「1Q84 BOOK2 〈7月-9月〉」村上春樹 2009新潮社
BOOK1の第1章「見かけにだまされないように」とあるが、
この作品自体は、見かけではなく表現にだまされないようにだな。
登場人物が言ったこと、考えたことは全て主観的なものであり、
作品としてはどこのどれでも、いつでもひっくり返せるものなんだよと。
物語は展開していくのだが、
疑って見るほどに、真実はどんどん見えなくなっていく。
「う~ん、もっと読みたい!先を見せろ!じれったい~どうなってるのさ!」
第1章
「でもこれは物語じゃない。現実の世界の話よ」
「誰にそんなことがわかる?」
第3章 ほら~あゆみ(婦人警官)死んじゃった!青豆って迂闊なんだよ。で、まあ、当然青豆のこともばれているはずなんだけど、主要キャラクターには手が出せない力が働くのだよ。
第6章 私ならとりあえず牛河に「そういうことなら、その300万円は3億円にならないか」と訊いちゃうな~
第7章 ・・・”この二人組はアマチュアだ”・・・うわ・・・女性用品でごまかす方がアマチュアっぽいんですけど。”祈るしかない、祈りは効くとわかっていた”・・・このご都合主義が通用するという事はやっぱり青豆が天吾の(未完成心中)作品の中にいるという証拠と考えればいいのだろうか。
第8章
「あなたは何ものでもない」
人から愛されることで自分を愛する事を知る。って言うけど、逆だと思うよ。でも、それって卵が先か鶏が先かの問題かな。ああ、でも、親子に関して言えば、親が子供へ与えるのが先だろうね。
第13章 語ってしまうこと、知ってしまうこと、それによって行動の意味が変ってきてしまうのだね。仕置き人的な仕事が、【契約】になってしまった。(第17章で「約束」として表現されるが、第21章で青豆は【契約】と認識している。命を差し出す同意として)リーダーの語ったことがどこまで真実であるのかそれはわからない。そして、どの部分が契約となっているのかも。
リーダーの目的、あるいはその裏でリトル・ピープルの思惑が働いているかも。
ふかえりは本当に反リトル・ピープル的な存在(力)なのか。
パシヴァとレシヴァ、マザとドゥタ、リトル・ピープルの通路を考えると、それは単純に対立関係にあるとは考えられないのだった。(そんなものであって欲しくない)
第19章 『空気さなぎ』の梗概
リーダー同様に天吾もレシヴァである。ならば、彼と惹き合う青豆はレシヴァとしてリトル・ピープルは何かに利用しようとしているのではないのか。やはり、対立と見せておいて裏で繋がっているのだろう。その中心はやはり、ふかえりなのか。
第23章 もう一度非常階段を通ってやるわ!「1984(いくわよ)」・・・あ、非常階段が無い・・・
青豆は死んでしまったのか!?(んなわきゃない)