旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

中山道紀行4 浦和宿~大宮宿~上尾宿

2010-12-31 | 中山道紀行

「浦和宿」 11:40
 浦和宿を出た中山道は京浜東北線をオーバーパスし線路を左手に見て北上する。
与野からさいたま新都心にかけては、およそ500mにわたって欅並木が続く。

新都心の手前、高台橋跡にお女郎地蔵がある。
石仏には、大宮宿で借金の形に身を沈めた姉妹の女郎の悲話が刻まれている。

右手に見えてくるのは武蔵一の宮・氷川神社の一の鳥居。元々は参道が中山道であった。

「大宮宿」 12:30
 大宮は氷川神社の門前町として賑わった。
寛永5年(1628年)、参道の西側に新たに道筋を改め、設置されたのが大宮宿だ。
その大宮宿には旧い遺構は何も残っていない。本陣跡は大宮高島屋になる。

 大宮を出てからも何の見所もないままひたすら歩くのみだ。
時折緩やかにカーブする道筋、加茂や南方など大きな神社の存在が中山道を想像させる。

「上尾宿」 15:40
 氷川鍬神社は、正面に本陣が左右に脇本陣を従え建っていた上尾宿の中心地になる。
第4日目は、浦和宿から氷川神社に寄り道して大宮宿、退屈な道筋を上尾宿まで12.7km。
新年を迎える準備に忙しい町並みを抜けて、約4時間、大晦日の行程でした。


中山道紀行3 蕨宿~浦和宿

2010-12-25 | 中山道紀行

「蕨宿」 12:50
 中山道など五街道が整備されたころ、当初は板橋宿の次は浦和宿だった。
両宿の距離は約14.4kmと遠く、しかも間に戸田渡しが増水で渡れない場合もあったため、
蕨宿が慶長17年(1612年)頃整備されたそうだ。
平坦な場所に立地しているため、宿場の周囲には堀を廻らせて防御としたと云う。
蕨宿の広がりは十町(約1㎞)ほどで、道幅は六間(約11m)と広い。
宿場の規模は江戸近郊部では浦和宿や大宮宿を凌いで最大であった。

「辻一里塚」 13:30
 第3日目、蕨宿から浦和宿の道のりは、これといった見所の少ない区間だった。
蕨宿を出るとすぐにR17とクロス、しばらく進めて外環道の直下が辻一里塚跡だ。

さらに六辻でもう一度R17とクロス。写真左手前から右へ延びるのが中山道。
R17との交錯は、きっとこの先何度も繰り返すことだろう。

「焼き米坂」 14:10
 R17とクロスすると緩やかな上りとなる。そしてJR武蔵野線を越える辺りが焼米坂。
籾のままの米を炒ってから搗いた焼米は、おやつや携行食にしたそうだ。
なんともかわいらしい名前の坂道だ。

「調神社」 14:25
 焼米坂を上りきるとやがて右手に見えてくるのが調(つき)神社。
地元では「つきのみや」と愛称され、鳥居のない神社として知られている。
月の動物・兎が神の使いとされ、狛犬の代わりに石像、彫物、絵馬などに現れる。
御祭神は天照大御神、豊宇気毘賣神、素盞嗚尊の豪華なクリーンアップトリオ。
我が家が初詣に出かけるのもこの神社だ。

「浦和宿」 14:50
  浦和宿は日本橋から3番目の宿場、本陣1、脇本陣2、旅籠15軒とかなり小さな宿場だ。
宿並の外れでには、浦和宿二・七市場の碑。「碑」なのか「跡の碑」なのか判らないが、
刻まれた年は天正18年。なんと小田原攻めの年だ。
蕨宿から浦和宿へは5.4km、所要2時間のちょっと短い散歩のような行程だった。


古の百済の都「扶余」へ小さな旅 

2010-12-18 | にいがた単身赴任始末記

 海外旅行に出ると定番のコースを外れて、必ず “小さな旅” をする。
今回は古の百済の都「扶余」を訪ねた。雪の龍山駅からKTX湖南線で西大田へ60分。
大田郊外のバスターミナルから高速バスに揺られて80分。
もうハングルしか通用しそうもないローカルな風景の中に降り立つ。

 北側と西側が錦江を臨む扶蘇山は王都(扶蘇山城)のあった所。
発掘調査に基づいて再建された「迎日楼」。王が朝日を拝したという。
降雪後の凛とした空気の中に60分ほどの散策を楽しんだ。

