「細久手宿」 07:10
細久手宿は1609年に大湫宿と御嶽宿の間に仮宿として設けられた尾張藩領の宿場。
かつては尾州家定本陣の旅籠であった「大黒屋」は、国の登録有形文化財に指定され、
旅館として営業をしている。第30日目の行程は細久手宿から太田宿をめざす。
「秋葉坂の三尊石窟」 07:30
細久手坂の穴観音を右手に見て、平岩の辻から県道を左手に分かれて峠道にかかる。
秋葉坂の三尊石窟は、右側の石室から、三面六臂の馬頭観音立像、一面六臂の観音坐像、
風化の進んだ石仏がそれぞれ安置されている。1700年代半ばのものだそうだ。
「鴨之巣一里塚」 07:45
山道の中に一里塚、左右一対が残っているが、微妙にずれているのが珍しい。
「くま目撃情報あり」の立札がある薄暗い雑木林の山道を進むのは心細い。
30分程の行程がずいぶん長く感じられた。
この辺りで見かける石仏はどれも積み上げられた石窟に安置されている。
急坂を下ってようやく津橋集落にでる。家々の庭先の柿の木に熟した身が残っている。
これぞ日本の山村の晩秋の風景といった感じだ。
「御殿場」 08:20
津橋集落を過ぎると再び急な坂道、今度は竹林を行く、出会う石仏はやはり石窟の中。
坂のピークは物見峠で、和宮が休息したところから「御殿場」と名付けられている。
近くにLa provinceという隠れ家的ケーキ屋さん、自然の中で美味しいスイーツを楽める。
沿道に石窟と同様しばしば見られるのが湧き清水。
唄清水、一呑の清水が湧くが、いずれにも「飲まないでください」と記されている。
広重の描いた木曾街道六十九次の「御嶽」のモデル地は謡坂の頂上付近にある。
描かれた「きちん宿」なる茶屋の場所に古い家屋が立ち、その先から急坂が落ちていく。なるほど雰囲気がある。
落ちていく旧坂は謡坂、整った石畳の道が続く。
「牛の鼻欠け坂」 09:00
御嵩町へと下りていく最後の西洞坂は “牛の鼻欠け坂” と呼ばれた。
荷物を背に登ってくる牛の鼻が擦れて欠けてしまうほど急な坂ということらしい。
中山道はこの地を境にして京方は平坦地、江戸方は峠の連続する山間地である。
なるほど牛の鼻が欠けるほどの急坂を下りきると御嵩の水田地帯が広がった。
石仏も石窟から解き放たれて路傍に在る。
「和泉式部廟所」 09:25
山を下ってきた中山道がR21に重なる地点に「和泉式部廟所」がある。
恋多き女性、三大女流文学者の和泉式部は、旅の途中で病に侵され、この地で没した。
“ひとりさえ 渡ればしずむ うきはしに あとなるひとは しばしとどまれ” と刻まれる。
「御嶽宿」 09:50 ~ 10:50
いつの間にか降り出した雨の中、御嶽宿へと入っていく。
左右の古い家並みには格子が入り、犬矢来が設けられていて、京都の匂いがするようだ。
宿場をはじめとする中山道の資料は「中山道みたけ館」で見ることができる。
「御嶽宿本陣」は明治大正期に建て替えているが、本陣の風格ある門構えを残している。
本陣の東隣で「商家竹屋」が公開されている。
切り妻型の主屋と奥にある茶室は町の指定有形文化財となっている。
本陣野呂家から分家し江戸期には商家として、明治期には金融業で栄えたそうだ。
御嶽宿の西の外れは願興寺で京方の枡形になっている。
反対側に名鉄電車の終点御嵩駅の小さな駅舎が向かい合っている。
「鬼の首塚」 11:00
御嵩宿を出た中山道はR21となる。この先琵琶湖に出会うまでのお付き合いだ。
鬼の首塚は鎌倉期にこの辺りで暴れていた関の太郎という鬼が成敗されたところ。
十返者一九もこのことを詠んでいる。
「比衣一里塚跡」 11:20
ずいぶんと激しくなってきた雨の中、中山道はR21と重なったり離れたりして西進する。
東海環状自動車道を潜る辺に比衣一里塚跡、山中と違って一里塚は残っていない。
伏見宿を目前に大粒の雨に前方が霞んだり、足を止めたりするようになる。
太田宿で木曽川との再会をめざしたが、今日は伏見宿で切り上げることにする。
「伏見宿」 12:00
R21に上書きをされてしまった伏見宿は当時の雰囲気は殆ど感じられない。
戦中まで「松屋」の屋号で醸造業を営んだ国登録有形文化財の松屋山田家住宅だけが
中山道時代の雰囲気を醸し出している。もっともこちらも大正期の建て替えだ。
建増し部分の洋風建築が郵便局となり、中山道を訪ねる旅人に憩いの場を提供している。
今では公民館となっている本陣跡には「是れより東尾州領」と刻まれた境界石が残る。
細久手宿から小さな峠を越えて御嶽宿、激しい雨の中を伏見宿まで16.6km。
第30日目は3時間50分の行程となった。