![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/a0/5a0dec334d9507fc041c845ce75be59c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/a0/5a0dec334d9507fc041c845ce75be59c.jpg)
『イーダ』でアカデミー外国語映画賞を受賞したポーランドの名匠パヴェウ・パブリコフスキ監督が再び傑作を撮った。第2次大戦後、共産主義の台頭によって祖国ポーランドを追われた男と女がヨーロッパを放浪し、逢瀬と別離を繰り返すラブストーリーだ。
1949年、戦後復興只中のポーランド。国策で作られた民族舞踊団でヴィクトルとズーラは出会った。素晴らしい歌声を持ったズーラとその才能を見出したヴィクトルは程なくして激しい恋におちるが、時代がそれを許さない。前作『イーダ』に引き続きウカシュ・ジャルが手掛ける美しいモノクロームの中で、ズーラ役ヨアンナ・クーリクは祖国も家庭もかなぐり捨てたくなるような眩さを放つ。2人の愛は時代を凌駕し、その苛烈さは極まっていく。
実に15年間にも及ぶ物語だが、パブリコフスキ監督はあらゆるディテールを削ぎ落し、凡百のメロドラマになる事を避けた。時代も場所も超えた2人を結びつけるのは劇中で歌われる愛の歌だ。痛切な歌詞に2人の心情を託し、映画そのものが1曲のラブソング・ミュージカルとなっている。
聞けば本作はパブリコフスキ監督の両親がモデルになっているという。奇しくも同年、オスカー外国語映画賞を競ったアルフォンソ・キュアロン監督『ROMA』もまた育ての母が主人公であり、どちらも記憶と想像から生まれたモノクロームの幻想である。
そしてどちらも個人史に終始せず、過去の出来事から現在を見据える。終幕、ズーラは言う「あっちへ行きましょう。景色がきれいよ」。
共産主義に蹂躙されたポーランドの負の歴史を描く筆致には同郷の巨人アンジェイ・ワイダを思い出した。一陣の風が吹いた後、映画は幕を下ろす。物語のエピローグは本作『COLD WAR』の誕生そのものであろう。
『COLD WAR あの歌、2つの心』18・英、仏、保
監督 パヴェウ・パブリコフスキ
出演 ヨアンナ・クーリク、トマシュ・コット、アガタ・クレシャ、ジャンヌ・バリバール
![]() | Cold War (Original Motion Picture Soundtrack) |
Marcin Masecki Joanna Kulig | |
Editions Milan Music |
盆だ!クリスマスだ!正月だ!
2019年にハリウッドが大枚叩いて東映怪獣祭りをやるなんて、誰が想像しただろうか!
ギャレス・エドワーズ版『ゴジラ』では申し訳程度だった伊福部サウンドも今回は高らかに鳴り響き、なんとモスラのテーマ曲まで流れる。近年、この手のバーサスものは予告編で盛り上げておきながら、いざ蓋を開けてみるとちょっと小競り合いをしてすぐ共闘という腑抜けた展開が多かったが(ザック・スナイダー、君のことだ!)、さすが怪獣王は容赦ない。最強の敵キングギドラと実に3回戦にも渡ってやり合ってくれるのだ。しかも所々でラドン、モスラの乱入もあり、プロレス興行としても抜かりなし。「人間ドラマがダル過ぎ」なんて声もあるが、オマエらいったい何を見に来たんだ!そんなのどうでもいいんだよ!脚本も手掛けたマイケル・ドハティ監督、怪獣愛にあふれた仕事っぷりで好感が持てる(『攻殻機動隊』の川井憲次のようなベアー・マクレアリーのスコアがいい)。
人間ドラマなんてどうでもいいとは言ったが、怪獣に劣らぬオールスターキャストである。ヴェラ・ファーミガ、カイル・チャンドラーら渋い演技派を筆頭にサリー・ホーキンスやチャン・ツィイーまで登場。謙さんは作品のスピリットとも言える堂々たる存在感だ。『シン・ゴジラ』では石原さとみがしきりに「Godzilla」と連呼していたのに対し、謙さんが唯一人「ゴジラ」と言い切っているのも可笑しい。そして主演はNetflixの人気SFドラマ『ストレンジャー・シングス』のミリー・ボビー・ブラウン、悪役は大ヒットドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の重鎮チャールズ・ダンスである。むしろ彼らのネームバリューで薄くなりがちな人間ドラマに厚みを持たせたと言っても過言ではないだろう。ここでも「映画だけ見ていてもエンターテイメントのトレンドは押さえられない」という現象である。
せっかくイレブンことミリーちゃんを抜擢してくれたのだから、彼女が超能力でキングギドラを操ってゴジラと戦ってくれたら良かったのになぁ…ってそれだとガメラになっちゃうか!