 大田に戻ったもののKTXは次の便が満席。2時間後の便に席を確保して夕食をとる。
路地をぶらぶらしながら地元っ子で賑わう焼肉のお店を品定めする。
上質な炭火焼骨付きカルビにビールと焼酎をたらふく楽しんで2人で3,000円弱。
ソウルとはまるで物価が違うことに驚きつつ大当たりの夕食だ。
復路は二等車(グリーン車に相当)を利用したがそれでも2,000円ほど。
横2+1列の広いシートでぐっすり休んで龍山駅20:00着。きままな“小さな旅”を楽しんだ。

この胸のときめきを / エルビス・プレスリー 1970


単車でGO! 越後七浦シーサイドラインを駆ける

2010-12-11 | にいがた単身赴任始末記

快晴の日曜日。しばらくシートを被りっぱなしだった750CCを起こして海岸を走る。
R402を新潟市から寺泊へ。越後七浦シーサイドラインは風光明媚な海岸ロードだ。
今日は水平線にくっきりと佐渡島を臨む。寒さを除くと絶好のコンディションなのだ。

今年もあと10日、新巻きサケなどを求める観光客で賑わう鮮魚センターを冷やかす。
ホテル住吉屋は日本海と佐渡島を見渡せる展望風呂が自慢の温泉旅館だ。
打ち寄せる波の音、海鳥の声、漁船の音を聞きながら湯に浸かる。至福のひとときだ。

新鮮な甘エビ・ブリ・イカなどの舟盛りと、カニ汁、浜焼きが並ぶ住吉屋さんの昼定食。
寺泊漁港にその日の朝水揚げされた魚なので内容は日替わりとか。要予約。
今日は予約なしの立ち寄りで、浜焼きの代わりにちらし寿しをいただく、大満足。
帰路は行程半ばですっかり陽も落ち、アクセルを握る手が凍える。新潟の12月は寒い。
寺泊までは約50km、おそらく今年最後のツーリングだ。

<40年前に街で流れたJ-POP>
誰もいない海 / トワ・エ・モワ 1970


中山道紀行2 板橋宿~蕨宿

2010-12-04 | 中山道紀行

「板橋宿」 11:20
 中山道の板橋宿は、品川宿、内藤新宿、千住宿とともに、江戸四宿として栄えた。
なるほど江戸を発つ旅人がわざわざ日本橋に行くわけではない。
板橋から出発し、見送りも出迎えもここまでが一般的であったそうだ。
それゆえ板橋宿は酒楼や茶店、多くの遊女を抱え中山道一賑わっていたという。

「志村一里塚」 12:10
 志村一里塚は中山道の3番目の一里塚として築かれたものだ。
明治9年(1876年)の「一里塚廃毀」の法令以降、多くの一里塚が消滅するなかにおいて、
今日でも二基一対で残っている希少な一里塚で、現在は国の史跡に指定されている。
往復6車線、道幅25mの国道17号がすっぽり収まっているのだから驚きだ。

「清水坂」 12:35
 志村の立場を過ぎると清水坂に差しかかる。都営三田線が地上に飛び出す辺りだ。
旧中山道で最初の難所で志村の台地から荒川流域の低地に下る急坂で、
途中大きく曲がっていて街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと云われる。

「戸田の渡し」 13:30
 幕府は荒川架橋を禁じ、現在の戸田橋の100m下流に渡しがあり中山道を繋いでいた。
「戸田の渡し」は明治8年ここに橋が架かるまでまで続いた。
天保年間の戸田渡船場書上帳によると、渡し場は長さ70間、幅8間を十三艘で渡した。
見張所があった戸田河岸には、江戸から積んできた塩、砂糖、雑貨品などが降ろされ、
江戸へ帰る舟には、大根や漬物など、この付近の特産物が積み込まれたそうだ。
荒川を渡ると埼玉県に入る。

「蕨宿」 15:10
 右手を新幹線が駆け抜けていく戸田橋を渡り、マンションが林立する戸田市を抜け、
やがて中山道は、左にカーブする国道17号と分かれて蕨宿に入って行く。
蕨市の歴史民俗資料館は小さいながらも資料が豊富。宿場のことをしっかり学習してきた。
板橋宿から戸田渡しを経て蕨宿までは8.9km、3時間の行程。第2日目も元気に歩きました。