前号では、天正12年(1584年)、雑賀衆などの紀州からの連合軍による岸和田城への襲撃の際、突如現れた蛸に乗った法師とそれに続く蛸の大群が連合軍を退却させ、岸和田城が守られたという伝説と、それにまつわる寺「天性寺(蛸地蔵)」を紹介した。
その後も秀吉との交戦は続く。天正13年(1585年)2月、秀吉は家臣である小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に、毛利水軍を岸和田へ派遣するよう命じ、3月9日、貝塚の寺内に禁制を発行し安全を保障。
秀吉は根来寺に使者を派遣し和睦を提案するも、和睦の反対派が使者の宿舎に鉄砲を撃ちかけたことで交渉は決裂。秀吉による紀州への侵攻(紀州征伐)が始まる。
3月20日、秀吉は10万もの兵を率いて出陣し、翌21日、岸和田城に入る。
多数の軍船を揃え、海陸両方から紀州に攻め込む戦法をとり、対する根来衆や雑賀衆は9千の兵で迎え撃つこととなる。
まず、紀州側の防衛線で、根来寺の支城、現在の貝塚市橋本付近にあった「千石堀城(せんごくぼりじょう)」に攻め込む。城兵による弓と鉄砲に阻まれ、秀吉側の軍勢で1時間余りで千人の死傷者を出す攻防戦となったが、城内に射った火矢が火薬庫に引火し城は炎上。
それが起因となり、その他の支城も落城を迎える。
和泉の制圧を受け、23日、秀吉は岸和田城を出立し根来寺へ向かう。
根来寺では戦闘する者は少なく制圧。その後出火し3日間燃え続け、それは貝塚からも見えたという。
日を同じくして粉河寺も炎上。24日には秀吉が紀の川の北岸から現在の和歌山市へ進軍。
紀州側の軍勢は船での脱出を試みるなど大混乱となり、雑賀衆の残党による太田城の籠城も水攻めで落城。
紀南方面への制圧も進み、紀州征伐は終わりを迎える。
(次田尚弘/岸和田市)
その後も秀吉との交戦は続く。天正13年(1585年)2月、秀吉は家臣である小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に、毛利水軍を岸和田へ派遣するよう命じ、3月9日、貝塚の寺内に禁制を発行し安全を保障。
秀吉は根来寺に使者を派遣し和睦を提案するも、和睦の反対派が使者の宿舎に鉄砲を撃ちかけたことで交渉は決裂。秀吉による紀州への侵攻(紀州征伐)が始まる。
【写真】岸和田城の天守
3月20日、秀吉は10万もの兵を率いて出陣し、翌21日、岸和田城に入る。
多数の軍船を揃え、海陸両方から紀州に攻め込む戦法をとり、対する根来衆や雑賀衆は9千の兵で迎え撃つこととなる。
まず、紀州側の防衛線で、根来寺の支城、現在の貝塚市橋本付近にあった「千石堀城(せんごくぼりじょう)」に攻め込む。城兵による弓と鉄砲に阻まれ、秀吉側の軍勢で1時間余りで千人の死傷者を出す攻防戦となったが、城内に射った火矢が火薬庫に引火し城は炎上。
それが起因となり、その他の支城も落城を迎える。
和泉の制圧を受け、23日、秀吉は岸和田城を出立し根来寺へ向かう。
根来寺では戦闘する者は少なく制圧。その後出火し3日間燃え続け、それは貝塚からも見えたという。
日を同じくして粉河寺も炎上。24日には秀吉が紀の川の北岸から現在の和歌山市へ進軍。
紀州側の軍勢は船での脱出を試みるなど大混乱となり、雑賀衆の残党による太田城の籠城も水攻めで落城。
紀南方面への制圧も進み、紀州征伐は終わりを迎える。
(次田尚弘/岸和田市)