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「関山宿」 05:50
妙高山は別名「須弥山」と呼ばれ古くから修験道の道場として繁栄してきた。
関山神社は妙高山を霊山と仰ぐ修験道の道場として繁栄、境内には阿弥陀三尊像がある。
門前町兼宿場町として栄えた関山宿の規模は、旅籠14軒、他宿泊可能な家が62軒だった。
3年半ぶりの北国街道紀行は、ここ関山宿から、おそらく桜花爛漫の高田城下をめざす。
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関山宿の標高は380m、残雪の妙高山から吹き下ろす風は肌寒い。
センターラインの様に見えるのは消雪パイプ、降雪時には地下水を流して雪を溶かす。
地下水に含んだ鉄分がアスファルトを褐色に染める。ここは日本有数の豪雪地帯なのだ。
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「北沢一里塚」 06:00
西塚だけが高さ3m、原形を保ったまま残っている。塚木はケンポナシだそうだ。
一里塚を過ぎると北国街道はR18とクロスする。
左右には江戸時代に新田開発された田圃が広がる。
新井宿までの11kmで標高差320mを下る勾配はきつい。
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福崎新田あたりで妙高山を振り返る。未だたっぷりの残雪を抱えた雄姿が美しい。
天空には下弦へとむかう白い月が浮かんでいる。
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「松崎宿・二本木宿」 06:50
松崎宿と二本木宿は家並が連続している。月の半分で問屋業務を交代する合宿だ。
二本木宿の北桝方にあった石柱には旅のマナーが刻まれている。
「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず、邑の内、咥きせる無用」と。
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松崎宿と二本木宿には本陣がない。では参勤交代はどこで休んだのか。
安楽寺は庫裏に上段の間を設けて加賀藩の休憩所を担ったと云う。
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「二本木駅」 07:15
えちごトキめき鉄道の二本木駅は、新潟県内の鉄道駅唯一のスイッチバック式駅だ。
付近が約25パーミルの急勾配が存在することから設置された。
蒸気機関車が上り切れなかった勾配を北国街道は往く。
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スイッチバック線を通した築堤の先端に立つと、その先に高田平野が、さらに日本海を見渡すことができる。
中央から右手にかけて広がる高台は陣場山、上杉のお家騒動・御館の乱に乗じて、武田勝頼がここまで進入して陣を張っている。
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「藤沢一里塚」 07:50
東塚だけが残った藤沢一里塚、街道が掘り下げられているので、一段高い位置で行く先を見渡せる。
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「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたをなんじ忘られよ」と謳われた小出雲坂。
江戸をめざす旅人が坂の途中で振り返り、高田平野と日本海、米山を一望し感傷的になったと云う。
本来の松並木は現在桜並木にに代わっている。
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小出雲に鎮座している賀茂神社は、銅板で囲われた鳥居や多くの石灯篭からすると、
かなり格式の高い神社と思われるが、創建等の詳細は不明だ。
地域の産土神に京都の賀茂神社の霊が勧請されたと推測されている。
街道脇湧く名水は旅人渇きをいやしたことだろう。
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賀茂神社からの坂を下りきると飯山街道と合流する。
追分には「左飯山道・右善光寺道」(高田城下方から)と彫られた道標が建つ。
富倉峠を経て飯山に至る飯山街道(現在はR292)は、古くからの塩の道であり、
上杉軍が川中島へ向かう軍用路でもあった。右手から飯山街道が合流すると新井宿に入る。
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「新井宿」 08:30
荒井宿は住民の願いにより、天保9年(1838年) に新井宿に改めた。
本陣、脇本陣、問屋2軒は中町に置かれ、前後の上町・下町に旅籠が配されたが、
その件数は文書に残っていない。当時の旅籠は唯一玉屋旅館が営んでいる。
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「君が代の こけのむすまで まちきれず 君とくむ酒 これぞ君の井」
旧い遺構の少ない宿内にあって街道風情が偲ばれる君の井酒造、酒蔵は宿場の華なのだ。
JR東日本大人の休日倶楽部、新潟県「越後杜氏篇」のCMに登場して有名になりました。
