔○○ができないと〕→〔▲▲が不便〕  だけど〔■■があればできる〕
 この記号の部分に言葉を入れていきますよ。


〔耳が悪いと〕→〔音が聞こえない〕・〔音が聞こえないと〕→〔会話ができない〕・だけど〔手話なら通じる〕

〔足が悪いと〕→〔歩くことができないない〕・〔歩くことができないないと〕→〔階段がのぼれない〕・だけど〔エレベーターがあればのぼれる〕

〔手が悪いと〕→〔ペンが持てない〕・〔ペンが持てないと〕→〔字が書けない〕・だけど〔ワープロがあれば書ける〕

ここで大切なのは「●●だからできない」としないで、「□□ならできる」というふうに考えていくことです。


まー、言っていることは我ながら、正しい❣
しかし・・・「○○が悪い」を連呼し強調しすぎてますね。
反省しました 🙇


究極の差別用語=五体満足

ゲストティーチャーをしていて、ワタクシメの方が勉強させていただくことばかりでしたが、悪い意味で学んだこともあります 😢

ワタクシメの講演の後で、校長が挨拶でこんなことを言ったのです。
「今日は岡田さんのお話を聞いて、障害のある方のご苦労がわかりましたね。みなさん、五体満足に生まれたことを、お母さんに感謝しましょう」

  ガ―ンでした。

ハンデのある当事者の話を聴くことによって、人を思いやる心を育てる。
障害者の視点に立って世の中を見られるようにする。
「共に生きる」ことを考ええるきっかかけをつくる。
そのためにワタクシメに講師を依頼したと思ったんだけど・・・。

その校長の言葉を翻訳すれば「五体満足=幸せ」「障害者=かわいそう」ということになるし、母親は「五体満足な子」を絶対に生まなければならないことになります。
ワタクシメは怒鳴りたかったですが・・・その講演会はPTAのお母さんたちが運営した行事で、校長は「添え物」にすぎなかったから、苦労された役員さんたちの手前、
笑顔を振り撒いて帰ってきてしまいました。
今だったらきっと、
「校長先生がヘンなこと言ったねー。みんなはどう思う? 私はすごく間違ってると思うけど・・・」と、イッパツ・ニハツ・サンパツ 👊 👊 👊 

黙って帰路についたことを、後悔しています。


このことがあってから、ワタクシメは世間で何気なく使っている「五体満足」の裏にある恐ろしさをひしひしと感じるようになりました。
「五体満足」だけでなく、「○○が悪い」「悪い方の▲▲」も・・・
未だになげなーく「優生思想」が社会に蔓延しているってことなんですよね ⤵⤵⤵



「身体障害者」を表す手話

下の絵ではよくわからないかも知れませんが、
A 右手のひらを胸にあて、体をなでるように丸く動かすと”体”という手話。
B 両手をグーにして、図のように棒を折る仕草をすると「障害者」。”壊す”という手話も同じです。

確かに「壊れている」のだから仕方ないけれど・・・
最初に「頭」をさすと「知的障害者」、「目」をさすと「視覚障害者」です。

   なんだかなー(´;ω;`)

「障害」を表現する際、劣等な言葉を使う傾向があるのは、日本だけでしょうか?







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むかし「生徒」だった立場から

2018年06月17日 | 日記
パネルディスカッション・・・番外編


前回ココに「パネルディスカッション」のことを書きましたら、好評でした。
続きも書きますが、その会は何人もの方がお話しされたので、ワタクシメ自身のことは別枠にします。

     ぶたもおだてりゃ、木にのぼる  🐽  ぶー (笑)


就学期から青春期を振り返って


「東京の障害者教育史研究会」の機関紙、2001年6月頃書かせていただいたエッセーから抜粋します。


――「薫ing」を書いて・・・。

 私のデビュー作「薫ing」(岩崎書店刊)は半実話的な物語です。
脳性まひの少女・薫が養護学校から普通の高校に進んで、様々な壁にぶち当たりながらも、「自分なり」の青春を謳歌していく。
一応「薫」は私自身がモデルになっていますが、私ができなかったことや夢や憧れも「薫」に込めて書きました。
だから私の中では〈薫=なおこ〉ではありません。
でも読んだ方の大半は〈薫=なおこ〉と思い、「養護学校から普通校に進んだ」部分に注目してしまうみたいです。

