ルドルフ・シュタイナー
wikipediaを見るとやっと納得できる。
とりあえず「真実」ではなく「希望的想像」
軽度の障害児が、そこそこ立派になったが評価されず。
40歳くらいからオカルトで注目を集めて調子に乗る。
注目されるべき成果もあるかもしれないが、
社会の評価は概ね正しいと思える。
「テオゾフィー 神智学」ルドルフ・シュタイナー
松浦賢訳 2000柏書房
もっともらしい言い方をしているのだが、全ては取り繕いと思える。訳者も「わかりづらい言い回しが多い」などと言っているが、まさにそれが主張の信憑性の薄さを証明している。『信じろ、とにかく何でもいいから俺の言うことを信じろ』という繰り返しが、その胡散臭さをさらに増す。前提となる『人間の本質における3つの側面、Leib、Seele、Geist』についての説明は単に決め付けであってどこにも証明はない。そして、『先入観や仮説は誤解を生む』として疑問を持つことを認めない態度を取る。「はじめに」で書かれている態度とは間逆な表現である。訳者がへたくそなのか?とにかく、この大前提の部分がご自分でも仮説であるために、その後の全てが説得力を失う。
まあ、「認識の小道」では「信じるな、自分で考えろ、自分の中に見つけろ」と副島先生みたいなことを言うわけですが、これは批判なんかを避けるために書き足した部分なのではないだろうか。
原始的な錯誤と誤謬を認めずに解説して真実と思わせようとする。「~と言えます」「~と考えることができます」などと書いてある部分は『本当にそうなのだろうか』と読み直してみればいい。ほとんどが『それは違うだろう』と言うような3段飛び決め付け論法になっています。「真実なのです」と書かれていれば、それは「嘘です」に等しいだろう。
文中にある反論への反論では、シュタイナーに対する反論のほうが説得力があるのはギャグとしてみれば面白い。言い訳が必死すぎて笑えます。で、しまいには「信じないと理解できないぞ」と脅してごまかすんですから。
《Leib,Seele,Geist》を《体、魂、霊》とせずに、《感覚器官、各種脳部位による総合的判断、大脳皮質への記憶》とすれば、脳に障害を持った著者が自分の脳の中で起こっていることを観察し、それを系統立てて説明しようと試みたと見ることもできる。そして、その後の説明にそれぞれを当てはめて読んでいくと、それなりに納得できる形に思えてしまうのだ。
脳の障害によって起きた体験を正当化したいという願望が生み出した妄想と空想。その材料を哲学や宗教の中に求めた。のではないか。脳の働きに詳しい人に検証してもらいたいものだ。
答えは注釈の中にある。「別の考え方を探さなくてはなりません」と、探した考え方であることを示している。決して「真実」ではなく、「思考」によって組み立てただけなのである。
訳者の解説にも「常識な現代人に思考の訓練をさせること」だとも言っている。あはは、いいのかいな。それだったら、もう少しそれらしい訳し方をすればいいのに。
ある意味、盲目的に信じるような人間を排除するための選別をするための本とも言えるかもしれない。本当に「目覚める」様な人間であれば、その「思考」でこの本がそういった目的を持つことに気付くはずだということで。批判的な人間の中にこそ、求める人間がいるということではないのか。訳者あとがきもその目的に合致した形で書かれています。わはははは。
「いかにして高次の世界を認識するか」ルドルフ・シュタイナー
松浦賢訳 2000柏書房
あああ、この本にあることを実践した人間はどういう風になっていくだろうか。それを考えると目的が見えてくるのではないだろうか。オウム真理教がやったのはこれと同じようなことではなかったか。操りやすい人間を作って自分に頭があがらないようにしていく。そこから搾取することは簡単だろう。どんどん講演を増やして儲けていく姿が目に浮かびますね。
いかにも素晴らしい世界へ導いてくれそうな、人間としての成長を助けてくれそうに見せかけて、その実、死後の世界を信じさせることによって現世でのことはいかようにも説得できる素地を作り上げる。
脳を騙す訓練ですね。
境域の守護者が現れたら、説明を始めた途端に頭を引っぱたいてやりたい。
高次世界からの知識による現世利益はないわけです。
誰にでもできる、なれると甘い言葉で誘っておいて、実は大変なんだ、途中でやめると危険だよと脅す。必ず上級者から教えを受けろと言っておいて、最初から目覚めている人間もいるという。それであれば、必要な人間は最初から目覚めて生まれるだろう。目覚めていない人間はその必要がないから目覚めないのだから、そこに誘うこと自体がおかしな話なのだ。その後の作品の中で宇宙の進化と言う話になっていくらしいが、そういうレベルで見れば尚更、必要になれば目覚める人間は自然と増えるはずだと思えるではないか。死後の世界があって生まれ変わっては必要な成長をしていくのならば、それこそその成長を待てばいい話しになる。充分に成長していない人間には伝えられないというのであれば、そのこと自体こうして伝えることに不都合はないのか。
っていうか・・・エゴイスティックなことを批判的に書いている部分が多々ありますが、高次の世界を認識したいという願望こそがエゴイスティックな欲望に根ざしているとはいえないだろうか。
どちらもね、「思考」訓練を兼ねた道徳本として読めばいいのかもね。