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東本願寺新井別院には明治11年(1878年)に北陸行幸にあたって明治天皇が宿泊されている。
この際、関山宿にあった宝蔵院の建物を買収して移築改修して行在所となった。
その天台様式の建物は今はない。ここまでが新井宿だ。
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新井宿を抜けると間もなく石塚一里塚跡。今では真新しい碑が建つのみである。
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石塚一里塚を過ぎると大崎集落に入る。
街道の西側を流れる矢代川の千草石を利用した石屋街が続いている。
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さてこの区間一押しの "街道めし" は、たちばなのとん汁。
豚肉・玉ねぎ・豆腐を白味噌で仕上げたシンプルな一品、玉ねぎの濃厚で甘いスープが抜群に旨いのだ。
大崎集落を過ぎたら、妙高はねうまラインの線路を越えてR292へ寄り道すると良い。
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道中絵図に「此橋稲葉候高田ノ城主タリシ時カカル、是ヨリ前ハ歩越ナリ」と瀬渡橋。
渡るのは矢代川、徒歩渡しの頃は難所だったことだろう。
上流に見えるのは北陸新幹線、今では "かがやき" と "はくたか" が東京と金沢を結ぶ。
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「伊勢町口番所跡」 10:05
瀬渡橋から2kmほど北上したR292の高田新田交差点が伊勢町一里塚跡になる。
高田城下の南入口であるここには番所が置かれ、目付が通行人を調べた。
城下へと入る旅人はここで馬を降り、くわえ煙草を禁止された。
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伊勢町番所跡から雁木通りが始まる。雁木(がんぎ)とは、家の前に出した庇を云う。
雁木通りは、道路沿いの家々が庇を伸ばして冬の積雪時の道路を確保する雪国都市形態。
高田には総延長16kmもの雁木が残り、その長さは日本一と云われる。
雁木の北国街道は、南本町2丁目交差点で直角に西へと折れる。城下を通さないためだ。
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700m続く南本町通りの中程に、江戸初期から粟飴を商った高橋孫佐衛門商店が在る。
寛永元年(1624年)創業の飴屋は、十返舎一九の「方言修行金草鞋」に絵入りで紹介され、
夏目漱石は「坊ちゃん」の中で『越後の笹飴が食べたい』と乳母の清に言わせている。
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北国街道は本町1丁目交差点で右に直角に折れ、再び北へと向かう。
本町通りとなった2kmの直線が高田宿である。
駅周辺の一部が瀟洒なアーケードに代わっている他は延々と雁木が続く。
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北国街道の1本東を並行する大町通りに、旧日本陸軍高田第13師団長官舎がある。
明治43年(1910年)に長岡外史中将によって建てられた明治期の洋風木造建築物だ。
銅像の長岡外史はオーストリアからレルヒ少佐を招き、日本にスキーを発祥させた人物。
次の師団長は「坂の上の雲」の主役である秋山好古だ。
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これまた雁木通りの大町通りには、二七の市、四九の市と二つの朝市が立つ。
野菜をごっそり並べた八百屋、海産物の加工品を扱う乾物屋、直江津港で揚がった鮮魚、
地面にゴザを敷いた農家のおばちゃんたちの店が軒を連ねる風情は情緒がある。
ただこの朝市は街道時代からのものではなく、高田第13師団を誘致した後の開設だ。
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「高田宿」 11:00
本町7丁目交差点は筋違いの交差点は北国街道追分、北国街道の終点になる。
左、江戸方から来る北国街道が、右(写真手前)に折れて東へ向かう北国街道奥州道、
出雲崎まで延びる佐渡金山からの御用金を江戸へと運ぶ道だ。
左(写真奥)に折れて西へ向かうのは、加賀街道、前田家参勤交代の道だ。
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高田城址ははたして桜花爛漫、上杉謙信・景勝が治めたこの地に、徳川家康六男の
松平忠輝が75万石の太守として封じられたのが高田藩の始まり。
しかし忠輝は大坂夏の陣への遅参や家老の失脚により異母兄・秀忠に改易させられる。
親藩大名の治世が続けば、高田は日本海側にあって金沢に並ぶ都市になったかも知れない。
妙高山麓の関山宿から、松崎宿・二本木宿、新井宿を経て高田宿までは、21.6km。
中山道を追分宿から分かれた北国街道紀行を終える。
この先加賀街道を往くか、北国街道奥州道を往くかは未だ決めていない。 了
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