「薫ing」が出版されてから「障害児の就学問題」や「統合教育」についてインタビューされるようになりました。
質問する側は「絶対統合教育をするべきだ」とか、しいては「養護学校廃止論」を私の口から引き出そうとするんです。
「すごく短絡的な読み方をされてしまったなー」と悲しいですね、そういうときは。
「薫ing」を書き始めたときは「薫の頃」が自分の原点のように思えて「書き残そう」思っただけでしたが、
「どうしてココが原点なのか」考えてみたら「私なり」というキーワードが浮かんできたんです。

――「普通呪縛」からの脱出

 正直な気持ち、養護学校にいた頃は「普通」への憧れが強かった、「普通=正しい」。こんな方程式にしばられていた気がします。
しかし「普通校」に入ってみると、完全に萎縮した自分が現われてしまったんです。
   「私ったら、どうしちゃったの?」みたいな感じ。
   「みんなと同じになる・同じにする」
   「できない部分は隠す・ごまかす・我慢する」。
こういう思考パターンになってしまいました。

 もともと豪快に育てられていた人間でしたから、自分の内面を見てしまって、表面的な自分とのギャップに戸惑いました。
高校生の頃は葛藤しながらも、毎日の生活に追われていたし楽しいことも結構あったから、なんとなく時間が流れた感じです。
本当に深刻に悩み始めたのは「在宅障害者」になってからです。
「普通」に憧れて選んだ高校だったのに、三年のとき進路指導をしてもらえなかったんです。
両親が教員だったから「親が考えるだろう」と担任は思ったのかも知れないし、わりと若い先生だったからヌケちゃったのか・・・?
今の私だったらこちらから申し出て話をしたでしょう。
「進路指導」にならなくても高校生活について腹を割って話し合えたと思いますが、
前に書いたとおり普通校では萎縮していましたから、担任に何も言えず卒業式を迎えてしまいました。

 「進路指導」してもらっても、しばらくは「在宅」になったと思いますが、
三者面談をまったくしてもらえなかったことがキズになってしまいました。
それで今でいう「引きこもり」に近い状態の時期もありました。

ぐーっと落ち込んでわかったことは「普通」を目指すのではなく「自分なり」を模索しなければ障害者は生きていけない、ということ。

「私なりでいいんだ」に辿りついて、やっと楽になれたんです。
「普通呪縛」から脱出できたのは二十代の後半でした。


――なにが原因だったのか?

 私は養護学校では障害は軽い方で優等生でしたから、両親は私が「お山の大将」にならないように、
「お父さんの学校の子はこういうドリルをやっているよ」とか、
「お母さんが教えた子たちは、こうだったよ」と日常的に話してくれました。
それが逆に私の中では「焦り」になった面もあります。

 しかし決定的だったのは中学の担任のスタンスでした。
彼は私をなにがなんでも普通校に進ませたかったようです。
私の進路に関して途中までは担任と両親の足並みがそろっていましたが、
担任が私に「普通校で三年間やりぬかなかったら敗北者だ」と、こんなことを言うようになったんです。
両親は「そこまでしなくてもいいんじゃない」と担任の姿勢に対して反感を持ち、普通校進学に対して少し消極的になりました。
私は「普通校」への好奇心と「敗北者」という言葉が発する恐怖にはさまれて、
かなり不安定な状態で、養護学校から普通校にシフトしてしまいました。
担任の悪い所ばかり書いて申し訳ないけれど、
私の場合、「学校がどうこう」の問題ではなく、「担任がデリケートじゃなかった」というのが結論です。


――今後の教育に望むこと

 最近私はゲストティチャ―の仕事もしていて、あちこちの学校に呼ばれます。
普通学級の中にいる障害児にもよく出会い、「統合教育」についていろいろ書きたいこともありますが、それはまたの機会に!