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』19・米
監督 マイケル・ドハティ
出演 カイル・チャンドラー、ヴェラ・ファーミガ、ミリー・ボビー・ブラウン、サリー・ホーキンス、チャールズ・ダンス、デビッド・ストラザーン、渡辺謙、チャン・ツィイー
シャーロット・ランプリング主演『さざなみ』で注目されたアンドリュー・ヘイ監督の最新作。
ウィリー・ブローティンの原作小説を基に少年と馬の孤独な旅路を描いた本作は、いわゆる青春映画の域に留まろうとしていない。ある事件をきっかけに社会からこぼれ落ちてしまった主人公チャーリーはこの世の無慈悲さ、不寛容さをあらかじめ悟っていたかのようだ。母親の姿はとうになく、父は優しいがほぼネグレクト状態にあり、学校にも通わせてもらえない。福祉の無力な介入はこれまでも何度かあったのだろう。度々、保護されるが彼は何の相談なくも逃げ去る。根本的にそれらを信じていないのだ。
孤独なチャーリーの旅路に彼の成長を助ける善意ある大人は現れない。大人達は皆、疲れ果てている。デブラ・グラニク監督『足跡はかき消して』同様、アメリカの辺境から断絶と貧国、絶望が浮かび上がる。アメリカ映画のメインストリームでは描かれない、もう1つのアメリカの姿。そういった意味でも英国製作の本作は”アメリカ映画”と呼んでいいだろう。ヘイ監督は『さざなみ』で老練と言っても良い演出手腕を発揮したが、意外や73年生まれ。本作の後に続くTVシリーズ『The OA』シーズン2でもゲスト監督として少年達の刹那的旅路を瑞々しく活写していた。
この世から隔絶された少年と馬の旅路はアメリカ文学界の巨匠コーマック・マッカーシーを彷彿とさせるが、決定的な違いはチャーリーが馬リーン・オン・ピートに跨らない事だ。チャーリーはピートを愛し、心を通わせるがそれは異者としてではなく、自身との対話にも見える。終幕、ようやく安住の地を見つけたチャーリーは所在ない、戸惑いの表情を見せる。ピートの喪失はもう決して戻らない、少年時代の終焉でもあるのだ。
『荒野にて』17・英
監督 アンドリュー・ヘイ
出演 チャーリー・プラマー、スティーヴ・ブシェミ、クロエ・セヴィニー
イタリアの俊英アリーチェ・ロルヴァケル監督、『夏をゆく人々』以来4年ぶりの新作は再びカンヌを席巻し、脚本賞を受賞した。
舞台はイタリアの寒村。そこは侯爵夫人が支配し、小作人達が農作業に勤しむ。彼らの生活は厳しく、裸電球を部屋から部屋へと付け替えて使わなくてはならない程だ。これはいったい何時頃の話かと首を傾げると、侯爵夫人の使いは携帯電話を持っている。何時とも何処とも知れない叙述がロルヴァケル特有のマジックリアリズムだ。
村のあちこちから”ラザロ”という声が聞こえる。それは聖なる祈りではなく、青年ラザロを呼びつける声だ。彼は村一番の働き者で、何を言われても嫌な顔ひとつせずに引き受ける。人間という生き物は怖ろしいことに相手が反抗しないとわかると何をしても平気だと思い込む。そしてこれは社会の搾取構造と同じだ。権力者は奴隷の下にさらに身分の低い、差別される存在を作る事でコミュニティのガス抜きを行う。移民という仮想敵を作る手口が世界中に蔓延しているのは周知の通りだ。
ロルヴァケルはこの物語を”26人の富豪が全人類の半分38億人と同額の資産を持っている”という、NGOオックスファムの報告から着想を得たという。映画は中盤、まるで白昼夢のようにふわりと時間も場所も飛び越え、予想外の展開に突入する。侯爵夫人から解放されてもなお村人達は社会の底辺から這い上がる事はできない。社会の不寛容さが人々を断絶し、格差の溝を埋める事を妨げるからだ。2018年のカンヌはこの”断絶”というテーマで一致した。グランプリ受賞作『ブラック・クランズマン』が人種の断絶を映し、パルムドール受賞作『万引き家族』は本作と同じメッセージである。作家性の違いによって全く異なる映画に仕上がるのが面白い。
聖なるラザロの末路に深い息が漏れる。僕らはいったい何を失くし、どこに来てしまったのだろうか。
『幸福なラザロ』18・伊
監督 アリーチェ・ロルヴァケル
出演 アドリアーノ・タルディオーロ、アニェーゼ・グラツィアーニ、アルバ・ロルヴァケル