奈良散策 第457弾
5月22日に家族と大和郡山市の南端にある額安寺(かくあんじ)に行ってみました。
ちょっと前にテレビで大安寺をやっていたのですが、その時、大安寺は聖徳太子が学問道場として建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)の後に建てられた寺が大安寺の前身になるという話がありました。額安寺は熊凝精舎の跡地に建てられた寺として知られていたので一度見ておこうと思って行きました。
正面の門は閉まっていて、横にある受付から中に入ることができます。
中はこぎれいなお寺でした。
ここが本堂です。中には十一面観世音菩薩像、帝釈天立像、梵天立像などがありましたが、重文の虚空蔵菩薩半跏像は奈良国立博物館に移したとのことです。
市の指定文化財である宝薩印塔は鎌倉後期の作だそうです。
これも変わった形をしています。
額安寺の隣にある推古神社に行ってみました。この辺りは額田部寺町という地名のところですが、推古天皇は額田部皇女と言われ、この辺りの出身だと考えられているようです。
これが本殿です。
これは摂社・末社の天明大明神。
それから、境内にいたテングチョウ。
ここからさらに北に向かって歩きました。途中で見つけたベニカミキリ。
少し歩いたところにお墓があり、ここにあるのが鎌倉五輪塔と言われている鎌倉後期につくられた重文のお墓です。一番左が鎌倉後期に額安寺を再興させた忍性のものだとされています。
そのすぐ近くには額田部窯址がありました。ここは鎌倉時代に額安寺の瓦を焼いたと言われている場所です。
額安寺に戻る途中で見つけたテイカカズラです。
それからヒルザキツキミソウ。
これはGoogle Mapによれば寺町地蔵尊と書かれている場所です。
これはカキツバタなのかなぁ。これで額安寺周辺を一周したことになります。
雑談)額安寺について書こうと思ったのですが、どうしてここが大安寺の前身なのか、ここが本当に熊凝精舎の跡なのか、国宝の「額田寺伽藍並条里図」にある「額田寺」との関係はどうなのかという点がはっきりしません。そこで、星野良史、「大安寺の熊凝草創説話について」、法政史学39、44(1987)を読んでみました。星野氏の説では、やはり熊凝精舎の跡地に額田氏の氏寺である額田寺が建てられたようです(額田寺は8世紀後半に描かれた「額田寺伽藍並条里図」に載っています)。その後、大安寺を平城京に移転するときに大きな貢献をした額田氏である道慈がこの地域に住んでいたことから、額田寺縁起が大安寺縁起に組み入れられたのであって、額田寺あるいは熊凝精舎は大安寺とは関係ないという説のようです。額田寺(いつから額安寺と呼ばれるようになったのかはよく分かりませんが)は平安時代に一時衰えたのですが、その後、鎌倉後期に叡尊と忍性により再興されました。その後、再び、衰退し、豊臣秀吉により塔を四天王寺に移され、ほとんど廃寺同然になりました。昭和になってから、前々住職の喜多亮快師が自力で復興させたものが現在の額安寺であるそうです。
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