 とにかく教師一人一人がきめ細かく生徒と接してほしいと思います。
教師にとって生徒は何人もいるでしょうが、生徒にとっては「○○先生」は唯一の存在なのです。
たとえ複数担任であっても「先生」の役割の重さには変りはありません。

 養護学校の先生も普通校の先生も条件はは異なるでしょうが「人間を育てていく」原点は一つ。
そこに立ち返っていただきたいと願ってやみません。

                                            つづく


  

  写真と記事はまったく関係ありません(笑)

  





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パネルディスカッション 🌹 プロローグ

2018年06月15日 | 日記
数日前にパネルディスカッションがありました。

障がい者団体の総会で、毎年チョット著名な方に講師をお願いして「公開講座」っぽいことをおこなうのですが、
「長年親しくしていてもじっくり語り合うことないね・・・」ということで、
仲間同士でパネラーになり「改まった話」をしました。

最近このブログの読者が増えてますが、「岡田なおこって、どんなヤツ?」と思われる方もいるでしょうし、
この際(笑)知っていただきたいので、パネルディスカッションの台本から抜粋して、書くことにします。

まずは「プロローグ」 👧 

●「自立心」が芽生えたきっかけ

父の姉がポリオの後遺症で片麻痺でした。時代的に仕方ありませんが、家にいるおばちゃんに私は違和感を覚えました。
伯母は体のハンデは軽く、何でも普通にできるのに、親のベッタリくっついている。
他のおばさんたちは学校に行き、仕事を持っている。結婚してママになる人もいるのに、なぜ・・・?

私は自分の障害を認識する前に、伯母の存在が不思議でたまりませんでした。

そういう背景があって、両親や母方の親せきは「なおこは普通に育てよう」としてくれたのだと思います。
とりあえず何でもチャレンジ、失敗したら、別の道を探せばいい・・・といった環境で育ちました。

そののちに社会で活躍している障害者の先輩に出会い、「自分の意志で生きることは素晴らしい」と痛感しました。

そして「我が家なりの自立生活をしよう」ということになり、最初は取り壊す予定の祖父の家(ボロ家)で一人暮らしをスタートさせました。
そのボロ家が予定より早く壊すことになりましたが、「せっかくスタートさせたのに親元に戻るのはもったいない」ということで、
ご近所のワンルームを借りて、世帯分離もして「自立生活」の修行を続けました。
15年くらい前に自宅を少し直して、二世帯住宅のようにして、現在に至っています。


●「職業を持ちたい」という気持ち

家に閉じこもっている伯母への反発から「外に出て職業を持ちたい気持ち」が強くなりました。
しかし当時の私の状態では選択肢が少なく、消去法で選んだのが「作家」でした。
それは夢のような話で馬鹿にされることもありましたが、10年間勉強してデビューすることができました。

障がい者の仲間やボランティアさんたちも祝ってくれましたので、それを花道にして障害者団体の活動を卒業するつもりでした。
ところが母に「これからは、今までお世話になった地元に恩返しする番ね」と言われ、深みにはまった気がします。
 
母は「親の会」などで活動していましたが、私の活動も手伝ってくれて、家族で成長できたと思います。
特に「何でも自分でやるんだ」と意地になっていた伯母が仲間と助け合うことを知り、
「ボランティアの皆さんには頭がさがる」
「自分も仲間のお手伝いができる。社会の役に立っている気がして、うれしい」と言っていました。

亡くなるまでの数年間でしたが、伯母は素晴らしく変貌しました。
その姿を見て、私は、
「『自立』とは職業を持つことではなく、社会とつながること・仲間がいること。生き甲斐を持てること」だと確信しました。
 
「自立」というとむずかしそうで、その言葉で敬遠されがちですが、とてもシンプルなことではないでしょうか⁉

私はどんな状況でも「社会とつながっていたい」と思っているし
常に「生き甲斐・わくわく感」を持っている人間でありたいです。
                                                  つづく


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