「レ・ミゼラブル 5」ユゴー1862 1967新潮文庫(2012年、44刷改版)
第5部 ジャン・バルジャン
読者には不要な表現や解説が、その登場人物たちをその社会の中に溶け込ませ、人物ではなく時代を描き出していくのかなんて気障なことを考えた自分が恥ずかしい。やっぱり、いらない歴史や情景描写が多過ぎるわ。下水は『未整備』で『深淵』で『危険』で充分。
で、この作品を今風に構成し直すとしたら、この下水道を使った逃走場面から始まるだろうね。そうなれば下水の解説も多少は自然に挿入できるわ。で、どんどん過去を回想していくわけだ。
それにしても、ジャン・バルジャンが死んじゃうのに、全然感動しないのはなぜか。
やっぱり「レ・ミゼラブル」だからだろうか。
あ、ユゴーはそういう計算をした上でストーリーはわかりやすく面白く展開しているのか。
でも、児童書とか漫画では感動した覚えがあるぞ。
最初に読んだ一般書では幼すぎて理解できなかったけど。
うん、やっぱりそうだよ。
作品自体が「レ・ミゼラブル」であることを計算してあるんだ。きっと。
マリユスとコゼットはもうどうでもいいわ。
ジャヴェールとテナルディエ一家にもっともっと活躍してもらいたかった。(作品のまとまりからすると充分なのだろうけど)
ああ、ジャンが金を隠していたところを見つけそこなったブラトリュエルも、2回しか登場しないけど「泥棒!」のギャグが好きだな。
ジャン・バルジャン!結局、マリユスへの告白も悩みを押し付ける嫌がらせだし、良心に従う態度も言い訳もジャヴェールの自殺と同じ。大切なもの、コゼットの幸せを中心に考えれば、そこは自分の中で押しとどめて、自分が良心の呵責に押しつぶされようとも、真実は墓場まで持って行くべきだった。要は、ジャンが自己中心的な人間のままであった証明になる。潔癖な聖人に生まれ変わったつもりになった、自虐趣味の変態爺に過ぎないのだ。
まあ、それもテナルディエがマリユスに真実を伝える展開のためにそうなったんだろうけれど、自己犠牲が美しくないわ。
ジャンがコゼットを失ってやつれて死んでいくのも、自己犠牲というよりも自虐だよ。コゼットの気持ちとか考えていないし。まあ、家族を持たなかったジャンが理解できなかったということなんだろうけど。結局自分で勉強をしたといっても、その程度にしか考えてはいなかったということだ。それはジャヴェールやマリユスと同じようなものだ。その他の同時代の価値観を持つ者たちと同じだ。はみ出して思考のチャンスに恵まれながら、それを活かすことのできなかった愚かでみじめな「レ・ミゼラブル」社会のルールから逃げながら、意識と思考の中でその縛りから逃れられなかった。社会が許さなくてもコゼットとマリユスに許されて死んでいく?おいおい、自分で許すことはできなかったのか。社会の間違いに気付いて受け入れられずに自殺したジャヴェールにも劣らず、自分の存在に苦しみ続けたのか。第一部で良心の目覚めで苦しんだ時から、少しも成長することなく苦しみ続けていたのか。自分を最後まで許さなかったジャン・バルジャンを私は許さない。
ジャン・バルジャン、最後にしゃべりすぎ。
解説P541 「レ・ミゼラブル」には『虐げられる人々』と『虐げる人々』の意味がある。
感動好き、ストーリーを楽しみたい人は、児童書「ああ、無情」か漫画で読むことをお勧めする。
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